不死身の花 第六回(2) | 是日々神経衰弱なり

周囲の様子に注意し、マンションに入ると、エレベーターを使用せず、階段を使って12階まで上がった。部屋の前まで来るとため息のような深呼吸をした。もう誰もいないはずだけれど、用心するに越したことはない。ゆっくり、静かに鍵を差し込んだ。昨日は危なかったわ、なんて考えながら。
 
が、鍵を入れた時点でアウトだったのだ。こちらがドアノブを回す前にバターンと内側からドアが開けられ、中から出てきた男たちに取り押さえられたのです。なんと、中には人がいたのだ。昨日の失敗を繰り返さないように、きっと、死人のごとく静かにして、あたしを誘き寄せたのだろう。
 
しまった!と思った時には遅かった。がっしりと腕を摑まれて、部屋の中に引きずり込まれた。抵抗はしなかった。怖すぎて叫ぶこともできなかった。即座に、店に来る気はあるのか、と訊かれたが、あたしも即答で、ない、とはっきり答えた。こんなことになって、今さら無理に決まっている。行けるなら、とうに行っている。
男たちから叱責を受けながら、あたしの借金の返済についてどうするのか追及がなされた。だが、どれだけ考えてみても、あたしに返済のアテなどない。「親はどこにおるんや?」と訊かれたから、「親は、二人とも早くに死にました」で通した。「嘘をつくな! おまえの親はどこに住んどんや」と凄まれたけど、父に泣きつくなんて、そんなこと頭の片隅にもなかったし、思い付きもしなかった。
夜になり、男たちは一人を残して出かけて行った。残った男は深夜までそこに居座り、怒鳴ったり、脅したりしてあたしを責め続けた。真夜中を過ぎると、福ちゃんからの紹介でアクティブへの入店の窓口になった店長がやって来て、三下と同じような口調であたしを罵った。店に入店するまでは猫なで声で接してきたのに、チンピラと変わらない語調に辟易した。
 
それから3日間はずっと男たちに見張られていた。彼らは交代であたしを見張った。完全に軟禁状態だった。トイレに行くのにも、お風呂に入るにも、常にドアの前で誰かに見張られていた。軟禁生活が3日目に突入すると、借金返済の見通しのつかないあたしをどうしたものかと持て余しはじめた男たちは、保証人の理香の住所へ向かってみようと言い出し、あたしも同行させられた。
 
理香が契約書に書いた住所はデタラメではなく、理香の母親が在宅だった。理香の母親は男たちに対し、理香が保証人でも、私たちには関係ありません、と言ったようで、突っぱねられたと車に戻って来た黒服の一人がぼやいた。それから男たちは3時間ほど理香の家の近くに車を停めて理香を待ち伏せていたが、あたしに何かあったのを察知したのだろうか、理香は姿を見せなかった。ともかくこの日は、男たちは理香から取り立てることは諦めたようだった。
 
本町橋のマンションに連れ戻されると、次に奴らはあたしを横に据え置き、こうなったらソープに売るしかないな、などと話し始めた。
 
ソープ?
 
あたしは14歳になっていた。14歳、この年で、そんな苦界に身を沈めるのか。ソープが何をするところかは知っていた。あたしは、全然知らない赤の他人に自分の体を自由にさせるなんて、絶対に、絶対に嫌だと思った。でも、どうしようもない。絶体絶命。もう、どうとでもなれ! 観念するしかないのか。ソープランドのいかがわしい看板やネオンサインがちらほらと脳裏に浮かぶ。諦めるしかないかな。いや、やっぱり嫌や!
 
どうしようかと思案に暮れていると、家を出される前に、父の応接間のデスクの引き出しから持ち出していた名刺のことを思い出した。そうだ、あの名刺が役に立つかも! そこに付いていたマークは恐らく日本に住んでいるなら誰でも見知っている社章だった。あたしは、試しにバッグからそれを取り出し、奴らに見せてみた。

「なんでこいつ、こんな大物の名刺を持ってんねん」
 
あたしの持っていた名刺を確認した男らは、顔を見合わせてこう言い合った。それから廊下に出て、ヒソヒソ話を始めた。
 
名刺には、金色の菱形のマークがついてあり、毛筆書体で、
 
山健組 山本 健一
 
と記されていた。

この名刺を見て店の男たちが、

「この名刺の人は、おまえのなんや?」

「……」知らない人を知り合いとは言えない。
 
彼らがどんな判断をしたのか分からない。もしかしたら山本健一さんの落とし子か何かと勘違いしたのか、結果、あたしのソープ行きは急遽取りやめになった。その上なんと、あたしにどうしたいかと意見を求めてきたのです。でも、14歳で200万円もの借金をこさえたあたしに身の振り方について尋ねられても良いアイデアなどあるはずもなく、しばらく黙っているしかなかった。
 
考えあぐねていると、怒りに脳みそを沸かせて冷静さを失いそうな店長が、他にスカウトされている店の人間に連絡を取って、バンスの肩代わりをしてくれないかと頼み込めよ、と指示を出してきた。別の店に鞍替えかぁ。でも、ソープランド行きよりはずいぶん軽い刑だ。危機一髪のところで助かった。
 
あたしは、願ってもないこの申し入れに首を大きく縦に振った。そして、世間で忌み嫌われる極道も、こんな時は役に立ったなあ、という感想を持った。水戸黄門の印籠ではないが、この一枚を見せる前と後とでは、相手の態度がこれだけ大きく違うのだから、正直な話、ちょっとだけ痛快に感じた。
 
