不死身の花 第三回 | 是日々神経衰弱なり
第一章 生まれたところ(続き)

第3回

■どうしてもほしいもの

「きょうだいがほしい」

父は吹き出すように笑い、少し困った顔をして、

「ママに言いなさい」
と言った。

今度は母に、
「おねえちゃんか、おにいちゃんがほしい」
と言ったら、

「パパに言いなさい」
と言う。
また父のもとへゆき、
「ママがパパに言えって」

「……」

「……」

「神戸のお姉ちゃん達がいるだろう」

「お姉ちゃん達はここに居てないもん。神戸に居てる」

「……あのね、今からだとお姉ちゃんは生まれないだろう。妹がほしいのかい」

「きょうだいがほしい」

「そうか」

「ママに言うて」

「わかった、わかった」
 
後日、母からきちんとしたお断りの返事があった。


「私はおまえを生む時に大変な手術をして、死ぬところだった。その手術の痕を見せたことがあるだろう」

「……」

「それで、私はもう子供は生めないし、生みたくないの」
 
黙って頷き、自室に戻った。母にきっぱり断られた。有無を言わさぬ応答だった。
 
この日以来、二度と、きょうだいがほしいと言うのはやめた。


■いのちのひかり

「犬を買ってほしい」
 
きょうだいが欲しいと言う代わりに、あたしはこう言ってみた。それまで、道端や公園に捨てられていた子犬を拾ってきては、ちゃあちゃんにさんざん怒られ、悲しいお別れを経験していた。捨てられた子犬を見つけては、
「こんな可愛い子犬を捨てるなんてどんな人間や。許されへんわ」
と憤慨したものだ。子犬を拾った帰り道、あたしの「義憤」はなかなか収まらず、自宅に戻ると、憤慨を哀願に変えてひたすらお願いをする。

「お願い。ちゃんと面倒みるから。散歩も行くし、迷惑かけへんから」

「何度言ってもダメなものはダメ」

「見て!こんなに可愛いねんで。可哀想やんか、うちで拾ってやらな死んでしまう」
 
ようく見えるように、子犬をちゃあちゃんの目の高さまで捧げるように持ち上げて見せた。あーでもない、こーでもないと粘り、果ては、

「この犬を飼うてええなら、またそろばん習いにいってもええで」
 
などと、交渉とも言えぬ理不尽を口にしたりしたが、どうしてもちゃあちゃんのお許しが出ない。今度こそは!と毎回いきりたったがダメだった。子供なりに一生懸命に説得しようとしたが、ちゃあちゃんはどうしても首を縦に振ってくれない。最後は涙が止まらなくなり、自分でも何を言っているのかよく分からなかった。
 
仕方がない。拾ってきた場所に、今度はあたしが捨てに行かなくてはならなくなった。かわいい子犬を捨てた誰かをあんなに罵ったのに、あたしもその同類になってしまうことが本当に情けなかった。
 
一度は拾われたのに、再び捨てられる子犬の気持ちになると辛かった。自分がこの頼りなげな小さな命の行く末を握っているような気がしたからだ。せめて少しでも長く生き永らえて、どこかの誰かに拾われるチャンスに恵まれますように……。紙皿に牛乳をたっぷりと注ぎ、子犬に飲ませた。子犬は、必死で飲む。

少しは栄養がまわったかしら。

自分の非力を子犬に心から詫びた。惨めだったが、現実に従った。
 
今回もやっぱり子犬を救えなかった。窮地にある子犬を救ってやれなかった。落ち込んだ。子犬が人間の都合で捨てられる、生まれたばかりの子犬は助けを求めているのに、それを救えない、かわいそうだ、自分はなんて無力なんだ。でもむしろ、あたしこそ、子犬が自分の側にいてくれる生活を求めていたのだと今になって考える。もの言わぬ捨てられた子犬の黒くて丸い純粋な目に触れて、幼いあたしは、求めても得られぬ「きょうだい」や仲間の代替物を感じとっていたのだと思う。
 
