不死身の花 第二回  | 是日々神経衰弱なり
第一章 生まれたところ(続き)

第2回

■恥ずかしがりやで無口な子供

幼稚園は仏教系の私立の幼稚園に通った。朝、ちゃあちゃんがあたしを起こし、洗顔を済ませて用意されたミルクティーと、お砂糖をたくさんまぶしたトーストを1階のキッチンでいただく。3階のキッチンは、朝は使ってはいけない。

時差で苦しむ母を起こしてはいけないからだ。

朝食が済むと髪結いが始まる。これは、3階のピアノの前で椅子に座り、ちゃあちゃんが3つ編みで凝った髪型に作る。りぼんをかけられることもあった。

いつも痛いくらいにきちんとひっつめられて辛かったけれど、黙って座っていた。ちゃあちゃんが黙々とあたしの髪を梳く、という行為がなんだか神聖な儀式のように思えたし、夜になり、お風呂の前にきつく編んだ3つ編みをほどくと、一瞬ゆるいウェーヴになっていて、それを鏡で見ると気恥ずかしくも感じたが、大人っぽくて嬉しかったのだ。


■しんと静まった早朝のうちの中。

拭き掃除の行き届いた清潔な窓ガラスからキラキラした目映い朝陽が差し、ぴかぴかのピアノの前で行う毎朝の髪結いの儀式は瞑想のようなものだった。

たしなみとしての習い事はたくさん経験した。ピアノ、エレクトーン、毛筆、硬筆、そろばんにバレエ、あと英会話教室も行っていたし…だけどすぐに全部やめてしまった。

面倒をみるのは大変だったろう、とは察するが、しかし、今思うと、せっかくのチャンスを生かし、何か一つでもきちんと続けられていれば、達成感や自信につながり、精神的な余裕も生まれ、きっとよい慰めになっていただろうにと悔やまれる。

習い事には、あたしにはずっとお手伝いさんが付き添い、時にはお抱え運転手が送り迎えする。ベンツだし、下町だから目立つ目立つ。本当に恥ずかしくて、それが嫌で行くのが億劫になっていった。運転手付きの車が嫌で嫌で仕方がなかったし、そのうち、よそのお母さんとは様相も違うちゃあちゃんがバレエ教室の玄関にあたしを置き去りにするとすぐにどこかへ消えてしまい、あたしだけひとりぼっちで心細かったし。今のあたしからは信じられないことだけれど、嫌なことを嫌だとも言えない子だったのです。3歳児が付き添いもなくひとりバレエ教室の玄関に置いていかれてなんて、そんなのはあたしだけだったから、とりわけバレエ教室では浮いていたし、他の子と全く馴染めなかったのが続けられなかった大きな原因。決してバレエは嫌いではなかったのに。レッスン中もいつも鏡越しに他の子のお母さんのなかにちゃあちゃんの姿を探していた。

エレクトーンとピアノはなぜ辞めたのか記憶にない。ピアノは通いの先生が恐いとか何とか、辞めたいとあたしが言ったらしい。記憶にない。先生が2度ほど変わったのは憶えがあるのだが。

エレクトーン教室へも始めはちゃあちゃんと通っていたのは覚えている。エレクトーン教室は2駅ほど離れたところにあり3、4歳の頃のことなので当然ひとりでは通えない。「エレクトーンに行きたい」「バレエに連れていって」とちゃあちゃんに頼んでも、「今日は忙しい」「誰か他の人に頼んで」と言われる始末。それでもしつこく食い下がったあたしにイライラしたちゃあちゃんから、「一人で行きなさいよ」などと言われてしまい、あたしはその日から口をつぐんだ。
 
本当のところは、つまり、家人が誰もあたしの面倒を見たがらなかったのだ。邪魔くさくなったのだろう。バレエ教室やエレクトーン教室の日にはちゃあちゃんは姿を見せなくなり、ちゃあちゃんはどこに行ったのかと大人に訊いても、「知らない」とにべもない答えが返ってくるだけだった。

両親はほとんど留守で家にいなかった。親も使用人も、あたしの教育や教養を積むこと、情操を育てることについて誰もが関わることを放棄し、誰もが見て見ぬふりをした。3、4歳の女の子がひとりで隣の、そのまた隣の町のバレエ教室やエレクトーン教室に通うのは無理だったし、保護者同伴でないと通うことは許されなかった。

そうして諦めざるを得なかった。あたしをバレエ教室へ連れて行かなくても誰も困らないし、親は留守だし誰も咎めない。なかったことにしようって、そんなことだったんだと思う。

子供は、学習する時は身近な大人に見守っていてほしいもの。褒めてもらったり、関心をもってもらったり。でも、誰も親身に面倒をみてくれないし、何ら関心が寄せられないとあっては、やる気も失せる。どんなに好きで始めても、どれだけ先生に賞賛されても、親にも使用人にも励ましはおろか、評価もされなければ褒められもしない。そんな環境にあっては努力も虚しい。実も結ばなければ、花も咲かないのだ。今にして思えば、親がもう少しあたしのこと、将来や教育に関心をもってくれていたらなあって、悲しく思うこともあります。

はい、そろばん行って、はい、次、次!