ソープ勤めが悪いというわけじゃないけれど、自分でソープに働く、と決めて行くならともかく、自分の意思に関係なく、右から左に、モノのように送り込まれるのが嫌だった。それに、できることならやりたくなかった。楽しい仕事だとは思えなかったしね。こうして地獄で仏……ではなく、地獄でやくざに助けられた。危機一髪でソープに売られずにすんだのだ。「山本のおっちゃん、おっちゃんは極道で、悪いことをする人やけど、今はな、いたいけない、一人の少女を救ったで」って見ず知らずの山本さんというやくざに心の底から感謝した。
 
ここでひとつ疑問に思ったのは、あたしの母はとにかく極道が嫌いだったので、どうして父の応接間の引き出しにそんな大物やくざの名刺があったのか。宝石商人だった父は主にダイヤモンドの卸を商いにしていたので、大学教授夫妻から有名な性転換美女、女社長や、水商売のママさんやそのパトロンなど実に様々なお客さんが、うちに宝石を買いに来ていたのは住み込みの乳母であるちゃあちゃんから聞いて知っていました。父の応接間はあたしの部屋の隣の隣にありましたので、お客さんと出くわしたらお辞儀をして、目を見て挨拶をするようにとも躾けられていました。お客さんに挨拶をすると、初めての方は名前を名乗って下さいました。その面々に「山本のおっちゃん」というのは何人かおられたが、あたしはその名刺の人物には会ったことがなかった。あたしは家を出される際に、父の応接間からその菱形に金色の社章がついた名刺を失敬した。その名刺を持っていれば、なんとなく、いつか役に立つような気がしたからだ。家を出て、これから一人で誰も頼る人がいない。きっとお守りみたいなつもりで持ち出したのだと思う。
事実、あたしはその名刺のおかげで助けられた。生まれて初めての借金は13歳。金200万円也。ストリートで暮らす生活、残飯をあさる日々、工事現場の寝泊まりから卒業するための一人住まいは、このような、とても笑えない苦い経験で始まりました。
 
初めて借りたこのマンションも、結局は3ヶ月も住まなかった。名義が店の男性スタッフになっていたので、さっさと解約され、再びあたしはビルからビルへ、工事現場から工事現場に暮らす生活に舞い戻ってしまった。嫌な思い、怖い思いまでしてやっと部屋を借りられたのに。でも、仕事場が合わないものは仕方がないし、嫌なものは仕様がない。よく知らない人から大金を借りてしまった結果、住んでいるところを締め出され、14歳のあたしには返す宛のない200万円の借金だけが残った(日数契約とは水商売独特の契約内容なのでしょうか。契約の内容が200万円、300日の日数契約だったので、お給料からの天引きは一度もないのです。遊郭などにもあった契約内容かと思います。天引きという契約もあったかと思いますが、あたしの場合は日数契約でした。一般的にこのような契約が存在するかどうか分かりませんが、当時の水商売では珍しくなかったようです。契約した日数──私の場合は300日でした──を消化したら契約は終了。返済はない。でも、もしその間に店を辞めることになったら即返済という契約です。違約金も発生します)。

この時の経験では、十代であれなんであれ、お金を借りるとか、自分の家を借りるということには、様々な責任が伴うのだということを知るよい機会になった。働くこと、それで得たお金で家賃を払って住む、という当たり前のことがどれだけ大変なことか。軟禁されたこの3日間で少しは身に染みたと思います。


■マダムJ
 
出会ってしまった。
 
こんな言い方は大袈裟かな。でも、出会ってしまったとしか言いようがないのだ。
 
アクティブの黒服は、ミナミの喫茶「英國屋」の前に到着すると、睨みをきかせながら、「ここで待っているからな、ちゃんとバンスの話をまとめてこいよ」と低い声で静かに言った。
あたしは、借金取りの指示通りに、ミナミの老舗クラブの支配人に連絡を取って待ち合わせをしていた。内容は、ほぼ伝えてあった。ミナミの水商売の人間ならば知らぬ者はいないという堤さんは、ミナミの黒服の帝王なのだが、関西弁を話さず、非常にもの静かで穏和な人だった。あたしも通りすがりに名刺をもらったことがあったので、堤さんの顔と名前は知っていたが、きちんと話したことはなかった。
事情を話すと、「うちに来てくれるなら、バンスは問題ないよ」とあっさり一言だけ。信頼できる、とても心強い言葉をもらって、問題は解消した。話は5分ほどで終わってしまった。寡黙な堤さんと、一言二言どうでもいい世間話をして、じゃあそろそろ、って言おうとしたら、堤さんがトイレに立ってしまった。堤さんが開けたトイレのドアがばたん、と閉まる音が聞こえた瞬間に、「はぁ、終わった。良かったわ……」と胸をなで下ろした。

「ねえ、あなた面接中? あたしにも話をさせて。新しい店をオープンさせるの。今から10分後に喫茶「葡萄屋」にいるから、絶対に来てね。待っているから」
 
赤いセーター姿の中年女性が突然あたしの目の前に現れ、一方的に話し、「これ、お茶代」と2万円を握らせ、素早く立ち去った。一瞬の出来事に何が起こったのかよく分からなかった。あたしはもらった2万円を手早くバッグの中に押し込んだ。堤さんがトイレから戻ってきて、あたしは堤さんと一緒に英國屋を出た。店先で素っ気ないほど簡単な挨拶を交わし、その場で別れた。アクティブの黒服が、どこからともなく近寄ってきて、
「話はまとまったようやな」
と、いやらしく言い放ってきた。まるであたしたちの会話を知っているような口ぶりだった。「英國屋」は広いから、どこかで見張っていて、あたしたちの様子を窺っていたのかも。でもまあこの時のあたしに選択の余地などなかったわけだし、それももうどうでもよい。堤さんと面接して借金返済の段取りができた。怖い思いも不安な思いもしたが、なんとかこれで、アクティブにも理香にも迷惑をかけなくてすみそうだ。4日ぶりに軟禁から解放され、開放感と安堵感があたしを包んだ。そうしたら急に人恋しくなり、さっき2万円もくれた女の人のことを思い出した。それまで女性から声をかけられることなどなかったので、あたしは、その女の人に興味を持ってしまっていた。なんだか面白そうな人、とか、そんな印象だった。そして、もらったお金のお礼を言いに行かなくては、と後付けの言い訳を用意して葡萄屋へ向かっていた。