それからいつぞやは、玄関下を通る下水溝から微かに子猫の心細い鳴き声を聞いたような気がした。耳を澄ますと確かに子猫の鳴き声がする。
 
生命の危機だ、一大事だ、と必死で大人達に訴えるが、みんな無関心で、いくら言っても耳を貸してくれない。
 
それなら自力で助け出そうと一生懸命に手を伸ばしたり、そこらで見つけてきた棒でつついて驚かせ、暗い溝から出てくるように仕向けたり、棒で下水溝につながる金属部分を叩いたりして、なんとか救い出そうと必死で頑張った。しかし、子猫は怖がっているのか、お腹が空いて動けないでいるのか、一向に出て来る様子はない。あたしなりに知恵と力も振り絞ったが、埒があかなかった。そして、なにもできないまま陽は暮れてゆき、辺りは暗くなっていった。万策尽きて、怯えて固まっている(はずの)子猫の気持ちになると、いてもたってもいられなかった。最後は成猫の鳴き声を真似てみたりもした。親猫になり代わり、心を込め語りかけてみたがやはりダメだった。とうとう日没を迎え、大人たちは全員いなくなった。父が業者に言って取り付けさせた自動シャッターが降り始めても諦めきれずにそこにしゃがみ込んでいた。時間がきて、無情にも鉄のカーテンがあたしと子猫の間に降り、あたしは子猫と完全に遮断された。子猫の鳴き声は閉ざされたシャッターの向こう側に消え去った。あたしは肩を落とし泣きながら自室へ戻った。
 
あたしは自分の力で実行できる全ての努力はしたが、1日、2日と過ぎてゆくと、次第に子猫の鳴き声は弱々しくなってゆき、ついに聞こえなくなった。とうとう子猫は死んでしまった。母猫に捨てられたのか、あるいははぐれたのか、可哀想に、さぞかし心細かったろう。暗くて恐かったろう。お腹がすいて辛かっただろう。あたしは子猫に何もしてあげられなかった。
 
あたしには住む家があり、電気の点く自分の部屋がある。独りぼっちでもテレビがあったし、ステレオもマンガも持っていた。お腹が空けば冷蔵庫を開けるとチーズが食べられたし、暖房のスイッチを入れれば暖かい部屋にいることもできた。あたしがぬくぬくと自分の部屋でミカンなんぞを食べているその間にも、子猫はお腹を空かせて死んだのだと考えるとやりきれなかった。あたしは子猫を助けられなかった。申し訳ない。そう思うと悔しくて、その日はいつまでもぐずぐずと泣いた。力のない自分を責めて、恥じた。
 
その後しばらくは玄関の下水溝の上を歩く度に、「この下には、あの、無情にも、びしょ濡れで腹を空かせたまま誰に助けられることもなく、とうとうそのままのカタチで朽ちていったであろう子猫の死体がある」と思いながら、心と体を強張らせて神妙に通った。

 
もっと時間が経ち、そのうち玄関を出入りしていても死んでしまった子猫の無惨な死を哀しく思い浮かべることもなくなったころ、

「子猫はそろそろ白骨化してるかな」

と、誰も訪れることのない暗闇に、小さく丸まったまま冴え冴えと光る子猫の真っ白な脊椎をぼんやりと想像した。
 
あれから何十年経っただろうか。あの子猫は、今もあそこに眠っているのだ。あたしだけは知っている。かつてあたしたち家族が暮らした建物が子猫の墓標だ。
 
名もなき子猫よ、安らかに眠れ。あたしは一生、君の儚い人生と、懸命に生きようとした生命の光を忘れないよ。


■生と死と欲にゆらぐ
 
大阪には、大阪名物というのがいくつかあります。昔から道頓堀にあって、全国的にも名が通るようになったもののひとつに「かに道楽」という店があります。「かに道楽」は文字道り蟹を一年中食べさせてくれるお店で、蟹好きの聖地でもあります。店の外壁に飾られた作り物の巨大な蟹はインパクト大で、大阪を訪れる観光客が写真に収めるもののひとつに違いありません。あたしの家族は蟹が大層好物だったらしく、あたしも例外ではありませんでした。幼少時によく食べに出かけたのか、今でも「かに道楽」店頭の動く蟹には大変な親しみを感じます。ぼんやりとした記憶にあるのは、大勢の人たちと一緒に「かに道楽』」の座敷で食事をしたこと。ざわざわとした人の気配と大人達の笑い声。あたしにはちゃあちゃんが側に居て、蟹身を殻から外して食べさせてくれていた。
 
おいしい。蟹大好き!

