通勤日記(快速)

通勤日記(快速)

いざゆかん。日本の中心・東京へ



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スマホが嫌い過ぎて捨てました。


やたら私を縛り付けるスマホ。
やたら高い料金を請求してくるスマホ。
貴重なレアメタルを使いまくるスマホ。
そのせいで紛争の原因にもなるスマホ。
時間を無駄にするスマホ。
目を悪くするスマホ。
電車に乗ったときにマナーモードか気にしないといけないスマホ。
メールをチェックするとDMか会社からしか来てないスマホ。

あれ?友達いないだけじゃない?


いやいや、君たちね、、、
しょっちゅうメールくれるのが友達?
フェイスブックで近況確認するのが友達?
愚痴をきいてくれるのが友達?
必ず合コン誘ってくれるのが友達?
ゴハン食べに行くのが友達?

いや、それが友達かも。
私にもわかりません。何を友達と感じるかは人によって違うし
自分の価値観を人に押し付けてはいけないと
母親にもよく言われたものです。


ともかく
私には「それ」は友達ではないし
友達ではない人とそういった繋がりを持つのは時間のムダ。
それなら一つでも多く本を読みたい。

私にとっての友達は
2年ぶりに会っても、昨日会ったばかりかのように話す
唯一無二の存在なのだ。








スマホを手放すと
この開放感・・・を味わえる。

なぜ?
なぜスマホがないだけで開放された気分になる?


私は考えた。

まずスマホの利用目的として以下が考えられる。

・私用
・仕事
・エンターテイメント

だ。

私用については先述のとおりである。
もともと私は一人で行動するのがすきであるし
簡単に繋がれるツールをあえてなくすことによって
お手紙を書いてみようかな、電話してみようかな
などの「濃い」連絡をとれる。

電子メール一本なんて、私の大切な人をそんな扱いでいいのかしら?

そんなことを思い出させてくれる。

これをきっかけに、長く連絡を取っていなかった恩師に
お手紙を書いた。
するとお返事がお手紙できて、お食事にいらっしゃいということだった。
とても、嬉しかった。




さて仕事だが
いつ何時、会社から連絡がきて
自分の仕事に支障が!利益が!

わかる、わかるよ

私も営業をやっていたときは
会社から、お客様から連絡が来たときはすぐに出て対応したし
休みの日も気が気でなかった。

よく電車の中でも、電話がかかってきてとるビジネスマンがいるが
彼としては、会社もしくはお客様からなら
ビジネスマンは出るべし!マナーなんてなんのその!
なんだろう。

でも考えてみてほしい。

電車の中やプライベートつまり会社外で
正しく対応なんてできるのか?

パソコンもない、コピーもない、資料もなんにもない
お前は吉幾三か、という状態で
一流の対応など出来るはずもない。

だからなのか、最近は電車内でもPCを持ち込んだりして
仕事してる“風”のピジネスパーソンもいるが
社の情報を公共の場で広げるなど、言語道断である。

そもそも
会社外でも仕事をしなきゃいけないなんて
時間内に終わらない証拠をさらしているようなものだ。
キチンとプレゼンの用意をしたいのならグリーン車でやれ。


話が少々それたが
つまりできるビジネスパーソンは
スマホはいらない、ということである。(スケジュールも手帳で管理せい)




エンターテイメントについては私も苦労した。
私はゲームが大好きで
昨今はスマホゲームが大変充実しているのだ。

しかし
無制限に没頭してしまうというデメリットもある。
むやみに競争心を煽ったり
四六時中見なくてはならないものもある。

これ、時間のムダなり。

私は任天堂3D○Sのソフトを一つ買い、気分転換に
一日30分まで、として楽しんでいる。



ちなみに
私がスマホを手放そう、と決心した理由もここにあります。





あれは会社帰りの電車の中だった。。。

私はいつものように
ハンミョウに出会うためにはどうしたらいいかを考えていました。

私の前は優先席で
女性がふたり座っていました。

二人はスマホをピコピコ。
持ち方や動きからして
一人はフェイスブック等のSNS、一人はゲームでした。

うーん。。。
車内でのスマホは悪いことではない、が
ここは優先席だ。
電源を切り、取り出さないのがマナーである。

その二人はもちろん、私の隣のオジサンも
まわりの人たちも
みんなスマホをペタペタ。。。

ここで優先席でのケータイ使用についても以下のように考えられる。

・優先席とか考えたこと無い
・優先席で電源OFFルールを知らない
・知ってはいるが守らなくてもいいと思ってる
・自分の知ったことではない。みんなやってるし
・いまどきのケータイは電波とか超優れてるから大丈夫