この後、もしこの時、「葡萄屋」にさえ行かなければ、この先のあたしの人生も少しは違ったのかも、なんて考えたことが一度くらいはあった。そんなことを考えてみたって仕様がないことくらい分かってはいるけど、それくらい、あたしにとってこの女性との出会いは大きかったのです。良くも、悪くも。「葡萄屋」に入ると、すぐにその人を見つけた。何人かの知り合いに軽い愛嬌を振りまきながら、女の人のいる席に向かった。

「さっきは(お金)ありがとうございます」。椅子に座る前に小さく会釈した。

「いやあ、ほんまに来てくれたんやね、嬉しいわ。ありがとう。ところで、今からスタッフと焼き肉を食べに行くんやけど、良かったら一緒にどう?」
 
焼き肉は、行きたかったけれど、丁重に断った。よく知らない人について行くのはリスクもある。それに、持ち合わせがないのに一緒について行ってもおごってもらえるとは限らない。焼き肉食べたさに知らない人について行って怖い経験をしたこともあった。でも、女の人だし大丈夫かな、とも考えたが、やめておいた。また連れ去られたりしたら大変だ。この時は、焼き肉より警戒心が勝った。

「どこに住んでいるの?」

「以前は本町に住んでいましたが、今は……友だちのところに居ます」

「へぇ、そうなの。じゃあ明日、ここに電話ちょうだい」
 
電話番号と、上原とだけ書かれた小さな紙を渡された。
 
翌日、書かれてあった番号に、お昼を過ぎたころに電話をしてみた。あたしには家すらないんだから、電話なんてもちろんない。公衆電話からだ。5回ほど鳴ってから眠そうな声の女の人が出た。

「これからうちに来たら。とにかく一度、遊びにおいで」
 
はい。わかりました、とだけ答えてその日は行かなかった。
 
次の日、扇町というところにある上原潤子と名乗る女性の自宅に行った。じゅんこ。字は違うけれど、あたしの母と同じ名前だった。道順の説明を受け、紙に書き留めてタクシーの運転手さんに渡した。あたしは扇町というところに行ったこともなかったし、扇町というのがどの辺りにあるのかさえ知らなかった。潤子ママは電話で、ミナミからだとだいたいタクシーで1500円くらいの距離だと言っていたのに、タクシーを降りる時に、なけなしの3千円を使ったことを後悔しそうになっていた。今から考えたら、地下鉄に乗って行けば節約できたとは思うけれど、あの頃のあたしにはそんな発想もなかった。前々日に潤子ママからもらった2万円は、贅沢してレンタルルームで仮眠したり、食べたりしてほぼ使ってしまっていた。余談だが、あの時代にネットカフェなどあれば、あたしは間違いなくそこの住人になっていたと思う。
 
教えてもらった通りのマンションの一室では、化粧気のない素顔の潤子ママが待っていた。部屋に入ると、「お腹空いてない? 一緒に食べよう」と、近所の喫茶店からバターたっぷりの温かいクロワッサンと、生のグレープフルーツジュースをあたしの分まで注文してくれた。温かいパンなんて、しばらく食べたことがなかったから、その美味しさに涙しそうになった。BGMには素敵なジャズが流れていて、とても優雅なひととき。潤子ママに、本当は泊まるところがなく、ビルや工事現場で寝泊まりしていること、アクティブとの一件を話したら、それなら今日からしばらくここにいてもいいわよと言ってくれ、その夜のうちに、アクティブと堤さんに話をつけに行ってくれるとも。あたしはアクティブに軟禁され、せっつかれた状態で堤さんに雇用と、借金の肩代わりについての交渉をしていたとはいえ、お願いした昨日の今日で、上原さんという人に頼むことにしたのでやっぱり結構です、とは言えない。恩を仇で返すように感じて気がとがめた。ろくに話したことがない相手とはいえ、堤さんが引き受けてくれたからこそアクティブも納得したのだ。それなのに、知り合ったばかりのこの女の人のところで働くと言うのか。それでは堤さんに顔向けできない。

「お申し出は嬉しいのですけど、あの日、堤さんにお願いして来たばかりなんですよ」

「そうだったわね。でも、堤さんの店で働くとして、どこから通うの? 住むところもないのに」

「そうですね……」

「バンスを肩代わりしてもらうにしても、再び部屋を借りるにしても、また契約書を書いて判を捺してってなると、前と同じことにならないとは限らないじゃないの。そんなことをしていたら借金が増える一方よ。それなら当分の間はうちにいて、あたしの店で働いて、お金を貯めて、それから部屋を借りたほうがいいと思わない?」

「はぁ……」

「あたしは契約書もなにも一切必要ないわよ」
 
契約書を書かなくてもいい!? この一言が胸にずしんと来た。堤さんには悪いと思ったけれど、この一言で、上原潤子というこの女性に任せることにした。あたしは契約書というものが怖かったのです。堤さんはすごくいい人に見えたけれど、水商売の黒服とやらに少し懲りていたのもある。金銭契約書を書かなくてもいいと言われたことが、何より安心できたのです。
 