みたいな。

多分、今考えたら、ちゃあちゃんはあたしの習い事に付き添ったり、送り迎えをしたりするのが面倒になって、両親に、「あたしが行きたくないというのを無理に通わすのは可哀想だ」とご注進に及んだのだと想像する。

だって、後になって父に「あのときなんで辞めさせたの?」って訊いたら、「あんたが辞めたいって(ちゃあちゃんに)言ったんじゃないの?」と、返されたので驚いた。ちゃあちゃんか誰かが、あたしの意向を無視して勝手に父にそう言ったとしか考えられなかった。

あたしは、両親と直接話す機会はなかったし、そんなことを言える間柄でも性格でもなかったのだから、誰かが両親の耳に「あの子は辞めたがっている」と入れたために習い事を辞めることになったのかなって思っている。

確かに、ちゃあちゃんに何度かグズったことはあるが、子供なら時折甘えて習い事に行きたくない、と言い出すことはよくあることだろう。続けさせるのが愛情だし、躾だし、教養だし、情操だ。泣いて嫌がって本当によく話し合って、それでも本人が行きたくないと言うなら、行かせることはないと思うが、始めたなら、ある程度身につくまでやらせるのが結局は子供のためなのだ。それが親や保護者の務めでもあるだろう。子供を持って、いまの私はそう思う。

しかしあたしの場合は、ちゃあちゃんの独断で、あたしが行きたくないと言っているのだから、無理強いしては可哀想ではないかなどと話を作り上げ、忙しくて育児を他人任せにしていることに罪悪感をもつ親心につけ込み、子供の戯言をそこだけ拾ってあたしも両親も、自分の意のままに操ったのだ、と思っている。狡猾で、罪深い行為だ。

あたしもようやく大人になり、息子を育ててきて分かること、なぜ暗い夜道で、または他人の家の軒先で何時間もあたしはちゃあちゃんに待たされたのか、子供の頃に好きで通っていた習い事に行けなくなったのはどうしてだったのか、今になりこうして合点のいくこともある。


■子供が己の無力を思い知るとき

あの頃、夜、どこか知らない所へ連れて行かれて、誰かの家の軒先で長時間待たされたりしたこともあった。深夜の住宅街、街灯の明かりだけが頼り、みたいな道端にずっと放置されていたことも時々あった。一度など、真冬に、ちゃあちゃんが「ここに居て」と言った場所に祠があり、なかなか戻ってこないし寒いし恐いしで、散々な目にあった。

トイレに行きたくて、「お漏らししたらきっと後で怒られる」と怯えたが、我慢ができなかったな。下着と靴下が生温かく濡れてとても気持ちが悪かった。冬だったので、濡れた下着はすぐに冷たくなり、余計に寒く感じた。あたしは真っ暗闇の中で、下半身を芯から冷たく濡らしたまま、どこへ行ったのか手がかりすらない、いつになったら戻ってくるやも知れぬちゃあちゃんをただひたすら待ち続けるしかありませんでした。遭難して、救助を待っている登山者のように。
 
でも、お漏らしは、誰からも咎められなかった。
 
ちゃあちゃんが用を終えて戻って来る頃には怒りを通り越し、涙を通り越し、恐怖を通り越して、感謝しかなかった。からだ半分から下、へその辺りから靴の中まで冷たい尿で冷え切ったあたしは、真夜中の薄暗い路地裏でちゃあちゃんの姿を認めると、号泣しながらすり寄ってゆき、ありがとう、ありがとうと感謝するのである。子供の無力とはこういうことだと思う。

■母のおもかげ

ちゃあちゃんは策士で、実は泥棒だった。

あたしの母はとても華やかな人で、背も高く、非常にお洒落な女性だった。頭も良く、お金儲けもうまい、母を知る人の評価はそんな印象が大半を占める。そして、とても気性の激しい人でした。彼女の生きた怒濤の人生に比べたら、あたしなんて生ぬるい甘ちゃんだ。

この人間を知り、この人間と関わり、この女性の娘に生まれたあたしは彼女を語る時は慎重になるし、いまだに少し緊張するのです。しかしながら、あたしのことを語るなら彼女の話は避けることができない、それもよく分かっているつもり。

母のことを書く以上、あくまでもあの当時の自分の感情に、今自分が抱いている記憶や感覚を不用意に重ね合わせないように用心しなくてはならない、と自分自身にいい聞かせながら、この機会に少し整理してみたいと思う。