などと思いながら、あたしは大好物の蟹みそを食べるために、容赦なく何度も甲羅にスプーンをつきさしては好物に舌鼓を打っていました。

すると、突然、ちゃあちゃんが何を思ったのか、

「蟹はおまえに食べられるために死んだ」
と呟いた。

「なになになに?どういうこと?」

5歳くらいだったろうか、ちゃあちゃんの言葉が頭を駆け巡った。そして、その言葉をひとつずつよく反芻してみた。あたしは充分傷ついた。
 
この蟹は、あたしに食べられるために死んだんだ。
 
ということは、この蟹は人間に食べられるためにこの世に生まれてきたというの?それは、死ぬために生まれてきたということだ。ただ、食べられるためだけに生きて、そして食べられるために死ぬ。あたしのため、誰かのために。
 
そう考えると急に目の前の蟹が生命の残骸に感じられてきた。せっかく生まれてきたのにあたしが食べるために死んだ一個の生物となった。

「嘘や。そんなんと違う」

「違うことはない。おまえが食べるために蟹は死ぬ」
 
うわあ~ん。あたしのせいで蟹は死んだ。
うわあ~ん。あたしが蟹の命を奪ったのだ。

ちゃあちゃんが一体どんな意図を持ち、どのような教育方針でこのようなちょっと意地の悪いことを言ったのかは分からない。せっかく機嫌良く食べている小さい子供に、わざわざ言わなくてもよいと思う。あたしは途中まで食べていた好物の蟹が食べられなくなっていた。涙も止まらなかった。

「蟹が可哀想やから、もう食べへん」

「蟹は食べてもらった方が嬉しいと思うよ。あなたに美味しいって言われて喜んでいるよ」

「あたしが食べなくなったら、蟹は死ななくてもいいやんか」

「でも、蟹は大好きだろう?これから一生食べないでいられるのかな」
 あたしはお皿に乗った好物の蟹を見た。甲羅についた蟹味噌はまだ食べかけのまま残っていた。

「……蟹、食べたい」
 
その夜あたしは生まれて初めて泣き笑いしながら蟹を食べた。しみじみと、蟹の死に感謝をして。
 
このとき、欲と不条理に悩み、考えて、一足飛びに大人になったような気がする。
 
人は生命を食べて生きている。
生物の命を奪って生き長らえている。紛れもない事実だ。
 
この時、その事実を突きつけられ、自分なりに考え、自分も含め、
「人間は汚い」
と思った。
 
純粋な5、6歳の幼児の頃に感じたことだ。偽善者などと意地悪を言って非難しないでほしい。


■チルと母とあたし
 
その日がやってきた。
 
とうとう犬を買い、飼う許可を勝ち得たのだ。
 
ちゃあちゃんが居た頃は何を言ってもダメだったが、うちに誰もいなくなって可哀想だと感じたのか、母が許してくれた。思ってもみなかったことだ。

この家で母が味方につけば全ての望みは叶い、解決したことを意味する。
 
母は自分の寝室へ初めてあたしを招き、自ら導き入れ、金庫の上の大黒さんだか何かの立派な陶器の置物を重そうに床に下ろした。それから、あたしに新聞紙と金槌を持って来るように言い付け、広げた新聞紙の上にその立派な置物を置くと、いきなり金槌で叩き壊し始めた。
「な、なんてことを……なんで?」
壊された置物からは沢山の硬貨が溢れ出てきた。置物は貯金箱にもなっていたのだった。