見事な調度品、洗練されていて、華やかで、清潔な潤子ママの家。かつて見たことがある景色。夜になると、潤子ママは、ほんとうにあたしのために彼らと話をつけに出かけて行った。ママを見送ったあと、初めてお邪魔したお宅で何時間か留守番をしていたら、いつの間にかソファーで眠ってしまっていた。トゥルトゥルトゥル……電話のベルが上品に鳴り響き、受話器の向こうから順子ママの声が聞こえた。今夜の話し合いはどうなったんだろう。

「もう大丈夫。今、アクティブに話をつけて200万円は返してきたし、堤さんにも仁義は通して来たで」
 
それを聞いたとたんに、激しいめまいがした。
 
人は、切羽詰まった状態から急に安心を得ると気が遠くなる。
 
部屋を借りたらまた借金が増える。潤子ママの言うことも一理あるけれど、でも、急にこんな流れになっちゃって、堤さんには申し訳ないことをしたなって胸が痛んだ。

「堤さんは何て言うてはりました?」堤さんはいい人そうなのに、この件で見損なわれたかも。さぞ気を悪くしたに違いない。怒っているかも。助けてくれようとしたのに。そう思うと、喉の奥がキューッと締まった。

「堤さんにはあんたとアクティブとの間であった件を話して、あんたには住むところもないことを言うて、わたしが預かりたいと思うって話したら、そのほうがいいと思います、って言うてくれはったで。あたしだって旧いもん。堤さんとは顔見知り」

「そうなんですか!堤さん、怒ってなかったんですね」

「怒らへんわよ。けど一応さ、ルールはルールだから違約金を払うって申し出たけど、そういう事情なら違約金は結構です、とも言うてくれたわ。まあまだ店にも出てないし、あれから3日も経ってないことやしな」

「そうなんや……」ホッとした反面、堤さんを裏切ったようで気落ちした。堤さんが怒っていないと知って余計に落ち込んだ。しばらくは、ミナミに出ても堤さんに会わないように、堤さんの店の前を避けて通った。
 
彼女は約束通り、その日のうちに、あたしの代わりに堤さんと会って事情を話してくれ、借金、住むところ、働き先、あたしの抱える問題のほとんどを解決してくれたのだ。しかし、この段階ではとりあえず所有権が変わったというだけで、借金は1円も減っていないわけだし、あたしの立場に何も変わりはないのだが、久々に大人に保護された気分になった。守られた気がして、あたたかく感じた。
 
その日暮らしに違いはないが、すぐに出て行かなくてもいいよ、という人を見つけて気持ちが安定した。あったかいお風呂、いい匂いのするシャンプー、清潔なトイレ、ふわふわの寝床、そして温かいご飯。セックスを強要されるでもないわけだし、誰かに守られている、というなんとも言えない幸福感に包まれた。ありがたかった。これらを与えてもらえるのなら、何を引き換えにしてもいい、とさえ思った。

潤子ママの家に居候する生活が始まり、ママの留守中に掃除をしていたら、父の名前と電話番号が書いてある紙切れを発見し、仰天した。何回も見たが、やっぱりうちの番号で、父の名前だ。うちのことやあたしのことは街の誰かから聞いて知っているのだ。でも、潤子ママからはそんな確認は一切されていない。きっと、知らなかったことにしておきたいのだろう。あたしもその思惑に乗っておくことにした。お互いに利益を認め合い、共存するならそれでいい。あたしは、ここに居たい。と思った。


■法衣を着たビジネスマン
 
やがて、ミナミにオープンするママのお店は内装工事に入った。あたしは毎日ママの付き人になり、大人のオモチャの乾電池を買いに行くことから、真夜中の大学イモのリクエストまで、付き人としての仕事をそつなくこなした。今のように24時間営業のお店なんてないに等しい時代に、真夜中に大学イモとやらを探しに出かけ、4時間も歩き回ったことがあったな。ミナミまで徒歩で行き着き、ようやく飲食店向けの深夜スーパーで大学イモを見つけて嬉しかった。ママの喜ぶ顔が目に浮かんだ。苦労して買って帰ったのに、家に着くとママは寝てしまっていた。早く食べさせたくて急いで帰ったけれど、夜も白み始めていたので無理もない。ひとり苦笑いしたのを覚えている。
 
潤子ママとの関わりでは、他の大人たちのように、あたしを物扱いしたり、欲望や思惑のために犠牲にしたり、見て見ぬ振りにうんざりさせられたりすることはなかった。子供っぽいところはあっても、子供染みた陰湿な苛めをされたこともなく、本気で憎々しく思うようなことはなかった。いつも顔を合わせたらお腹は空いていないか? 何か食べたか?と必ず聞いてくれたし、着るものも貸してくれた。そんな細やかなところもある一方で、一回ヘソを曲げたらなかなか戻らない頑固者。「目には目を、歯には歯を」が信念で、やられたら必ずやり返す好戦的なところのある人でした。復讐こそ我が命、みたいなね。媚びないし、白は白、黒は黒、と誰に対してもはっきりとモノを言う(言い過ぎる)人なので、好き嫌いが別れるひとではあった。納得がいかないことには断固として抗議する、そんな激しい正義感も併せ持った性格の潤子ママとしばらく一緒に暮らしたのですが、時折り邪魔にされようが、お金に細かいことを言い出そうが、苦々しく感じたことはあっても、心底腹が立ったことはないな。そもそも大人って勝手だし、人間ってそういうものだから。
 