あたしが知る母の生い立ち・生涯をまとめてみる。母方の祖母はロシア人と中国人の混血で北朝鮮生まれ。祖父の来歴は定かでないが、少なくとも半島人であったのではないかと推測する。

母は生後すぐに韓国はソウルで育ち、恐らく1940年頃に16歳で初めに長男を生み落とすと、その後はどのような順番かは知らないが、2男2女を生んだ。16歳とは少女である。当時の韓国では不倫の男女が姦通罪に問われると拘留され、審議もなしに投獄された時代であったと聞くし、ソウル市内で育つ16歳の少女の出産といえば、当時でも非常識であったに違いなく、周囲の好奇の眼差しを集めたとも推察できる。普通なら中学校を出て働いているか、高校生活を送っている頃だろう。未成年で子供を生んでいる女性はいたかも知れないが、母が正式な結婚をしていたかも不明だし、16歳で初めの子を生んでから続けて3人も生み続け、なおかつ学問もこなしつつ難関大学に入学して卒業する、というのは一般的ではなかったのではないかと思料する。

しかし、あたしの母は17歳ですでに現在の梨花女子大学に学び、飛び級をして19歳で卒業した才媛だと、父や、まわりの皆から聞いていた。母のことは大嫌いだったが、子供心に、何でもできる母のことを内心ではすごいなあと尊敬の気持ちを抱いていた。輝かしい学歴の持ち主である母を、他人が褒めたり感心したりする、それはやはり誇らしかった。

当時16歳の母の子育てはどうやって、誰の協力を得たのか、あたしの子供時分にそんなことを質問したこともないし、あたしと母の関係では聞くよしもない。疑問に思ったことすらない。あたしにとって母とはそういう存在だったのです。

母は、お酒は一切飲まなかったがタバコは吸っていた。ちゃあちゃんが、母の10代の頃の勉強法を聞いたところ、寝ないこと、と言ったらしい。寝そうになったらタバコの火を手の甲にあてて勉強したらしい。いわゆる根性焼き。というと、その頃からタバコを吸っていたことになるが、とにかくいろんな意味で規格外の人だった。

母は色が白く、背が高く、麺類が好きだった。血液型はO型で、英語はもちろん広東語と韓国語、日本語、ドイツ語など、実際に話しているのを見聞きしていたので、自在に操る姿がかっこいいと感じた。

母は自分の過去のことを父も含めてほとんど誰にも一切話さない人だったので、出身校と、子供を生んでいるということ以外に母の過去を知る手掛かりは少なかった。まったく酒を飲まない母だったが、たった一度だけ酒を飲み酔った時に、ちゃあちゃんを相手に自分のことを断片的に話したことがあったらしい。父ですら、母が10代の頃に韓国で子供を4人も産んでいたことは結婚してから知った、と言っていました。

あたしが子供の頃には、母が何故、自分自身の話をしたがらないか理解ができなかった。母が亡くなってから10年以上経ってから分かったことだが、母は普通の家の出ではありませんでした。先祖代々に遡るというのだが、母はしかるべき場所に必要とされる人材として生まれ、そこで役立つように、特殊な高等教育を授け養成する家柄に生まれていたようです。軍人の家系に生まれた男の子は軍人に、女の子は別の機関に身を捧げることが生まれつき決まっていたらしい。そしてその女の子(母)は10代の学生のうちに軍人の子を生み、大学を出てから夫と幼子4人を置いて単身香港へ逃亡。それから東京へ。そこで父と知り合ったのです。


■不気味な家と座敷牢

大阪の日本橋の家で、両親と過ごした家を思い出すと、まず地下室が頭に浮かぶ。

家は元々病院だったところを住宅に作り替えた建物で、そのためか、当時の住宅には珍しい地下室が備え付けられていた。1階の専用ドアを開いて入らないと地下室へはたどり着かない構造になっていて、1階から2階に行くには一度表に出てから2階に通ずる別のドアを開けて階段をのぼらないと上がれない仕組みになっていた。

1階にはキッッチンと、8人掛けの大きなカウンターテーブル、ベンチシートのソファーセットにトイレと洗面があり、次の間にはデスクとショーケースにキャビネット、更衣室、納戸のようなものが据え付けられていて、デスクを引っ付けた壁の後ろ側に、地下室に続くドアがあったのだが、このドアがまた、毎回人間を迎える度にキ…キィィーというなんとも不気味な音をたてるドアで、それを忌々しく思っていた。もし、今、このドアにこの気持ちを悟られ、嫌われてしまったら、いざというときお化けに味方されるかもしれない、そうなれば逃げ出すのに不利だなあ、とか、そうならないため一応は畏敬の念を抱き、お化けを敬まっとこうか…などと今思えば下らないことを、真剣に考えながら階段を降りた。