見るからに高そうで立派な置物は、未練のカケラもなく見事粉々に砕け散った。
 
手を切らないように、陶器の破片を避けて慎重にお金を取り出していき、母と一緒に硬貨を数えた。年に2回と食卓を共にしない母との関係が一気に近づいたと思えた日だった。今考えると、犬を買うためにわざわざ立派な置物を叩き壊さなくても犬を買うお金はあっただろうに、あたしと一緒にそうする行為に意味があると母は考えたのだろうか。
 
母が叩き壊した貯金箱から集めたお金は11万円くらいになった。そのお金を持ってその日のうちに母とペットショップへ行き、ふわふわの、真っ白い牡のマルチーズを連れて帰った。

「名前はなんにしようかな。ブルー、マリー、クレオパトラは長いかなあ」
 すると母が、

「マルチーズだからチーズ、チズ、チルにしよう」と言った。

「ええ~可愛くない」
 
母が怖いので、心の中だけで言った。あたしは最初その子犬をブルーと呼んでいたが、結局はあたしもチルと呼んでいた。父からは、あたしの部屋にチルのケージを入れるように命じられた。

食事の世話はあたしがしていた。チルが子犬の頃はササミを湯がいて細かく裂いたものを与え、牛乳を飲ませ、ササミの買い出しも散歩もあたしの仕事で、それが犬を飼う条件だったのだが、大人の予想通り、初めだけに終わった。
 
世話をやめたからチルはあたしになつかなかったのか、なつかないからあたしはチルの世話をしなくなったのか分からないが、とにかく、あれだけ憧れに憧れた犬との生活は理想とはかなり違った。犬はあたしになついてくれないのだ。
 
チルに気に入ってもらおうと犬用のオモチャを買って与えてみたり、父には内緒でこっそりとチーズやビーフジャーキーなどを食べさせなつかせようとしたが、チルとの関係は一向に良くならなかった。
 
お小遣いでチルのためにオモチャを買ってきても、我が家では犬には禁止のおやつを食べさせても、オモチャでは遊ぶし、おやつも夢中で食べるが、こんなに色々と喜ばせているのに、やっぱりあたしにはなつくことはなく、それが憎たらしくて、時たま癇癪をおこしてチルを殴ったり、壁にむかって投げつけたりしたこともあった。犬の目から涙が溢れるのを見て、完全にあたしに屈服するまでやった。
 
信じてもらえないかも知れないが、犬には悲しいときの涙がある。しかしチルは、その時はキャーンと哀れな鳴き声を出して赦しを請うて泣き、一瞬だけ身をすり寄せてあたしを喜ばせ、満足させたが、父の姿を見るなり、たちまちあたしに牙を剝き、ますますあたしにはなつかなくなった。
 
世話を放棄したあたしに代わり、いつも朝晩と決まった時間に規則正しく散歩に連れて行き、餌の世話からグルーミングに至るまで、きっちりと、一日も怠ることなく面倒をみていた父に、ことのほかチルはなついていた。
 
父は、あたしの世話をしたことはないが愛犬チルの世話は完璧だった。
 
あたしは父とチルの関係を羨ましく感じていた。でも、チルの世話を全くしないでモノだけ与えて気まぐれに可愛がろうとするあたしは、自分の母親と同じことをしてチルをなつかせようとしていたに過ぎない。チルとあたしの関係は、あたしと母の関係そのままだった。さしずめ父の役割はちゃあちゃんなのかなって思った。しかし、あたしがそれに気付いた時にはもう遅かったのだ。チルは2度とあたしに心を開くことはなく、絶対になつこうとしなかった。


■虐待と絶望。あきらめ
 
いくつかの出来事が母との貴重な思い出として記憶に残っています。その、母との忘れられない出来事をここにもうひとつ書いてみよう。

 
小さい頃は、ほんとうによく母に地下室に閉じ込められたり殴られたりしたのだけれど、その日もあたしは母に殴られて、自宅3階の階段から1階まで転がり落ちていた。
 
3階の階段から2階へ落ちる時は、いつも両手で頭をかばい、リズミカルに転がるように心がけた。ケガをしないコツは、落ちている最中に壁に体をうまく当てて転がり落ちること。しかし、執拗に追いかけてくる母から逃げるためには、今度は2階から1階までの長い階段を降りなければならなかった。
 
