不死身の花 第六回 ⑴ | 是日々神経衰弱なり
第6回



第二章 メリメロ たくさんの人生



■13歳の借金



「ありがとうございます。『クラブ アクティブ』でございます」

でた!(当たり前だ)



「あの、あたし、マリカといいます。店長さんいらっしゃいますか?」



「少々お待ちください」



「もしもし、お電話かわりました。いやあマリカさん、ご連絡を待っていましたよ」



「はい、そうですか。あのう、あたし、ちょっと色々あって、それで……連絡が遅れてすみません」



「いえいえ。それよりも、何かお困りでしたら、お役に立てるかも知れませんよ」



どれくらい経過してからその店に連絡を入れたのだろう。家を出てから、2、3ヶ月は経過していたかと思う。それまでは、ディスコで知り合った人に泊めてもらったり、男の子の家に何日か居候させてもらったり、常連だった「パトーナ」というディスコで支配人をしていた福ちゃんが宿代を出してくれたり、パーティーに呼ばれた時はそこで雑魚寝したり。

 

どうしても行く宛が見つからなかった時は、工事現場やマンションの階段の踊り場で寝泊まりして生きつなぎ、そして、再び食べ物や寝るところを探す、といったことを繰り返した。言葉通りのその日暮らしを送った。



野宿と屋内の割合は、だいたい半々くらいだったと思う。もともと家が繁華街から目と鼻の先にあり、街中で育ったので、野宿といっても海や山に暮らしたわけではなく、父親と継母に追い出された家からわずか1キロ圏内で、約1年間も大都会の真ん中で浮浪児としての生活を送っていたわけです。

でも、その時のことを回想しても、不思議なことに、辛いと思ったことはありません。が、どうにかなるわ、みたいに投げやりに思うことも開き直ることもなかったけれど、思い詰めることもなかった。だって、少なくとも街には家にいた時のような、いわれのない惨めさや、ぶつけようのない辛さ、情けなさはなかったからね。あたしにとっては、それらのことから解放されたことのほうが自分的には楽だったのかもしれません。

 

その日暮らしの宿なし、職なし、金なし、という生活もそれなりに楽しくやっていました。気楽(?)な野宿生活にも慣れ、1年を過ぎたあたりだったでしょうか、ある事件がキッカケになり、一旦は自宅に戻らざるを得なくなりました。それがなければ、恐らく、自分を捨てた父親と継母のいるあの家には一生戻らなくても平気だったと思います。

そうは言うものの、誇り高き浮浪児生活を送っていたあたしにも時折り惨めになることはあって、あれは、きれいに晴れた日のことでした。その日も喉がすごく乾いていて、子供の時分に遊んだことのある児童公園へ水を飲みに立ち寄ったのです。その公園は、父と継母に追い出された生家から目と鼻の先でしたし、幼なじみの家も多い地元の公園だったこともあって、誰かに見られるのは嫌だったし、なるべく昼間に行くのは避けていました。でも、この日はどうしても喉が乾いて、我慢できずに仕方なく行ったのです。それに、あたしは只で水が飲める場所はその公園しか知らなかった。



そうして止むを得ず、地元の児童公園のほぼ真ん中に位置する水飲み場で乾いた喉を潤していると、たまたま通りかかった同級生数人が、きゃあきゃあと仲良くはしゃぎながら下校してくる姿を見つけた時とかね。この時ばかりは自分がすごく恥ずかしくなり、彼ら、彼女らに見つからないように、一目散に走って物陰に隠れ、彼女らが行き過ぎるのをその場でじーっと待ったりしていました。



同級生らは、物陰で息をひそめて見ているあたしに気付いている様子はありませんでした。きちんと洗濯された清潔な制服を着て、屈託なく笑い合う同級生たち。それに比べ、大人の身なりで薄汚れたハイヒールを履き、行き場もなく何ヶ月もうろうろと街をさまよい、喉が乾いたらこうして人目を忍び、児童公園で水を飲むしか手立てのない今の自分、その姿を見られたくなくて、隠れている自分自身が情けなく感じた。大阪のど真ん中にいて、飲み水の心配なんか今後も一生しないであろう彼女らを、ちょっぴり羨ましく感じた。いいなあって。あたしがいなくなっても、何ひとつ変わらない友人らの日常を垣間見た。