だ。
上二つは若い子にありがちだが「知らなかった」では済まない。
ルールは周知のものであり、サッカーで手を使っておきながら
「知らなかったんだから仕方ない」と言っているのと同じだ。

周りがやっているからいい、という日本人にありがちな非常識は
また今度ゆっくり語るけれども
5番目はちょっと面白いが結構いる。
だがそれも、理論を持って、電波の性質や影響を理解しているわけでなく
ネットなどの手軽で信憑性に欠ける情報を
鵜呑みにした結果なのだ。
それで「わかったつもり」になっているだけなのだ。



そしてさらに
その優先席の女性ふたりは



“おなかに赤ちゃんがいます”



まるで印籠のようにバッグにつけていたのである。

私は言葉を失った。

赤ちゃんがいるなら
体を労わるのと同じくらい、することがあるのではないか?
スマホの電波やブルーライトが
胎児になんの影響もないと思っているのか?
公共のマナーも守れないで母親になるつもりなのか?
スマホに依存気味であるという幼稚な精神で
子供を育てられるとでも思っているのか?

私は、、、私は、、、

生まれてくる子供の未来を、、
日本の将来を想って、胸が締め付けられるようだった。



帰宅してそのことを母に話すと、母はこのようなことを言った。



きちんとした母親になってから子供を産む人はいない。
そんなことをしていたら、40、50になってしまう。

未熟なうちに繁殖するのは仕方が無いことだ。

大事なのは産んでからも常に成長し続け
自分は、自分の教育はこれでいいのかと自問し続け、悩み、苦しみ
必死に勉強することだ。





と。

子育てに正解はない。
人間に正しい、間違いもない。

本当のことの全ては神様だけが知っている。


母はそう締めくくった。



私は思った。
私がまっとうな道を行くことや、マナーを守ることは
私の母に

「私の子育ては間違っていなかった」

と思わせることに繋がると。

それが親孝行の一つなのかもしれないと
スマホ一つで思えた。
それほどに、持っているものを捨てるというのは
価値があることなのである。






土手でボンヤリしてたら日焼けした。。。シミが怖いアラサーです。

以下、魅惑の土手にいた蝶たちです。





ベニシジミ




ツマグロヒョウモン(メス)




イチモンジセセリ
こんにちは。料理がまあまあ好きです。

今日では
クッ○クパットなどのwebレシピが豊富で
分厚い料理本を買わなくても
料理教室に足繁く通わなくても
キチンとした知識がなくても
簡単に美味しい料理を作ることが出来ます。

料理をするということは、女子力アピールに留まらず
季節に触れることであったり
未知の香りに触れたり
外国の文化を知ることが出来たりします。

また、料理は手際が大事であり
優先順序を考えたり
煮炊きの時間を計算したりと
頭の中の組み立てが上手になります。

さあ、料理をしましょう。


しかし
私は簡単にできる料理は好きではありません。

一朝一夕でできるものなど、面白くない!

私は自分を苦境に追い込む変態なので
一から勉強し、分厚い本を読み漁って始めるのが好きです。


料理はまた、冒険でもあるのです。





さて
今日は、簡単ではないし絶品とも言い難いイカスミパスタ
をご紹介します。

まず、一週間前ににんにくのオイル漬けを作っておきます。
(刻んだにんにく、塩、胡椒、唐辛子、鳥がらスープ、油)