1段1段、いち、に、さん…と数えて降り、決して13にはならないように気を付けた。でも、この直線階段、ほんとうに13階段だったような気がする。直線の階段を降り切ったところにカーブのついた踊り場が2段ほど続き、14、15とあるからセーフや!とか毎回おなじことを自分に言い聞かせて降りていた。

その頃の地下室にはトイレットペーパーや、洗剤、なんだかんだと家の備品や消耗品などが大量にストックされていて、否が応でも月に何度かは誰かが地下室へ入らねばならなかった。

その不気味な地下室は、なぜか部屋の真ん中だけ1mほど底上げされていて、畳が敷いてありました。どうしてこの地下室の中央のそこだけ底上げしていて畳が敷いてあったのか分からないままだが、畳が古かったのがまた恐怖を煽り、座敷牢とか、地下牢などを連想した。

元は病院だったこともあり、ホラー漫画が大好きだったあたしは、「狂気の院長先生」といったフレーズを思い浮かべ、きっとその昔、病院だったというこの建物には変態院長が存在していて、地下室はまちがいなく地下牢になっていたはずで、畳は座敷牢の名残であり、かつては誰かがつながれていたに違いない、なんて思い込んで勝手に怖がっていたな。

妄想はさておき、そして、閉院した理由はともかく、この元病院は、なんらかの理由で寂れていき、物件としてどんな経緯を経たのか、うちの親が住宅にするために引き取ったのだった。

そんなこともあって、元は病院だった家の中でも地下室は特に気持ちが悪い場所だった。暗くて、カビ臭いし、奥があまり見えなくて、何か用があって言い付けられても絶対に行かなかった。10歳年上のすぐ上の異母姉が18歳の頃、大阪の学校に通うために神戸からやって来て、この家で1年間同居した時は、姉も、父や母に地下室への用を言い付けられたものですが、彼女も1人では行けず、たいていはあたしを強制的に連行した。

姉が先に、あたしが後に階段を降り、降りきった側の一番近い棚に銘々が手を伸ばしてトイレットペーパーをゲットするという作戦を立て、実際に試みた。目的のものを手にして無我夢中で階段を上る時はいつも「わわわわわ~」という声を出して恐怖を紛らわそうとしたのだが、姉はあたしが発する大声に驚き、結局2人で「ぎゃ~」「ぎゃあ~」と叫びあい、地下室から我先にと這うように飛び出したことを覚えている。ああいうのを「這々の体」というのだろうか。毎回毎回同じことをしていたような気がする。第三者が見れば滑稽に違いない。正気の沙汰とは思えないものだったかもしれない。けれども、本人らには必死の行動だった。

その後、あたしが「わわわわ~」を言うとかえって恐いわ、ということになり、姉に叱られて、「わわわ」を封印されました。


■涙の味とカビ

真っ暗で、カビの匂いが充満した不気味な地下室。そこにはもうひとつ嫌な思い出がある。幼い頃、時々やってくるおばさんだと思っていた母に、よくそこに閉じ込められた記憶があるからだ。

なぜ閉じ込められたかは不明だが、泣きながらもドアの隙間に耳を押しつけて外の様子をうかがうと、ちゃあちゃんが、「お姉さん(母のこと)、まだ(あたしは)小さいから(お仕置きは)もう充分でしょ」と赦しを請うている声が真っ暗な地下室のドアの向こうから漏れ聞こえてきた。母はちゃあちゃんに返事をしなかった。

じめっとしたカビの匂いが充満していて息苦しくなるほどの真暗闇の中で、恐怖のあまり半狂乱で泣き叫び、両手が腫れて握れなくなるほどドアを叩いた。

長時間泣き叫んだあたしは、いつしか気を失っていた。

後にちゃあちゃんから聞いた話によると、母はあたしを妊娠中に、逆子で危険だと忠告されたが聞く耳を持たず、逆子のあたしを身ごもったまま9ヶ月ぎりぎりまで世界中を飛び回り、働いた。

その報いか、お産は難産で、帝王切開のうえ自分まで生死の境目をさまよった末に、あたしをこの世へ送り出した。産み落とし、へその緒を切った瞬間から、母はまるで母子の縁を切るがごとく、まさしくあたしを捨て置いて、すぐにも働きだした。子供は欲しくなかったのに、あたしを生んだのは父の強い希望だったからと、後から母に教えてもらった。

そういう経緯で生まれたあたしは、母乳の香りに包まれて過ごす平和な時間、母子の絆と信頼関係をつむぐ日々を経験することなく、ハイハイをして、つたい歩きを始め、1人で歩き、話しだす頃には、すっかりお手伝いさんのちゃあちゃんが母親だと認識していた。たしか鳥だったか、生まれてすぐ目の前を動く物体を親と勘違いする動物がいた(刷り込みっていうんだね)。まさにそんな感じだったと思う。