でも、潤子ママは一旦自分の口から出たことにはまったく誠実な人だった。決めたことは変更しない性格だった。物事を途中で止めたり、投げ出すことがないのだ。それに、面倒をみると請け合ったあたしに対しては、「出て行け」など最後の言葉だけは絶対に口にしたことがない。約束は守る人で、根のところで信用できた。年を重ねるごとに嫉妬深くなっていったのが問題だったけれど、裏表がなく、いつも本音で接してくれるので、他の人の目から見たらキツい女性のようでも、あたしには楽だった。それに、あたしにとってみれば、13歳で親に捨てられ、路上で暮らし、借金取りに軟禁され、ソープに売られそうになっていたすぐ後だったから、潤子ママのことは神様みたいに思えたんじゃないかな。この後で、潤子ママとはある事件に巻き込まれて警察沙汰になったり、そのせいで彼女は逮捕されることとなり、憎まれたり、再び店を立ち上げる際には資金調達を助けるために一緒に走り回ったり、親友たえちゃんとのニューヨーク旅行では現地でトラブルに巻き込まれた時はいち早くお金を送ってくれ、素早い判断で窮地を救ってもらったし、帰国後すぐにたえちゃんが死んでしまい、一緒にいたあたしがたえちゃんを罠に嵌めて殺したと街中から疑いをかけられ、精神的にまいった時も、ママは味方になって支えてくれた。あたしと潤子ママとは非常に複雑な間柄ではあったが、お互いにどこか憎みきれない存在だった。潤子ママと出会ったのが確か1984年の終わり頃で、彼女が亡くなったのが2007年頃だったから、知り合ってから約23年後に心臓麻痺ということで、享年58歳だったかな。晩年はほとんど付き合いがなかったが、虫の知らせか、何年も会っていなかった潤子ママが連絡を欲しいと人を通じて言ってきて。店を閉めたのは噂で聞いていたが、このところはビリヤードに夢中になっていて、一人で通っていることとか、お互いの近況を語り合い、近いうちに会おうなどと言って短い会話を終わらせた、その5日後に潤子ママは死んでしまった。あたしは潤子ママの晩年に、あることがあって潤子ママを遠ざけていた。そのことについて許せるまで時間が必要だった。子供を生んだことすらも知らせなかった。こんなにあっけなく彼女が死んでしまうなんて考えもしなかった。でも、別れは突然だった。あたしに電話を寄越せなんて言ってくるなんて、よっぽど寂しかったんだろうな。なんでもっと早く会いに行ってあげなかったんだろうって、すごく悔やんだ。人が死んでしまった後には良いことしか思い出せないとはいえ、振り返ると、未だに彼女があたしにとってどんな存在だったのか分からない。母親のような存在だったのか、友人だったのか、敵だったのか、味方だったのか。でも、あたしは彼女が好きだった。
潤子ママとの生活であたしはたくさんのことを学び、身に付けた。多感な時期にかなりの時間を一緒に過ごしたので影響は大きく、女として、人間として師匠の一人だと思っている。
接客の仕方、ホストでの遊び方、男の人の扱い方、常識から非常識まで彼女の流儀を学んだ。潤子ママは英語とフランス語が話せて、美術に明るく、教養もあり、世界中を旅してまわった。船を操舵し、マリファナを好み、15歳からジャズを歌った。およそアジア人の感覚では躊躇しそうなドレスで裸同然の格好をするかと思えば、紬の渋い着物をビッと着たりするし、飲み屋で100万円も使ったかと思えば1万円の使い方にこだわる。
ママは同じマンション内に、お母様と、お兄さんの娘さんと、フィリピンから連れて来た体格のいいメイドさん、そして養子の和矢を養っていた。3歳だった和矢は、潤子ママが可愛がっていたホステスさんと、東南アジアの男性との間に生まれた子ということだったが、正式に養子縁組をしたと説明を受けた。
潤子ママは新しく開店する店のために毎日忙しくしていたが、和矢のためにきちんと時間を作り、愛情をもって接し、チャンスがあれば積極的に母親としての役割をこなしていた。どうしても手が離せない時に、和矢が高熱を出して救急病院に搬送されたとの連絡が入れば、あたしを走らせ病状を報告させた。世間一般の母親と同じく子供を気遣い、その成長や教育に悩み、和矢の幸せを望み、願っていた。

とは言え、彼女は普通の母親ではなかっただろう。型にハマった人生観を持たない上、見た目と経歴がかなりブッ飛んでいた。潤子ママによると、彼女は15歳からクラブでジャズ歌手をして働き家計を支え、そのうちお客に呼ばれて接客するようになり、ファッション業界の重鎮に可愛がられ、店を持つまでになった。世界中を旅してまわり、孤児を引き取って養子に迎えたり、独学で英語、仏語を学ぶ一方で、フィリピンから胴体にマリファナを詰めたワニの剝製を持ち込んで税関で捕まったりする人だった。一切言い訳をするようなことはなかったので、しばしば周囲に誤解されていたが、お金に汚くもないし、言ったことは必ずやってくれた。あたしからすれば、そんなにデタラメな人ではなかった。個性的な風体(年がら年中真っ黒に日焼けして、ゴールドのネックレスを何重にも首に巻き付け、黒いシースルーのドレスを昼の日中にノーブラで着用したり、エルビス・プレスリーのステージ衣装のように、袖には長いフリンジとスパンコール、ラインストーンに飾られた、大胆に胸元の開いた真っ白いパンツスーツを素肌に着たり、およそ水商売のママというよりは、芸能人か欧州に暮らすマダムのような服装だった)と、アクの強い性格から、勝手にそう思い込んでいる人が多かったが、あたしは、事実は違うと反論してまわったくらいだ。