きっとあの人たちも、いつもと何ら変わらない生活を送っているのだろうな。あたしが失ったものが何かは分からないけれど、言いようのない喪失感っていうのかな、この時、人生には決して戻ってこないものがあるんだってことは分かった気がした。人生には後戻りできないこと、取り返しのつかないことっていうのがやっぱりある。ほんの数ヶ月前まではあたしも持っていた黒い皮の学生カバンが、陽の光に反射して、ぴかぴかに輝いて見えたのをよく覚えている。

 

実は、あたしは家を出されてから街で暮らす約1年間に、自分がいなくなった後の家の様子がなんとなく気になっちゃって、生まれ育ったあの家を、こっそりと見に行ったことが何度かあるのです。ひっそりとした真夜中に。建物の下に立ち、なんとも言えない気持ちで見上げていた。一度だけ廊下の明かりが灯っていたことがあったが、しばらく眺めていると、すぐに消えた。そのうち、そこへ行ってみても、自分の部屋の中や、そこで過ごした記憶が思い出せなくなっていきました。

 

そうそう、あたしがなぜ、その店、ミナミの「クラブ アクティブ」に連絡したかというと、第一に、常連だったパトーナというディスコで世話になっていた福ちゃんからの頼みだったということがある。福ちゃんは、どういう経緯か知らないが、アクティブの店長と懇意だった。福ちゃんは、アクティブの様な、女の子のいる店に飲みに行くような男じゃなかった。アクティブの店長とは麻雀仲間だったというようなことを聞いた記憶がある。その、アクティブの店長がパトーナで踊っているあたしを見かけて、福ちゃんを通じて話をもってきたという次第。パトーナではフィル・コリンズの「イージー・ラバー」や、メリージェーンガールズの「イン・マイ・ハウス」が好きでよく踊っていたなぁ。



お金もないし、友人のところを転々としたり、ビルの踊り場や工事現場で寝泊まりするのも限界に達していた。困った時にはお金を貸してくれたり、なんだかんだと面倒を見てくれる福ちゃんの伝手だし、知らないところへ行って働くよりは、そこを頼るほうが安心な気がしたのだ。そして、第二に、その店が福ちゃんが店長を務め、あたしが毎日のように通った「ディスコ パトーナ」の階上にあったこと、第三に、そのお店が300日の日数契約書を交わして働くなら、あたしに部屋を借りるお金を貸してくれるという、この三点が決め手だった。

 

だが、1984年がいくらいい時代だったとはいえ、さすがにどこの馬の骨とも分からない、ホステスとしての実績があるわけでもない、ただ目立つだけの小娘に、無担保で何百万円も貸してくれるような店などあるはずもなかった。世の中それほど甘くはないのだ。

そこで、ディスコで仲良くなった28歳の理香に保証人になってもらい、アクティブの責任者がマンションの名義人になるのを条件に、アクティブと金銭契約をして、200万円のバンス(前借り)をすることになった。あたしに事情あり、と見たからかもしれないけれど、この当時は今と違い、住民票だの印鑑証明などのややこしい手続きはなく、用意された契約書にサインをして、そこらで売っている三文判をついて、保証人さえいれば即金でお金が用意されることもあった時代だったのです。

 店側はあたしが未成年だったことを知っていたかどうか、ともかく店はあたしが欲しかったわけだし、あたしは自分の居場所を確保できるなら、と背に腹はかえられなかった。



こうして家を出されてから約3ヶ月後、あたしはアクティブという店からお金を借りて、本町という、ミナミからもキタからも近い便利な場所に部屋を借りることが出来たのです。家賃は、保証人の理香と折半することで同居に同意しました。

間取りは3LDKで、家賃は14万円くらいだったかな。安くはないけれど、半分の7万円なら、働いていたら何とかなるだろうと簡単に考えていた。理香は兵庫県尼崎市の実家から、勤め先の大阪市内の北新地のクラブやミナミのディスコに通っていたので、理香にとっても都合がよい話だったのだと思う。13歳のあたしにとって、200万円は想像もつかない大きなお金だった。金銭契約書なるものを見たのもこの日がはじめて。これはまあ、奴隷契約書みたいなもんかなって。軽く考えるように努めたが、さすがに判子を捺す際には手が震えた。こんな大金を借金してまで部屋を借りてしまって大丈夫だろうか。一抹の不安を覚えたけれど、なによりあたしは疲れて果てていた。毎晩のように泊まるところを探したり、食べるものを探すことに。





■自分の居場所

 

追い出されたり、出て行かなくても済むところ。目が覚めたら出て行かなくてもいい、いつまでいてもいい部屋。

 