何ひとつ自分で子供に手をかけず、入浴どころか、ものごころがついても、食事すら1度も一緒にしたことがないのだから仕方がないと普通は思うが、母は、彼女は違った。

母は、いつまでたっても自分に懐かないというか、むしろ年々懐かなくなっていくあたしを持て余し、憎み、怒り、不満を抱いていた。その怒りはいつも、ちゃあちゃんかあたしのどちらかに向けられることになった。

きっかけはいつも些細なことだが、ある日、母の怒りがちゃあちゃんに向けられたことがある。あたしがちゃあちゃんのことをうっかり「ママ」と呼んでしまったことが、母の逆鱗に触れたらしいのだ。ちゃあちゃんは母からご飯の入ったお茶碗を投げつけられた。後からそう聞いた。母は、「何故この子供はお前をママと呼ぶのか。この子供はお前を母親だと思っている。呼ばせたお前に責任がある。どんな教育をしているのだ。私への嫌がらせのつもりか、恥をかかせて!」と叫んだそうだ。なんとなく記憶の片隅に残っている。

多分あたしが地下室に閉じ込められるのは、母が決まってこういうタイプの癇癪を起こしたときだったのだろう。

いつだったか、珍しく母が家におり、3階のリビングにお客様もいらっしゃった。なにごとか、呼ばれて渋々3階へ上がり、お客様にご挨拶を済ませると、いきなり母が、座らせたことのない自分の膝に座れという。

「えええっ!(何で座らなあかんのん)」

躊躇していると、無理矢理に座らされ、突然母から頬にキスをされた。驚いてすぐに飛び退いた。キスをされた頬が不快で、袖口で拭ったのを覚えているが、お仕置きの理由とは万事そんなことだったと思う。

なにせ、聡明で美しく、いつも人の注目を集めていた母が、この時ばかりは、客人に可愛いと褒められた娘とのデモンストレーションを披露するのに失敗したのだから。

ある時は、「お前の足は、ヤエちゃんによく似てきた」と言ったことがある。ヤエちゃんとはちゃあちゃんのことだ。ええ?あたしはママから生まれたんじゃないの?いつもあたしのお産が大変で、死ぬところだったと、自分のお腹の傷跡をあたしに見せて、誇らしげに、あるいは恩着せがましく、いかに自分が大変な思いをしてあたしをこの世に生み出したかを繰り返し説いてきたのに。

訳が分からなかった。子供だって6、7歳にもなれば、子は親に似ることや、血が通えば何かしら共通するものを受け継ぐことは薄々知っているのだから。


■母の異常性
 
母は少々倒錯していたのだろうか。非現実的なことと知りながら、どうしてもこのような非科学的なことを言ってみたかったのだろうか。動機はどこにあったのか今では知る由もないが、才媛とうたわれ、最高学府の教育を受けた人間の吐く言葉ではなかった。

時折、3階から両親の言い争いが聞こえた。韓国語でやり合っているから全く意味が分からないのが余計に不安だった。そんな時は決まって、夜遅くなると、母の弾く激しい曲調のピアノがいつまでも家中を物悲しげに漂った。

ある日のこと、母が旅先から戻っていた。時差のために眠れなかったのか珍しく朝に起きていた。しかもなんと号泣していたのだ。

「ううう、ごらん。ハッチはどんな困難に襲われても挫けず戦っている。みなしごハッチは独りぼっちで。ううう」

日曜の朝のテレビアニメを見ながら、本当にいつまでも大粒の涙を流して泣きじゃくっていた。40代後半か、もしかしたら50歳を過ぎていたかも知れない母が、『みつばちハッチ』というテレビアニメを視て大粒の涙を流し、悲しみにうちひしがれていたのです。小学2年生になっていたあたしですら視なくなった幼児向けのアニメを視て。

あたしはますます母のことが分からなくなりました。

容姿端麗、高学歴で男勝り、日本語、韓国語、英語、広東語、ドイツ語も少し話せ、世界中を飛び回り、貿易業で成功をつかみ、知性的で、一見冷たい感じのする、お洒落で、プライドが高く、才媛とうたわれた母は、実は子供っぽくて、純粋で、傷つきやすく、感情的で、ストレートにしかものが言えなくて、乱暴で、だけど実は繊細で、不器用な人だったのだろうか。生前は大嫌いだった母のことが、いつからか、そんなふうに思えるようになった。

あたしは母が亡くなるまでは本当に子供だったから、よそのお母さんのように、ご飯を作ってくれたり、世話を焼いてくれたりするのが母親の、子を持つ大人の女のあるべき姿だと思っていた。それが不動の真実で、優しさだと思い込んでいた。ご飯を作ってくれないのは母が優しくないからで、家に居て、あたしの世話をしてくれないのはあたしなんかどうでもいいからだと思っていた。