その際、2階から1階までの階段は傾斜が急で5メートル近くもあったので、少し用心して、横向きで壁伝いに滑るように落ちるか、頭を上にして滑り台を降りる要領で足から落ちる必要があった。
 
ケガをしたくないと思う反面、ケガをしたらしたでいいとも思っていた。なぜなら、階段から落ちて骨折でもしたらしばらくは折檻されないだろうとどこかで考えていたからだ。いや、密かにそれを願っていたのかも知れない。
 
でもいつも大きなケガをせずうまく転がり落ちた。そんなこんなで命からがら裸足で玄関から飛び出し母の折檻から逃げ出した。じゃりじゃりとした感触の舗装道路をワンブロック先まで夢中で走って行き、途中で振り返って見ると、ぎょっとした。なんと母は右手に木製の頑丈なハンガーを持ち、鬼のような形相で、あたしを追いかけて来ているではないか。50メートルくらいは追って来ていたと思う。あたしは、これはまずいと考え全速力で逃げた。再び後方を振り返ると母が立ち止まっていたので、あたしも立ち止まった。お互いにらみ合ったままでしばし様子を見ていた。2人とも肩で息をしていたが、あたしより母の方が激しく上下しているようだった。
 
自宅の階段を降りるのに手間取って、あたしに逃走時間を稼がれ、もう追いつかないと判断したのか、にらみ合っているうちに少しは冷静になれたのか、己の老いを、あるいはあたしの成長を認めたのか、母はそれ以上あたしを追うのを諦めると、くるり背を向け自宅へ戻って行った。
 
またある夜のこと。母から折檻を受けているときに珍しく父が家にいたので、今夜は助けてもらえる、庇ってもらえるだろうと安堵した。母から引きずり回され転倒し、床に伏せていた顔を上げようとしたそのとき、
「頭はよしなさい、頭は。バカになるから」
という父の声を頭上から浴びた。その瞬間、冷水のシャワーをかけられたようにハッとした。

あたしはこうして、現在までずっと、親にも誰にも助けを求めない人間になった。

小学校にあがる頃までは住み込みの乳母(ちゃあちゃん)のことをずっと母親だと思っていたし、その乳母が結婚して家を出た直後から実母の本格的な折檻が始まった。
 
無関心な父親、万引き、補導、学校内での激しいイジメ、教師への不信、性的虐待などなど…でも、幼稚園・小学校時代はこれがあたしの日常だった。生まれた直後から、そして、幼稚園から小学校までの12年間、家でも学校でもこんなことしかなかった。いい思い出など、なにひとつとしてない。
 
中学校へ入ったら入ったで、あたしの身の上には休む間もなく次から次へと災難が降り注いだ。
 
中学校へ入学するのとほぼ同時に母の死が待っていたのを皮切りに、その後すぐ父の再婚が。次に起こったのはお決まりの継子いじめ。父も、誰も守ってくれる人のいない状況の中で、あたしは継母から急性腎炎になるまでいじめ抜かれ、ついには身一つで家を追い出される始末。
 
親に捨てられたわけだが、でも、それで人より早く社会へ出られたわけだし、それに、野良猫だったおかげで様々な経験もできた。バブルの時代もそんな具合に生き延びたし、実に多種多様な人たちと出会う事ができたしね。
 
でも、楽しいことばかりではなく、14歳の時には大きな事件に巻き込まれて大阪府警本部の刑事や検事正から取り調べを受けたり、未成年なのにマスコミに追いかけられたりワイドショーで取り上げられたりと、かなりしんどい経験もした。
 
後にその事件は映画になってしまった。不幸は重なるもので、そんな最中に体調を崩してしまい、映画『エレファント・マン』で知られる象皮病という奇病にかかってしまった。このときだけはさすがに「もしこのまま治らなければ生きていても仕様がないな」と考えた。

家にいられなくなり、街で暮らしたあの頃は、いつ死んでもおかしくなかった。数々の出来事を思い出してゾッとすることもあるが、当時はまったく平気だった。若さかな。それもあっただろう。
 