不動産屋に支払いを済ませたら、手元にわずかばかりの現金が残った。あたしはそのお金でシングルの布団セットを一組と、リビングラグ、水回りのものを買い求め、ささやかではあったが、自分の好きなように部屋の中を飾った。家を出されてから数ヶ月、将来の夢も展望もなく、ただその日を生き抜くために生きるのに精一杯で、まさか自分の部屋が借りられるとは考えていなかった。自分では、未成年なのに200万円という借金をしてまで部屋を借りることなのだろうか、また、水商売のような仕事が300日も務まるのだろうか、という不安もあった。でも、13歳では他に雇ってくれるところもなかったし、お金を借りるのは怖かったけれど、どうしようもなかった。

 

借金の不安はあるものの、久しぶりにふわふわの布団に包まれ、枕に頭を乗せて寝る幸福感といったら。エアコンのある部屋。ひねればお水やお湯が出る蛇口までは徒歩3秒だし、好きな時にお風呂にも入れる。ほんとうに良かった。これでひとまずは、工事現場に寝床を探さなくてもよくなったのだ。



保証人となった理香は同居人とは名ばかりで、ほとんど帰って来なかった。理香は北新地の高級クラブに勤めていたが、そう仕事熱心なホステスではない。あたしたちは真面目に仕事へ行かず、夜な夜な遊び歩いていた。理香はともかく、あたしはアクティブからバンスをしている身の上なのに、そのうち店に行かなくなってしまったのだ。店には、あたしを紹介した福ちゃんと仲の良い女の子が他にもいて、彼女らと一緒の席につくと、しめし合せているのだろうか、あたしとだけは一言も口をきかなかったり、何度も飲み物を洋服にこぼされたり、お客さんの目の前で小馬鹿にされたり、罵られたり、あることないことを言われたりして、意地悪ばかりされるのが不愉快だった。

飲みに来ているお客さんの中には、彼女らの露骨な意地悪に「お前ら、感じ悪いぞ。酒がまずくなるからやめろ」って正面からたしなめてくれる人や、「我慢やで」って耳元で言って慰めてくれる人もあったが、たいがいは知らん顔だった。

 

彼女らは非常に不快な存在ではあったが、あたしはやり返さなかった。自分は店に借金があるから、もめごとを起こすのはまずいというのを自覚していたし、わざわざ面倒な女たちに関わり合いたくないな、とも思っていたから、できるだけ相手にしなかった。それに、そういうタイプの女の人には慣れていたつもりだった。礼儀正しくして、なるべく避けていた。はじめの頃は我慢して、ちゃんと毎日出勤していた。だけど、あたしが相手にしないのに、どういうわけか、彼女らの嫌がらせはどんどんエスカレートしていったのです。あたしよりずっと年上の人たちなのに、あたしが街で人気を博していたパトーナの支配人である福ちゃんに可愛がられていたことや、ディスコで若い若いと言ってちやほやされていることに焼きもちを妬いているのだろうなって、なんとなく分かっていました。あの頃のパトーナは飛ぶ鳥を落とす勢いだったから。それで、目障りだったんじゃないかなと思う。辞めさせる目的で苛めてきたとしか考えられない。結局は、その苛めに負けて店に行かなくなっちゃったんですけど。



それまでも夜の喫茶店で2週間ほどホステスという仕事を経験していたが、遊びたい盛りだし、男の人がお酒を飲むような場所で、13歳の女の子が興味のない男性の横に座り、話し相手をして楽しいことなどひとつもない。おさわりパブでもないのに体を触れられまくり、怒って席を立ったこともあった。そしたら、お店の黒服にそれくらい我慢しろってこっちが叱られるし。いつかのように、何の契約もなく、いつでも辞められる状態で日払いしてもらえるぶんには水商売は便利なアルバイトかもしれないが、それでもレギュラーで入るとか、金銭契約(人によって違うが主に日数契約)による義務が発生するとか、水商売はそれ一本でやるとなると拘束時間も長いし、残業手当はおろか、出勤前には営業電話や、今の時代だとメールもそうだし、会社訪問、同伴出勤やアフターなどを課せられて、時間外労働がとても多いので、無条件に人と話すのが好きとか、自分の店を持つとか、マンションの頭金が欲しいとか、ちゃんとした目的のある者以外には割に合わない仕事なんじゃないかなと思う。頑張れば、お金は沢山もらえるかもしれないけれど、水商売で生きて行く、と腹を決めていないなら決して楽じゃない仕事。あたしのように、なんとなく、他に働くところもないし、住むところ欲しさに流れてきたような女の子には厳しい職場。自分もそうだし、周りの友人を見ていても思うことだけれど、なんだかんだ、辛いだの、しんどいだのと愚痴を言いながらも5年、10年と続けられる仕事場というのは、その人に合っているんだと思います。水商売に限った話ではなく。