優しくしてもらったこともないし、優しい言葉をかけてもらったこともない。だから、あたしという娘のことなど何ひとつ考えない母、と解釈していた。

しかし、母の死後、近所の方から母が死ぬ間際に訪ねてきて、もうすぐ自分は死ぬから、あたしのことをよろしく頼むと言いにきたことを告げられた。今になって考えてみると、母は施設にいる孤児の面倒をみたり、成長した後は引き取ってうちの近くに住まわせていたりしていたわけだし、大人になってから思い出すと、ぶっきらぼうで、うわべを取り繕う口の利き方もできず、きれいごとなど言える人ではなかったけれど、実際の母のひととなりは、本当は優しい人だったのかなって気がします。

優しさは愛情、優しさの不在は愛情の欠如、そんなふうに思い込んでいたので、お手伝いのちゃあちゃんが、あたしに対してやってくれることはすべて愛情に根ざしたものだと疑わなかった。ちゃあちゃんと母は違った。「自分が母親なのだと時には乱暴で身勝手な主張をするくせに、ママときたら……」みたいな気持ちは大きく、母にはプラスの感情を持つことができなかった。あたしの母親にはちゃあちゃんが相応しいと思っていた。今、久しぶりに昔の記憶を探っていたら、いつだったか、父に、何故ちゃあちゃんと結婚しないのかと問いただしたことがあったのを思い出した。

母が亡くなり面影を追うことになってから、優しくふるまうのと本当に優しいことは違うと知った。

「何故ちゃあちゃんと結婚しないのか」なんて、子供だったので、無邪気に他愛もなく、素直に望んだことを口に出しただけだと思うが、きっと夫婦間で問題になったことだろう。母には何度か死ぬほど殴られたが、そんなことに関係していたのだと今は分かる。なぜ子供が自分に懐かないのか。普通一般の家庭で育たなかった母には分からなかったことなのかもしれない。


■ちゃあちゃんのうそ
 
ちゃあちゃんは嫁いでからも娘の良子を出産するまで、ちょくちょくあたしの家に出入りしてはご飯を作りに来てくれていた。
 
くれていた……という表現は妙かもしれない。正確に言うと、学校から帰ると明らかにちゃあちゃんが作ってくれた食事が用意されていた。
 
あたしは、それを見ると、大好きな、懐かしいちゃあちゃんのおいしいご飯が食べられる、と狂喜乱舞した。でも、ちゃあちゃんは、ご飯は作ってくれたが、あたしが学校から帰るまで待っていてくれたことは一度もない。いつも、誰にも、何の知らせもなく、突然にやって来た。心配でならない幼い養い子のあたしのために、身重の体でうちに来てご飯を作って帰る。とても優しくて、美しい話だ。父は彼女の気遣いに感謝して、何度も小遣いをあげていた。
 
まさか、この育ての母とも思っていた女が実は泥棒だったとは想像だにしなかった。
 
彼女の最後の戦利品となったミンクの毛皮のコートは15歳の時にあたしが初めて親から認められて買ってもらったコート。親の都合で借りた独り暮らしの部屋に置いてあったものです。

ある日、ちゃあちゃんは電話をかけてきて金を無心してきた。15歳のあたしに。それまでも度々あったが、1万円とか、2万円という金額でした。だけどそのときは確か10万円とか結構な額だった。一度貸してあげたら何度も無心にくるちゃあちゃんに嫌気がさしていたこともあり、親に捨てられたあたしに、人に貸せるような余分なお金はないと断ると、じゃあとんちゃんのミンクの毛皮のコートを貸してくれという。あたしはちゃあちゃんからとんちゃんと呼ばれていた。
 
なんのためか聞くと、質屋にもって行ってお金をつくるから少しの間だけでいいから貸してくれという。どうしてお金が要るのか聞いたら競馬で借金をつくったと言っていた。あたしは北村のおじちゃん(ちゃあちゃんの夫)に話すべきことで、ミンクのコートは貸せないと断った。ちゃあちゃんはなかなか電話を切ってくれなかったが、しばらく問答してやっと諦めたようだった。
 
それから少し経ったある日のこと、クローゼットを開けるとミンクのコートが無くなっていたのだ! 
いくら探しても見つからなかった。すぐにちゃあちゃんに電話をして心当りはないかと聞いてみたが、「あたしゃ知らない。あたしじゃないわよ」という。あたしの部屋の鍵を持っていたのはあたしとちゃあちゃんだけだった。
 
そのうちちゃあちゃんは電話に出なくなり、たまに出ても生返事しかしなくなっていった。最後にあたしが「やっぱり北村のおじちゃん(ちゃあちゃんの夫)に聞いてもらうことにするわ」と伝えると、「お願いだから、それだけは止めて。離婚されちゃう。いつか返すから」と涙声で必死に頼んできた。やっぱりちゃあちゃんが合鍵を使ってあたしから盗んでいったんだなってわかって、しばらくはなんともいえない悲しみに包まれた。それ以来、付き合いは一切ありません。父のお通夜に姿を現したが、
 