生きるのに必死なとき、人は恐怖や死を感じない。親に捨てられても涙なんて出なかった。これまで家を出されてから一度も泣かなかったと言えば嘘になるが、涙はいつも亡くなった母に対するものだった。我が身を哀れむ涙など、とうの昔に枯れていた。それよりも街で食べ物を確保し、寝床を探すことに頭がいっぱいだった。あたしには泣くよりも、「今日」という日を無事に生き延びることの方が重要なことだったのだ。
 
都会のド真ん中に育ったとはいえ、女子小・中学生が女性アイドル歌手に憧れ、色つきのリップクリームを塗っただけで不良と指を差された時代である。携帯電話もインターネットも漫画喫茶もない時代。あたしは自分の目と耳と直感と経験だけを頼りに生きるしかなかった。自分の体(情報)と街だけが13歳のあたしの全てだった。1980年代の半ばのことだった。

よく今まで無事でいられたよねと言われることがあるが、ほんとにそうだよな、って感慨深く思う。だけど、不思議なことに、どんな思い出も今となっては全てが宝物のように思えるのだ。

その日暮らしの路上生活が始まったのは、中学校1年生の夏休みが終わった頃だったろうか。
それは13歳の秋、肌寒くて空気の澄んだ早朝でした。


■ストリート・チルドレン──街でさまよい暮らす

「お寿司食べに行かへんか」

どうしよう。

「大丈夫や。心配せんでええ。さっきからずっとそこに座ってるやんか。2時間ほどまえに通った時も、そこにいてたがな」

どうしよう…お腹空いたなあ。でもなあ……。

「寿司はいやか。ほんなら焼き肉でも食べるか。ほら、食べさせたるから車に乗り。お腹が空いたんやろう」

焼き肉!お肉やて。お肉なんていつ食べたっけ。とりあえず、なんか食べさせてくれるみたいやけどなあ。でも、ついて行って大丈夫かなあ。

うーーん…
 
焼き肉の香ばしい香りが脳裏を過った。そして、焼き肉のタレの味が遠い記憶から甦ってきた。

いざという時は逃げたらええか。

2日ほどまともに食べていなかったし、お腹が空いていたので声をかけてきた男の親切な言葉に甘え車に乗った。すると、男はなぜか高速道路に入り、車はどんどん海の方へと向かって行く。
「なんで高速に入るん?」あたしは心に冷や汗をかきながら男のほうを向いて問うた。男が何を考えているかを表情から読み取ろうとしたのだった。しかし、ごつごつした大きな手でハンドルを握る男はにやにやするだけで答えない。夕刻、車の向かう方向には林立するラブホテルのネオンが犇めいて見えている。よく見ると、男の袖口からは入れ墨のようなものがのぞき、足下には拳銃らしきものも見える。真夏の長袖だし、シャブの話も始めてきた。
 
あかん、間違えた。このままではヤバい。
 
あたしは怖くなった。こんな男に自由にされるのはまっぴらごめんだった。そして、乗り継ぎの料金所で男が追加の高速代金を支払い、料金所を通過しようと車を急発進させたところで素早く決心した。
 
逃げるなら、もうここしかない!
 
ロックを外して助手席から飛び降りてやった。無我夢中で後ろなど見もしなかった。転げ落ちてから、「神様お願いします!助けて下さい。死にたくないです」と頭の中で唱えていた。
 
でも、もしこの時に運悪く、後ろからトラックでもダンプでもきていたら、あたしはここに居なかったと思うな。
 
とにかくなんとか無事に車からは逃げられた。車に轢かれることもなかった。しかし、ここで安心はできない。男が追いかけてくるかも知れないし、こんなところで突っ立ってもいられない。今、車で来た長い道のりを、徒歩で逆行しなければならないが、一刻も早く高速道路から出なくては2次被害のおそれがある。
 
素早く、されど用心して無事に一般道路まで確実にたどり着くようにしなければ。そんなことを考えながら、もう2度とこんなことが起きないように反省もしていた。今後どんなにお腹が空いていたとしても、もしまたどれほど親切な言葉で車に乗せたろかというような人がいても、今度は絶対に乗らないと自分に言い聞かせながら涙をこらえて走った。というより泣いたりする余裕もなかったことを憶えている。