ここでブーイングを出した人は帰って下さい。


そして新鮮なイカを2杯用意します。
魚屋のおばちゃんにアジをすすめられてもイカを買います。

イカを捌きます。
イカの頭に手を突っ込み、接続部分を外してワタを引きずり出します。
墨袋が割れたら一巻の終わりなので慎重に、かつ大胆に。

頭、ゲソ、ワタに分けたら
一匹分の頭とゲゾは冷凍します。

なぜならイカスミは少ないので、二つ分ほしいからです。
身のほうは一匹で十分です。

イカを適当に切ります。イカリングは大事。


しし唐をさっと炒めて取り出しておきます。

にんにくのオイル漬けをフライパンに入れ、鷹のツメも入れます。
イカを炒めます。取り出します。


容器にイカスミを搾り出します。洋服に付けないよう注意!
白ワインで溶いておきます。

さっきのイカを炒めたフライパンににんにくのオイル漬けを入れ
刻んだ玉ねぎを炒めます。超炒めます。
そこにホールトマトを手で握りつぶしながら入れます。
ローリエを入れて煮ます。
さっきのイカスミを入れます。

パスタを用意します。
生のリングイーネじゃないと嫌です。

茹で上がったらソースと和えます。
イカのゲソ以外も入れます。
しし唐も和えます。

お皿に盛って、とっておいたゲソとイタリアンパセリを乗せます。



できあがり!











黒さに引きながら食べます。


美味しいご飯が食べられることを
今日も神様に感謝。
バッグタックル


それは
混雑する通勤電車や駅のホームで
自分のバッグをアメフトのプロテクターのようにし
周りの人間にぶつっかっていく迷惑行為のことだ。

とくに痛いのがヴィトンのバッグ。

やつらは本革でなく鋼のような塩ビのため
バッグの角などが当たると猛烈に痛い。

そんなヴィトンに一日に2回も致命傷を負わされて
ウンザリしていた帰りの列車内。


トートタイプのヴィトンを持った若い女の子。
中身が丸見えでハラハラする。


自分のバッグを持ち直すとき
ふと
その子の足元を見た。


!?

厚底の靴、後ろが1センチも余っている。
これでは美しく立つことも歩くこともできない。



私は呉服の営業販売をしていたのだが
そこで求められるものとはズバリ
客の品定めである。

上客かどうかは最初はわからなかった。
みんな見た目は質素で
ブランドバッグを持っているひとなんていなかった。



そこでみるべきところとは足元である。

サイズ、素材はもちろんのこと
汚れ、小さな傷、くたびれ度など
超高級なものではなくても
手入れが行き届いている靴を履く人は
良いものがわかる“本物”となるので
質のよい呉服を買ってくれるのである。

逆に
高級品を持ってます~という客は
どんなに良いものをすすめても
価値がわからないので
それっぽく見える安いものを沢山買ったり
パッと見て高級だとわかる呉服を古着屋で買ったりする。


そんな法則が私のなかである。


足元をみる、とはよく言ったもので
そこに全てが現れていると言ってもいい。

ちなみに
心の状態も足に出る。

体の末端というのはなにかに集中しているときに
神経が行き届かない箇所なので
嘘をついているときや
不安なときなど
足、指先など見ていると如実にわかるものなのだ。

歩いているときに音がするのは
明らかに靴が足に合っていないが
階段を上り下りするときにとても音がする人も
何か気になることや
現状に不満を持っていたりする人である。


人間もやはり動物で
自然の法則や物理の法則からは外れない。

人間はとても面白く
いとおかし
桜が散ると夏の訪れを感じる…かもしれない

珍しく写真なんか載せたいと思ふ


新宿区のオアシス
花園神社の桜です。

花園神社は大きな桜が多く、老朽化もしているようです。
頭上注意!!の看板が目立つ。










下はそれから一週間後、しだれが満開の時期に行きました。
行きましたっちゅうか
お昼のたびに通っているけども。





見事な桜はけっこう見るけども
花園神社のしだれ桜は素晴らしい。
大きさ、しだれ具合、花の色、背景
完成度が高いので、一度は見に行って下さい。

桜の時期になるとどこからともなく集まる日本人。
そんな日本人が好きです。
花を愛でる心はとても美しい。


その関連で
日本人の心について考えたことがあった。


それはとある電車内。
私は座席に座っていた。

やがて各駅に着くたびにひとり、ふたりと降りてゆく。

そうすると埋まっていた座席もだんだん疎らになってゆく。


そこで度々起きる事件がある。


隣に座っていた人が
別の座席に移動する、というものだ。


それのどこが事件なの?と感じる人もいるだろう。が
私はおおいに



傷つく



そして色々チェックする
え?私ってくさい?
イヤホンから音漏れしてる?
体温が高すぎて暑苦しい?