「可哀想に。これでこの子は本当に天涯孤独になってしまった。もっともこの子には最初から父も母もいなかったようなものだからねえ」
 
などと目に涙を浮かべ声を震わせながら訪れた弔問客の前で殊勝なことを口にしたが、全く鼻白む思いで聞いていた。
 
彼女の仕事は子守りであり、お手伝いさんでした。子供好きを装い、あたしに優しい態度で接し、面倒を見ていたのはあたしを利用していただけなのだ。そうしていれば疑われなかった。
 
食事の世話も、送り迎えもあくまで彼女の仕事だった。優しいからではなかった。あたしに多少の情は芽生えていたとしても、愛していたからではない。優しくされたあたしが懐くのをみて親は安心しただろうし、そうしていれば、ちゃあちゃんは家の中でも色々とやりやすかったのだ。この時から、あたしにとって家事というものは、お金を出せば他人が仕事としていくらでもこなしてくれるものであり、世の中には家事仕事が好きな人もいる、という程度のものに格下げされた。
 
食事の世話や家事を万全にこなしているからといって、それが愛情ゆえになされている、という幻想があたしから消え失せた。父と後妻との関係を見ていても強く嫌悪したことだが、追ってお話しする機会があるかも知れない。
 
男の人のことは分からないが、女の人にはいろいろな人がいる。愛している人のために家事をすべて引き受ける人、夫や子供を愛している間はご飯も家事もこなしているが、愛がなくなれば止めてしまう人、夫のことは全く愛していないが、炊事洗濯掃除が得意で家事を愛する人、単にだらしがないのが嫌いな人、お金や生活のために家事を請け負う人……ほんとうに様々です。
 
あたし自身は家事がそれほど得意ではなく、きれいに掃除され、片付いた部屋は好きだけれど、食事はたまに作るという程度。不味くもないが料理上手ということもない。稀に上手くいくと、息子や、時々の男友達や時々の旦那が美味しいと言ってくれるのですが、褒めてもらえるともちろん悪い気はしません。
 
だけどまあ、あたしのことは横に置いておいて、愛情があるから家事や食事の世話をする、という幻想は、この時から持たない。もう騙されない。もし恋人や夫がそんな幻想を持っていて、あたしに、俺のことを愛しているのなら家事をしてくれよ、などと要求してきたら、そんな、お金を払ったら誰でもしてくれるようなことにしか愛情を感じられないなら無理だ、と突っぱねると思う。愛する家族のために立派に家事をこなして…なんて幻想はもう持てないのです。
 
献身的に家事をすることだけが家族や身近な人に対する愛情だなんて疑わしい……育ての母が残した苦い教訓が、今そんな風に思ってしまう元凶。
 
もちろんそうとばかりは言い切れないのも分かっている。料理や掃除洗濯で家族や恋人への愛情を表現したい人だっているだろうし。存在は認めます。でもあたしは、家事をそつなくこなして愛を証明する、ということにはどうしても疑念を持ってしまう。不幸だ。
 
母の和簞笥から着物が1枚ずつ消えた。故美空ひばりさんと同じ着物を同じ作家に頼んで、極秘で作ってもらったという着物もある。値段を言うのも憚られるような着物の数々、10カラットのダイヤモンドの指輪、毛皮、宝飾時計、美術品、数えたらきりがないが、なくなった最後があたしのブラックグラマー。黒いミンクの毛皮のコート。
 
後になって、ちゃあちゃんが父の友人らにお金を借りにいっていた話は、父がぼやいていたので知っていた。でも、家からなくなってしまったあれもこれもが、母の死後になって、なんとちゃあちゃんが父の友人らに売りにいっていたことが分かった。「これはどうしたものなの?」と父の友人に聞かれて、「昔、おねえさん(あたしの母)にもらった」と話していたらしい。もちろん父の友人はそれらを持ち込んで買ってくれと乞うちゃあちゃんにその場で突っ返し、父にちゃあちゃんが売りにきた品物について、ことのあらましを報告してくれたのでした。それを聞いた父は愕然としていた。ほんとうにショックを受けていた。
 
着物の一部についてはこんなこともあった。いつだったか、ちゃあちゃんが結婚した直後だから、あたしが小学校2、3年生の折、誰もいないうちを訪ねて食事を作りに来てくれていた時期がしばらくあった。あたしは、短縮授業かなにかでたまたま早く帰宅したとき、1度だけちゃあちゃんと鉢合わせしたことがあった。ちゃあちゃんは何故かあたしの部屋の隣の母の衣装部屋にいた。母の和簞笥を開けたり閉めたりして、なにか探しているようだった。
 