前方に車のヘッドライトが見えるまで目を凝らして全速力で走り、走行して来た車が圏内に近づいてくると立ち止まり、すぐさま道路の端の縁石に飛び乗った。万が一ぶつけられたり、轢かれたりしないようにするため、両手を大きく上げて認知してもらうことしかできなかった。車が向かってくると目を開けていられなかった。すごいスピードで乗用車やトラックがあたしの真横を通り過ぎて行く。ライトが眩しいのもあるが、怖くてとても目を開けていられなかったな。ひやひやしながら息をひそめ、コンクリートのひんやりした壁に頬を寄せ、手の平をぴったりとつけ、身体を硬直させながら目をぎゅうっと閉じた。車が通り過ぎるあいだは怖くて怖くて、心臓が止まりそうに怖くて祈るような気持ちでただひたすら車が通り過ぎるのを待った。車に乗って通過した人たちは、人間が、しかも女の子が一人で高速道路をランニングで逆行しているのだから、振り返って怪訝そうに見る人もいたが、高速道路では急停止できないわけだし、よこしまな関心を持たれるよりは気が楽だった。何度も後ろを振り返り、追っ手が来ないか確認した。そうして車が向かってくると立ち止まり、車が行き過ぎると再び前に歩き進んだ。それを何度か繰り返し、ようやく命からがら徒歩で高速から降りることができた。危ない車から脱出し自分で命も操も守った。

ほっとしたのはいいが、次に襲って来たのは恐ろしいほどの空腹感だった。何10キロも歩いてきたせいだろう、お腹が空いて仕方がないのでとりあえずコンビニに入ってみた。お金がないので何か盗むしかないと考えたが泥棒は悪いことだ。そんなの誰だって知っている。しかし、ポケットには50円玉と10円玉が1枚ずつ。これで何が買えるだろう。ああ、ひとつだけその所持金でぎりぎり買えるものがあった。ガムだ。何万種類とある商品が用意されているコンビニの最低額の品物で、今のあたしの持ち金で唯ひとつだけ買えるもの。ガム一個。でも、ガムをひとつ買ってもこのひもじさが紛れるとは思えないし、ここで何か食べておかないともたない。迷う。空腹で気が遠くなった。よし、もうパンを盗むしかない。でも何も買わないで盗むのは良くないので、ガムを買う代わりにパンを盗もう。それで、パンを盗むにあたり、なけなしの全財産60円でガムを買うことをせめてもの罪滅ぼしとして、パンを盗むことへの言い訳にした。しかしこの時、あたしのなかで何も買わずに出ていくよりも、何か買ったほうが店員に怪しまれないのではないか、などという打算的な考えもあったように思う。心の中で亡くなった母に、

「ごめんなさい、言い訳です」と祈るように懺悔した。

行くところもなく、食べるものもなく、何もすることがない時は仕方がないので、一人、本町橋の欄干の上にいつまでも腰掛けていた。お金のないあたしには、行く所がないということは、即ち、食べものにありつけないということだったから、そんな時は日が暮れるのを待つしかなかった。夜になれば街に誰かいる。

このころ本当にお腹が空き過ぎて生命の危機を感じた時にひらめいたのが、オートロックのないハイツやらアパートやら団地やらに忍び込むことだった。行き当たりばったりで、ありとあらゆる場所を手当たり次第に探してまわり、獲物を探す獣のように歩きまわった。入れそうな建物が見つかったら、まず、一旦その建物の一番上までエレベーターで昇ってから、1階ずつ階段で降りて見て回る。というか探すのだ。食料を。
 