■地獄でやくざ

 

水商売で言うバンスとは前借りのことで、借金と同じこと。当然その店で働くのが条件。そこで働かないなら前借りを清算せねばなりません。返済するお金の用意ができないなら、嫌でもそこで、借金がなくなるまで働くしかない。それがお金を介した大人の世界のルールだった。

13歳のあたしも、なんとなく理解はしていたが、日を追うごとにエスカレートする執拗な意地悪にうんざりして、借金の清算の目処も立たないのに、どうしても店に行きたくなくなってしまったのです(そんな意地悪くらいで、と思うだろうが、それでなくとも大人の女の陰湿なイジメは子供には堪えるよ。しかも集団だし。毎日のことだから、職場の環境とはほんとうに大切だと思うな)。欠勤が続くと、すぐに店の男性スタッフが部屋まで訪ねて来たが、1階はオートロックで施錠されていたので建物の中には入って来られないでいた。

しかし、ある時、出先から戻ると、玄関に、あるはずのない男物の黒い皮靴があったのだ。



誰かいる!!

 

咄嗟にその場所から逃げ出した。男たちは、「こら、待てい」と叫んで、エレベーターに続く廊下を追いかけて来た。



助かった。エレベーターはまだ12階に止まったままだった。駆け込むように飛び乗ると、すぐに1階のボタンと、閉のボタンを指で何度も叩いた。

 

早く閉まれ早く閉まれ早く閉まれ

 

はやくはやくはやくはやく

 

幸いにも、エレベーターのドアは男たちの鼻先で静かに閉まり、一拍おいて、もう一回開くのか、開かないのか、というところで、ゆるりと降下を始めた。あわや、というところでなんとか免れた。逃亡するヒヤヒヤ感が相まって、エレベーターで移動する足下から背筋にかけてぞわぞわしたものが伝わってきた。遊園地の遊具に、高いところから地上に急降下する乗り物があるが、それに乗っている感じに似ている。彼らがこのままやすやすと引き下がったとは思えない。きっと階段を使って追いかけて来ているだろう。



階段のほうが早かったらどうしよう

1階で待ち伏せされているかも

捕まったらどうなるのだろう

 

降りている途中で停まったりしないことを祈りながら、長い十数秒間を過ごした。エレベーターが1階に着いた。ドアが開いたが、そこには誰の姿もなかった。やった! 追っ手より早く降りられたのだ。

 

一息つく間もなく、ひとまず近くのビルへ逃げ込み、身を隠し潜んだ。あたしは街中のどこに、どんな建物があって、どのような特徴があるのかを熟知していた。マンションの部屋の中が見える位置を探して、そこに腰を下ろした。暗くなるまでその場でやりすごし、ベランダの窓越しに、部屋の内部を観察した。陽が落ちると、小さな電気が灯り、ときどき人の気配がした。まだ部屋の中に誰かいるようだった。

 

あたしが戻ってくるのを待ち構えているのだろうな。もし捕まったら、一体あたしはどうなるのだろう。ボコボコにされるとかかな。怖い。このまま逃げようか。あかん、荷物が置いてあるし、それを取ってからや。でも、そんなもん取りに行って捕まってたら世話ないし。いや、諦めるのはまだ早い。明日は月曜日だ。夕方以降にはいなくなるはず……と考えが頭の中で交錯した。

 

わずかな荷物だが、あたしにとってはかけがえのない荷物。写真やらメモやら着替え、電話帳に化粧品。それらを取りに行くのに躊躇はしたが、やはり荷物は取りに行くことにしたのだ。そうなったら、24時間以上の長期戦に備え、目立たない外階段に腰を据えた。明日、あの部屋に誰もいなくなった頃を見計らって、一か八か、その隙に荷物を取りに一瞬だけ戻ろう。そんなことを考えながら、久しぶりに冷たいコンクリートの上に身を横たえた。

 

高ぶった神経を鎮静させるためなのか、慣れ親しんだコンクリートで寝たのが心地よかったのか、あたしはぐっすりと寝入ってしまっていて、気が付くと、お昼近くになっていた。借金取りが待ち構えている部屋からは人の気配が消えているように感じたが、それでもやはり、日暮れまで待つことにした。夕方になれば、張り込んでいるはずの男性スタッフは店に行って誰もいなくなるだろう。