「なにしてるん?」と声をかけると、「いや、ちょっとおねえさん(あたしの母)の着物。おにいさん(あたしの父)がいいっていうから、形見にもらおうと思って」と答えた。あたしはその言葉をしばらく少しも疑わずにいた。しかし、母の生前に消えた腕時計や指輪が、母の死後、「母からもらったもの」「父からもらったもの」として、ちゃあちゃんが父の友人に売りにいっていたことが発覚したとき、父の様子から、そんな事実はなかったのだと分かった。
 
父が調べたところ、ちゃあちゃんは結婚当初から夫に内緒でギャンブルをやっていたようで、特に競馬にはまっていたようだ。それも公営ギャンブルではなく、いかがわしいノミ屋を通してやっていたらしく、あたしがミンクの毛皮の件で叱責した際にも、切羽詰まってくすねてしまったのはギャンブルで借金がふくれあがっているためだ、と白状した。うちから持ち去った品物は、ちゃあちゃんがハズレ馬券にかえていたのだった。
 
何年も給料を渡し、嫁に出して小遣いまであげて、まったく盗人に追い銭だ。おまけに、父や母と付き合いのある方々に泣きついてお金を借りまくっていた。長年うちで奉公していた、という縁で先方は断りきれなかったらしい。事実を知って本当にショックだったし、吃驚した。そういえば、あたしにもお金を借りにきたことがあったな。人間には裏の顔をもつ者がいるんだなって。どんなに優しい言葉で装っていても、それが本性だったのかなって寂しく思う。
 
競馬でつくった借金は帳消しになったかな?足を洗えていればいいけど。
 
長年にわたって住み込みで働いたうちを辞めた後に、ちゃあちゃんの性癖が次々と発覚し、ちゃあちゃんの本性が暴かれた。
 
こんなことが発覚するまで、ちゃあちゃんは、裕福ではないが、真面目で優しい男性と一緒になって一女にも恵まれ、平凡だけど、幸福な結婚生活を送っているものだとてっきり誰もが思っていたのだから。
 
でも、結婚生活のなかで、一体誰が、何をちゃあちゃんにもたらしたのか、それともちゃあちゃんは根っから悪い人間だったのか、今になっては誰にも分からないことだけれど、この件で、あたしの子供時代の唯一キラキラした思い出にも薄黒いもやがかかってしまったのだ。
 
そんな経験があるからだろうか、世話好きな友人達がこぞって、「愛しているからこそ世話ができるというものよ」と断言し、胸を張り頬を染めるが、あたしには甚だ疑問だ。そもそも家事などは愛情の証しでも対価でも代償でもないではないか。逆にそういう人は、自分に愛情がなくなったら家事も世話もしないということになる。これはよく考えたら怖いことだよ。
 
愛していても家事が苦手な人もいるし、愛していなくとも家事をする人もいる。愛していると思っている間はやるが途中でやめてしまう人もいるし、単に家事が好きな人、お金のためにする人もいる、という事実があるだけ。別に家事が苦手なあたし自身と母の言い訳などではない。


■在日二世。異母兄姉弟、異父兄姉

あたしが幼稚園に通う頃にはすっかり覚えていたフレーズのひとつに、「いぼきょうだい」がある。うちの両親は互いに再婚同士で、母は前夫との間に2男2女、父は前妻との間に1男2女の子供があった。父はあたしの母の死後、後妻との間にも1人男の子をつくったので、あたしにとっては世界のどこかにいるこの8人が、異母、異父兄弟として血を分けた人たちである。だが、父と母との間に子供はあたしだけで、あたしは1人っ子として育った。
 
父が母と一緒になる以前に別の女性との間に生まれたのが父の長男で、続いて長女、次女の3人がいる。あたしの異母兄姉だ。そして、あたしの母の亡き後に後妻に入った女性との間にも1男もうけたので、それは父の次男であたしの異母弟になる。母は日本に来て父と知り合うずっと前に、韓国で長男をはじめとして、全部で2男2女をもうけており、彼らは母の最初の夫との子供で、あたしにとっては異父兄姉にあたる。よって、父方に4人、母方に4人と、全部で8人も半分ずつ血を分けた者がいるので、会ったこともない人を「きょうだい」と呼んでいいなら、他の異母異父兄弟と比べると、あたしが1番「きょうだい」が多いことになるのだろうか。自分も入れて合算すれば9人兄弟ということになる。その韓国の兄姉達には、1人を除いて全員と1度は会ったことがあるらしい。あるらしい、というのは、記憶にほとんどないからだ。
 
小学校の2年生の頃だろうか、肝臓を悪くしたために入院、自宅療養を余儀なくされた父の代わりに、事実上、うちの家計とビジネスを1人で支えたのは母でした。
 
ダイアモンドビジネスをはじめとした貿易業を取り仕切る母は、1年のほとんどを洋行のため留守にしていた。ちゃあちゃんの結婚により、いよいよ実生活では父と2人の生活が始まるという頃に、あたしは父に初めてのお願いをした。

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