潤子ママのお店が完成する頃、二人で大阪市内のとある会社を訪ねることになった。話の流れでは、お店のスポンサーの男性の会社で、潤子ママはそこに用があると言う。付き人のあたしもそのお店で働くのだから、あたしもご挨拶がてら一緒に行くということらしい。その人には別にちゃんと彼女がいて、北新地の中心地でクラブをやらせていた。潤子ママとは恋人同士、というわけではなく、ビジネスライクな関係に見えた。兎我野町の雑居ビルの一室。社長室に案内されて入ると、そこには紫色に金糸の袈裟をかけ、頭には西遊記の三蔵法師のようなものを冠った男の人がいて、ものすごく大きくて立派なデスクに座っていたので、面喰らった。坊さんは、寺にいるものだと思っていた。
「ああママ、ちょっと待ってね」
 関西弁ではない。
 
男の人は、その格好のままで、ラブホテルのティッシュとコンドームの経費がかかり過ぎているのはどういう訳か、と部下に説明と分析を求めていた。話が終わるまで、潤子ママとおとなしく座っていた。部屋の中を見回すと、コインで作ったお城など、キッチュなアートで溢れていた。
 
男性は、部下との話が終わると鋭い眼光をこちらに向け、いきなりこう切り込んで来た。
「なるほど、確かに上玉だな。だが店はダメだ。目立ちすぎる」

と、潤子ママに言った。あたしのこと? 未成年は使えないという意味かな。どうやらあたしの説明はすんでいるらしい。「俺はね、伊藤っていうんだ。管長って呼ばれてるけどね。もともと川崎のソープランドの出身で、ボーイからここまで這い上がってきた。お客さんからもらうチップを貯めてね、頑張ったよ。よかったらまた俺の話を聞いてくれるかい」
 (管長=「仏教神道で、一宗一派を管理支配する代表者。1872年(明治5)制定。」)
使えないと言ったくせに、あたしに話しかけ近づいてきた。さてはあたしを気に入ったな。40代半ばでお寺の管長職にある白髪まじりのスラッとした紳士は、あたしのなかで嫌悪の対象にはならなかった。「分かりました」この場合は、分かりましたと言うのが正解だと知っていた。目上の人に何か頼まれたら「いいですよ」ではなく「分かりました」と言うように躾けられていた。あたしは街でボンボンとか、二代目とか、遊び人とかそういった男の子しか知らなかったので、てきぱきと部下に指示する大人の男の人を見たのは初めてだった。ただ、法衣を着てラブホテルの備品の話をしている姿が異常で、少しばかりおびえを感じた。
それから、管長が潤子ママに分厚い封筒を渡して面会は終わった。この会社訪問の用件は、それだけだったのだ。数日して、潤子ママから、
「管長が近くにマンションを買ってあるからそこに住めば、と言ってくれているけど、どうするの。ここからもすぐのとこやし、あんたもそろそろ一人で暮らしなさい」
 高圧的ではないが、有無を言わさない感じだ。

「え、でも……」

「せっかく管長が、あんたのために親切で言うてくれてはるねんで」

「わかった」
 
伊藤管長と最初のデートはプラザホテルで天ぷらを食べた。あたしは早熟ではあったが、まだ子供だったし、積極的にセックスを楽しめなかった。それでも管長はあたしを腕に抱き、自分の苦労話をしてくれた。部屋の中を走り回り、追いかけごっこをしたりして笑って過ごした。
 
初めての日だけ朝までいて、マンションの鍵と引っ越し祝いのお金を貰って、その日は潤子ママのマンションへ帰った。ママは何にも訊かなかった。それからママと一緒に部屋を見に行った。管長が用意してくれたのは煉瓦が素敵な新築のマンションで、ロビーには植え込みがあり、玄関ポーチには吹き抜けまであるし、エレベーターは3基。一流ホテルのようなつくりの豪奢なマンションを一目見て、あたしの気持ちは踊った。
 
へえ、あたし、これからここに住むのか。広めのワンルームの部屋の中には新品のベッドやドレッサーが備えられており、電話機も用意されて、既に回線も引いてあった。しかし、このマンションに住んで何をすればよいのか。伊藤管長はあたしが未成年でまだ働けないと言うし、仕方がないので、またブラブラして毎日を過ごした。昼間は潤子ママのお使いに行き、夜はディスコに行って食べたり飲んだりして遊んだ。パトーナでは、一度だけアクティブの黒服とすれ違ったが、お互い一瞥を投げて知らぬふりをした。それからしばらくしてアクティブは閉店した。
 
管長のことは嫌ではなかったが、部屋に来られるのは断固拒否した。いつもいきなり電話してきて、今から行っていいかと訊いてくる。あたしは決まって、「部屋に来られるのは嫌や」と無愛想に言って電話を切った。
 
どんな部屋か見に行くだけだよ。10分で帰るから、とも言ってきて、それは本気だったかもしれないが、あたしは許可しなかった。それなのに管長の会社までお小遣い(というか、あたしの場合は主に食費)だけを取りに行って、その後のランチの誘いを断ったりした。あたしは冷たかったかもしれないが、だって、あたしは彼の嫁でも愛人でも恋人でもないのだから、あたしに甘えてくるのはお門違いだ!って思うようにしていた。
 部屋に来たいという要求を何回か拒否したら、とうとう相手が怒ってしまい、部屋を出て行かなければいけなくなった。あたりまえか。相手にしてみたら、そのためにマンションを用意し、住ませているつもりなのだから。それでも、あたしは違うと思っていた。管長から部屋は借りているが、この部屋に入れるような関係ではないと。別に、他に家に入れるような男関係があった訳ではないが、あたしの存在と同じこの中途半端な部屋に入れてしまったら、ほんまにただのオモチャになるやんか。そう感じていた。
管長が、あたしに惹かれてきているのは分かっていたから、余計に拒否したかったんだと思う。部屋に入れるような関係になったら傷つくのはあたしのほうって分かってた。潤子ママは、あんたはアホやなあと呆れていたが、あたしは別にそれでよかった。管長が用意してくれた部屋を出て、また、着の身着のままのジプシー暮らしが始まった。
 