など

私は今まで落ち込んでばかりいたのだけれど
桜を見る日本人を見て思った。

日本人は基本的に優しい。
そしてまわりにどう思われるかを非常に気にする人種だ。


だとすると
私の隣から移動した人の半分は多分こういう人



席が空いたのに隣にいたままだと、、キモイとか思われるかも、、、
広くなったんだから分散したほうがいいよね、、、



まあ実際には本当に私の隣が嫌な人もいるだろうし
単に人と触れるのが嫌で一人楽しすぎる人もいるだろう。

けども全員が全員そうではないのだ、と思うことにした。
人の心はどうあがいてもわかることは出来ないのだから
そう思うことにするのがベター。


私は自分が傷ついたことがあるので
本当に酒臭いオヤジとかでないかぎり
席が疎らになっても移動しないことにしている。

人がいたほうが温かいしね。


なかには私のように移動しない人もいる。
理由はいろいろあるだろう。

人がいようが気にしないツワモノか
スマホに夢中のナマケモノか
あるいは私と同じハナタレか




人の心はわからないが
なにかのきっかけでそれが通じた、伝わったと感じるとき
人間でよかったと思う。
猫と園芸は似ている。

まずベースがあり
与える栄養や日当たりによって成長が変わる。

話しかけるかどうかによっても変わる。

そして病気になったときも
適切な栄養、看病をしてやれるかで
完治するかが変わる。

そして栄養をやるほどに肥えてゆく。




そんなこんなでした。



ある日
いつも乗っている電車のひとつ前の電車に乗りました。

私がぼんやりとドアの近くで立っていると
次の駅で、親子が乗ってきました。

それはおそらく父親とその娘で
娘は私より少し若い、リクルートスーツのいかにも新卒という感じ。
父親は管理職、という感じのスーツで50代なかば。

娘と出勤できるなんて
なんて幸せな父親なのだろうか!

私とちょうど向かい合うように立った父娘は
娘のスーツを話題にしたり
電車を話題にしたりして
ちょこちょこ喋っていた。

娘はみたところ無垢で
親の愛情を受けて何不自由なく育ったかんじ。
食べ物に困ったことも、住むのに困ったこともないだろう。


私には父親がいない。

いないわけではないが
母と別れたあと、ほとんど会ってもいないし、会いたくもない。

末っ子でマザコンだった私は
姑やその他親戚からの当たりも強く
父親からも煙たがられていた。いい思い出はない。


けれども思ったことがある。

もし私が
両親のいる真っ当な家で育ったのならば
もっと人生はキラキラして楽しく
明日生きるのに困ったり
心を病んだり
しなかったかもしれない。

きちんと学校へ行って就職して
結婚して子供を産んで。
そんな人生を送れたかもしれない。

ちなみに私はマザコンをこじらせたファザコンのため
父親と同じ年くらいの上司には認められたい一身で
仕事をし過ぎることが多々ある。

父親も含めた“オヤジ”とは
私がこの世で最も忌み嫌うものであり
私がこの世で最も認められたい存在なのだ。


そんな歪んだ人格を生み出すこともなかったかもしれない。


けど
全てはたらればであり
歴史に“もしも”は存在しない。

だいいち
もしそんな私が存在したら
今の私は存在しない。
今、私が持っているものは全てない。


人生は登山だ


みんなそれぞれの山を登っている。
あたりまえだが登った高さまでしか景色をみることはできない。
上を、上を目指すが
登るのはとてもつらい。
登ろうとしない人もいれば、登ることを知らない人もいる。

でも登りに登って上までいくと
そこは今までと違う場所。
まわりの人間の高さもよくわかる。
より客観的になるためには
もっと上へ行く必要がある。


だからきっと
私は今の私でいい。



通勤電車の父娘をみただけで
そこまで哲学的になる自分がキモイ。

そんなふうに自問自答していたら
誤って私は持っていたペットボトルを落としてしまった。

それがなんと(でもないけど)その父娘の足元に。

なんとカッコ悪い!
こんな幸せな父娘に優しくされたら
私のトラウマが悪化してしまう…!






拾ってくれなかった。

うん。やっぱり私はこの私がすき。