当時はまだオートロックの建物がそれほど普及してはおらず、日本人のマナーの意識や衛生観念も今ほどではなくて、出前の食べ残しをそのままの状態で玄関先に放置してあるものが多数あったのだ。あたしは、その、誰のものとも知らない残飯を食べて生き延びた。好物の中華丼とか、マーボー丼にあたると良い日だなと思い、鶏の唐揚げを発見したときは、神様や仏様に感謝したりした。この世に鶏の唐揚げを捨てる人がいるなんて!こんなおいしいものを!世の中ぜったい間違ってるわ。唐揚げ残すってどんな人間や。とまで思ったりも。反対に、立て続けに汁物ばかりにあたった日は、そこの住人を心から軽蔑した。あたしはお腹が空いているので、当然冷たいお汁の中に麺が残っていないか探す。丹念に探すが麺はなかなか残ってはいなかった。なんやねん、麺を残さず食べるなら汁くらい捨てろ、だらしないやつやな。汁だけ残してどうすんねんな。というような訳の分からない怒りを蓄えたりもした。

ストリート・チルドレンになって最初の頃は寝る場所がないのが本当に困った。女だし、公園で寝るのは怖いので、そんな時は工事中のビルを探して中に入り、足下の悪いところも月明かりを頼りに8階くらいまで頑張って上がった。それから真ん中のコンクリートと鉄骨で骨組みされたところに横たわり、体を丸め両膝を顎につけて眠った。
 
最初は怖かったが、何度かやっていたら慣れてきた。そのうち夜が明けても気づかず眠りこんでいたこともある。ある時は、工事現場のおじさんに起こされた。当然、ものすごく怒られたが、あの様子では見つけたおじさんも相当ビビっていたに違いない。今から思うと、あの驚きようは、殺人現場を発見したとでも思ったのと違うかな。
 
ともあれあたしは寝過ごしてしまっておじさんに見つかり、せっかく見つけた安住の寝床を去らねばならなくなった。おじさんに連れられて仕方なく、工事現場の8階の寝床から1階まで降りた。白いカバーをくぐり、昨夜も歩いた砂利道を昨日と同じく、不安定なハイヒールで現場のおじさんたちが朝礼している合間を、なるべく音をたてないよう爪先を使うようにして小さくなって歩いた。おじさんたちの視線をめいっぱい感じたが、恥ずかしくて下を向いていたから見られていたかどうか分からないが、たぶんあたしがおじさんだったら、これでもかというくらいじろじろ見て怒りを見せつけただろうな。
 
おじさんたちからあたしに向けられた怒り、その代償は、現場の夜間完全封鎖という手段でした。そうしておじさんたちは自分たちの仕事場からあたしというホームレス少女を追い出すのに成功した。当時はこの一件で、しばらく寝るところに本当に困った。オフィス街のビル工事現場を完全に定宿にしていたもんだから。
 
これは1984年くらいのこと。


■戦争が遺したもの
 
母はソウルに生まれたと戸籍上ではそう記されているのだが、実際は違ったかもしれない。というのも、母の口から出生に関することは誰も聞いたことがないということだったし、ちゃあちゃんによると、母は年齢すら本当のことを言っていなかったということだった。実際は父より年上だったとも。しかし、今となってはそんなことはどうだっていいことのような気もする。
 
いずれにせよ、あたしの両親は、いずれも母国から日本国に夢を見てやって来たもの同士が出会ったというわけだ。
 
父は来日して、まずは神戸の街に落ち着いたと言っていた。10代の頃に韓国でボクシングをやっていたという父は気性が荒くてケンカが強く、また、正義感も人一倍だったので、自然と任侠の世界に腰を据えた。当時、そんな男達の大多数は警察官か任侠道に分かれて己の食い扶持を見つけていたのかな、と時代背景から察している。
 
しかし、日本国籍を所得していない父が日本国の警察官になれる訳はなく、また、父のような性分の持ち主である在日同胞の多くが任侠道に籍を置いていたこともその世界に入りこんだ大きな理由になったのだろうか。
 
単身、日本国へと辿り着いた父は、神戸の港で朝から朝まで働いたと言っていた。父には、この神戸時代に多くの友人が出来たらしく、その仲間達には後に有名な親分さんになった人もいたようだ。
 
働いて、働いて、金を稼ぐのだ。
友人達と、合い言葉のように言いあっていたという。

あたしのうちが、よそのうちとは少し違うと感じ始めたのは小学校へ通う頃でした。

  
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