この頃にはヤサ(家宅)にしてもいいような場所も増えていたし、またしばらくはそんな家を転々とした。アーティストやら、服飾やら、モデルやら、何をして生計を立てているのかよく分からない者たちとツルみ、バカなことばかりやって遊んだ。背中に黒い大きな十字架を背負って練り歩き、七色のカツラを被ったゲイたちと仮装して、毎晩のように出歩いた。
 
心配だから、時々は顔を見せなさい、お金がなくなったら取りに来なさいと言う潤子ママの言葉に甘え、お金がなくなったらママに連絡した。2週間か3週間に一回、潤子ママのうちに顔を出すと、1万円くれたと記憶する。ママにとったらあたしは商品にならない商品。管長の反対に遭い、すぐに店に出せなかったのは誤算だったろうな。おまけにせっかく用意した部屋も出て行くんだしね。たまにブツブツ言っていたが、気にしなかった。潤子ママは亡くなったお客さんのお葬式へ集金に行き、家族の方から香典をかっさらって来たりと、冷淡なところもあるのに、死にかかっている犬や猫を拾って来ては病院へ連れて行き、自分の家で飼うなど、妙に慈悲深いところもある人だった(潤子ママにしたら、あたしのこともその犬猫と同じ感覚だったのかも!)。彼女はアドバイスはしてくれたが、あたしに無理強いをしたことは一度もない。偉そうに言うこともないし、いつもあたしの意志や意見を尊重してくれようとしていた。あたしの二十歳の時には着物の一着も持っていたほうが良い、とまるで母親が娘にするように、成人式のお祝いにと新品の着物の一式を潤子ママが贈ってくれたこと、そのことは死んでも忘れない。世間では守銭奴と陰口を叩かれることもあった潤子ママだったが、あたしを心配してくれていたのは真実だったと、それは今も確信している。
 
いつものようにお金がなくなって潤子ママに電話すると、若くてやり手で素敵な人がいるから、一度その人と一緒にご飯でも食べてきたらと提案してきた。日にちを指定され、その日ママのマンションを訪ねた。最近はどうしているのと訊かれて、夜遊びや、新しく出来たディスコの話などをしているうちにその男の人はやって来た。
 ママから聞いていた通りの人だった。うんと年上の男でも大丈夫な女の子だったら、絶対に断らないタイプの男性だった。優しくて、落ち着いていて、清潔感がある。うんと年上といってもまだ四十代だと言っていたと記憶するが。でもまああたしが当時14歳なんだし、お父さんのような年齢差ではあったということだけどね。
 潤子ママはその人にあたしを「可愛がっている子」と紹介した。その人は、リビングのソファーに腰掛けて一通り世間話をすると、あたしのほうをじっと見てから、思い出したように上着の内側から分厚い封筒を二つ取り出して潤子ママに手渡した。

「これは、お母さんに」

「ありがとうございます」

「こちらはママに」
 
なんでこの人が潤子ママにこんな大金をあげるのだろう。そう言えば、立て替えてくれた200万円の話は潤子ママから一度もされなかった。当時はまったく気が付かなかったが、きっとあたしは、自分の知らないうちに、自分の借金を自分の体で返済していたのだろう。鮮やかな手口だ。潤子ママは、未成年として有名過ぎるあたしを自分の店で使うことは断念したが、かかった元手をキッチリと回収していたのだ。しかも、誰も嫌な思いはしていない。
あたしは、これまで43年間のうち、一人を除いてすべて自分の意志で男の人を選び、好きになり、体を許してきた。潤子ママは確かにあたしの心配もしていたのだろう。でも、いくら可愛いがっているとはいえ、14歳ではあと4年は商品にならないのだし、手懐けたってメリットが少ない。しかし、200万円を回収しないという訳にもいかなかったのだろう。
結局その男性とは、食事の後にホテルの部屋まで行った。素敵な人だったけれど、初めて会った14歳のあたしに子供を生めとか言うので、この人とは付き合えないなって直感した。いい人だったけれど、その人とはその日限りで二度と会わなかった。なかなか大人たちの思ったようには収まらないあたし。せめて居所を一定させようとしたのか、次に潤子ママは、自分の新しいボーイフレンドに、所有するマンションの一室をあたしに貸し与えるようにさせるわ、と提案してきた。
 
その土佐堀通りのマンションはとても寂しい所にあったので、幼稚園から一緒の、ちょっと悪い部類の友だちに連絡を取って、自由に出入りさせた。すると、あたしの留守中に勝手に鍵を複製して、誰彼が合鍵を持つようになっていた。ある夜、久しぶりに部屋に戻って電気を点けたら、半裸で全身入れ墨の知らない男がいて、びっくりしてマンション中に響き渡るくらいの声で絶叫したことがある。
怖かったけれど、若いその入れ墨の男に、「おたく誰? ここはあたしの部屋なんだけど、どうやって入ったのよ」と訊いたら、あたしの友だちのお姉さんと付き合っていて、ここで寝泊まりしてもいいってことで鍵を預かって入ったらしい。その男は、行くところがないので今夜だけ泊めてくれと頼んで来たのだけれど、見も知らない(しかも入れ墨の)男と狭いワンルームマンションで一晩一緒に過ごすなんてとても考えられないし、断ったら、彼は困った様子だったけれど、最終的には素直に出て行ってくれた。
 
もしかしたらこの男は指名手配犯で、友人の姉があたしの部屋で匿【ルビ=かくま】っていた可能性もあるし、変質者とか、薬物中毒者だったらと考えるとほんとうに恐ろしい。下手をすると、とあたしは殺されていたかもしれない。
鍵を渡した友だちとその姉を問いつめると、家にいた頃とは違い、「だから?」と他人事のような態度でまったく反省がなかったので、とても寂しく感じた。幼稚園から一緒だった彼女らとはそれっきり一度も会っていない。
 
しばらくしてから、その部屋の持ち主である潤子ママのボーイフレンドが、潤子ママと別れた後に突然あたしを訪ねて来たことがあって、「ママとは別れた。部屋を貸してやっているだろう、俺に義理があるんだから体を自由にさせろ」と迫ってきたので断った。それなら今すぐここから出て行けと言う。じゃあ出て行きますよってことで、とうとうそこも追い出されてしまった。


■夜の男
 
葵ちゃんは、ホストクラブ「ウエディングベル」のナンバーワンだ。背が高く、鼻がスっとしていて格好がいい。ジュリー(沢田研二)のような長髪で、コリー犬のような顔立ち。潤子ママに連れられて通った何軒かのホストクラブで仲良くなったホストの中に、葵ちゃんがいました。

住んでいた部屋の持ち主で潤子ママの元彼に、この部屋にいたければセックスをさせろと強要されて、そのまま荷物をまとめて逃げ出していた頃です。泊まる所を探すうちに葵ちゃんに行き当たったのだった。葵ちゃんは、ウエディングベルの寮の一室に暮らしていた。葵ちゃんの他に五~六人の入居者があっただろうか。葵ちゃんはナンバーワンの特権で、一番広い部屋に大きなベッドと、50cmくらいの高さの金庫と、専用電話を引いていた。そして、そのナンバーワンの口添えで、なんとあたしはその寮に置いてもらえるようになったのだ。
夜、ホストの皆が仕事に行っている間はディスコに行ったり、一人で寮にいる時は暇だから、彼らのゴルフバッグの整理をしたりして時間を潰した。女人禁制のホストの寮には決まり事がいくつかあった。リビングにあるピンクの公衆電話は何があっても取ってはいけない。誰かがお客さんと話していたら絶対に声を出してはいけない。くしゃみもしてはならない。葵ちゃんとの電話は彼の専用電話で、呼び出し音で合図を決めてあった。朝方、留守番電話に声が入る。

「マリカー、居てるかー、シャケ弁とのり弁と、どっちがええ?」
葵ちゃんだ。受話器を取って叫んだ。

「今日はのり弁!!」
 
早朝に、白だの、青だのというスーツに、キンキラキンのダイヤモンドが埋まったアクセサリーを身に付けた男たちが、タバコと、様々なコロンの香りを振りまきながら、ドヤドヤと玄関のドアを開けて入ってくる。とつぜん騒がしくなった部屋。葵ちゃんの香水の匂いが近づいてくる。

「起きてるかー」
 
飛び起きて、あたしも一緒にお弁当を食べる。銘々が、その日お店であったことを話す。たいがいは愚痴や文句だ。女としては聞き捨てならないようなことも話している。しばらく彼らの本音とウラ話を聞いて過ごしたあたしは、この先どんなことがあっても、一生ホストの言うことだけは絶対に本気にしないと誓った。

生活は、葵ちゃんが面倒を見てくれていたから特に不自由はなかった。あたしと葵ちゃんは相棒のようなものだった。たまに葵ちゃんのお客さんが店でお金を出し渋りだすと、寮の専用電話が鳴る。「マリカ、ちょっと来てくれ」。あたしの出番だ。きれいに着飾って、完璧にお化粧をして葵ちゃんのお店に行く。店に入るとボーイさんに一番目立つ席に案内され、葵ちゃんがすっ飛んで来てあたしの横に恭しく座る。
斜め前のおばさんがあたしをガン見してくる。あーあれか。あたしは葵ちゃんと親密そうにヒソヒソ話をして、わざとそのお客さんに焼きもちを妬かせる。内容は、これが上手くいったら焼き肉に行こうぜ、とか、そんな他愛のないものだったと思う。それから、お客さんの競争心を煽るため、あたしの席では、まずピンクシャンパン(夜の世界ではピンク、またはピンクシャンパンと表現するのが普通なのですが、正式にはロゼですね)が抜かれた。もちろん葵ちゃんの払いだ。それを2、3本ほど楽しく飲み干すと、次に、(高級コニャックの)ルイ13世とかロイヤルバストとかが出てくる。その頃には、気が触れるほど葵ちゃん指名のコールがアナウンスされる。葵ちゃんは、ギリギリ限界のところまで放置してから、斜め前に座るおばさんの席に戻る。
 
おばさんは、勝ち誇った様子であたしを見て、ルイ13世を3本抜いた。おお、スゴいぞ。さあ、これであたしの役割は終了だ。ちょっとキレ気味に席を立つ。小芝居をするのはサービスだ。というよりマナーかな。席を立つと葵ちゃんが玄関まで見送りに来て、今夜は遅くなるから、これでメシ食って遊んでこいよ、と5万円をバッグに入れてくれた。葵ちゃんとはセックスもしたが、彼はナンバーワンホストなので、色恋やセックスは仕事。あたしを側に置いてくれたのはそういう理由ではなかったように思う。しばらくして、葵ちゃんは違う店に引き抜かれたため、ウエディングベルの寮を出るタイミングで別々になった。葵ちゃんは、一緒に来るかと聞いてくれたが、ついて行くのはなんとなく違う気がして、遠慮した。
 
葵ちゃんのところを出てからは、怒濤の3ヶ月が待っていた。留置所に入れられたり、デヴィッド・リンチ監督の名作『エレファントマン』で知られる象皮病にかかったりと、散々な目にあった。このようなことが重なり、約1年間の浮浪児生活の末に一旦は父の元へ戻ることになるのですが、ここでその幕開けと言ってもいい事件が起こったのです。