不死身の花 第四回 | 是日々神経衰弱なり
第一章 生まれたところ(続き)

第四回

■異様な家庭環境

家に出入りする人の多さ、毛皮や宝石の数々、使用人、ルイ・ヴィトンのトランク、下町の個人宅にははなはだ相応しくない大きさの金庫、海外旅行、誂えの見事な螺鈿家具の一式。その中に納まっている調度品や、食器、陶器類、ピカピカに光るワニ皮のバッグの数々、金箔のルイ14世朝の家具がおさまった寝室に、臙脂色のカーテンと絨毯。当時まだ珍しかったキングサイズのベッド。そしてモスグリーンのベンツ。

物心ついた時にはすでに、あたしの身の回りにあったものはすべて両親が裸一貫で働いて得たものだ。特に、1980年代の大阪の下町にはベンツは珍しかったと思う。色のチョイスが一般的ではないが、それはたぶん母がモスグリーンが大好きだったためだろう。
その頃のうちを訪ねてくる人といえば真っ白のボルサリーノ帽を被った映画に出てきそうなおじさん。何者だったのかな。それから金髪の妖艶な、今でいう性転換美女の方々。お上品な身なりと物腰で、幼稚園児に毎回5万円のお小遣いをくれる全身総和彫りの刺青をした和服姿の綺麗なおばさんに、キリスト教の牧師夫婦と、来客のバリエーションは豊かでした。後に振り返って考えてみても、やはり普通の家ではなかったんだなって思う。
 
家の中では韓国語、英語、中国語、日本語と飛び交う。友達が来ると、その状況に驚いているのか、違和感を堪えきれないのか、いつも変な顔をされたし、恥ずかしかった。おまけに母は、自宅前のアパートに、どういう経緯か「ピ」さんという中国人孤児の男性を引き取り、しばらくそこに住まわせ面倒をみていた。
 
ピさんは日本語をほとんど話せず、母とだけ中国語だったか広東語だかで話した。ピさんは真っ黒な艶々の髪の毛に、光沢のあるシルクの黒いシャツを着て、いつも全体的に黒っぽい服装だった。首には常にゴールドのネックレスをつけていた。ベルトもおおむね金色の金具をあしらったワニ皮といったようなものが多かったが、安っぽい下品な印象がないのは、母の意向と選択により悪趣味が最大限に食い止められていたからだと考えられる。
 
ピさんは強面だし、お金のかかった格好はしていたが、髪型はマヨネーズでお馴染みのキューピーちゃんにそっくりだったし、ヒトラー髭で、ピさんという名前だったので、「髭をたくわえた小太りのキュー(ピー)だな」などと心の中でクスクスと一人笑いをしていた。
 
父は中国語も広東語もまったく分からなかったし、ピさんのことをあまり良く思っていなかった。
 
あたしは母と同じくピさんのことを「ピ」と呼び捨てにしていたが、誰も咎めなかった。
 
ピさんは、アメリカや香港、母がよく出かけた場所には必ず同行していた。達者とはいえ母は女性……。ピさんを用心棒のつもりで連れて行っていたと思う。本当かどうか分からないが、香港に育ったピさんは拳法の達人で、あのジャッキー・チェンの兄弟子だということだった。

両親から受けた教え、などという大層なものは何もないが、ときおり印象的な言動をして、あたしの人間形成の礎になった出来事はいくつかある。
 
父も母も、普通の親なら教えないことを教え、認めないことを認め、子供を早くから一個人として扱い、世間体や建前も取っ払ってあたしに本音を晒した。良くも、悪くも。
 
そんな彼らに偽善などはない。あたしは両親から世の中の裏と表、本音と建前は教わっていない。だからあたしは常に本音しか持っていない。誰でも子供の頃、正直でいることが正しい、そう教わる。しかし、だいたいの大人は矛盾したことをいうから、子供はその矛盾に疑問を抱えつつも、世の中には本音と建前があることを親の様子から徐々に知る。矛盾を曖昧にしながら生き、そして大人になる。
 
だけど、うちの親のように、世の中には本音と建前があるということをまったく子供に教えないでいると、子供が世間に出て苦労する場合もある。
 
あたしはおおいに苦労した。そのせいで、早い時分から世間に出されて本当に不本意な目にあったことも数知れない。この世の中では正直者が馬鹿を見るような場面も時々はあるからね。早々と、不条理は世の常だと身をもって知ったのよ。常に本音でいるということは、大きく傷つくこともあるということを知らないで、魑魅魍魎が犇めく街に独り暮らさねばならなくなった13歳のあたしにとって、本音も建前も身に付けないままに生きることは、実に厳しい経験となった。自分の身を守る術を知らないで、13歳から直接に大人と関わらねばならなくなったあたしは無防備過ぎたのだ。


■お金についての概念

「おんなは金カネ言うな」
 
幼い頃から父にそう強く諭されてきたあたしは、3度の結婚と離婚を繰り返し、息子が中学へ入学する頃までは女性がお金のことを話したり、考えたりするのは卑しくて、下品なことだと本気で考えていたので、貯金の概念がまったくありませんでした。多分、13歳で家を出されてから今まで、何億というお金があたしの体を通り過ぎたと思うが、お金の本当の価値と使い方、経済観念を両親から少しも教わる機会がなかったあたしには、お金とは何か?ということを自分なりに悟るまで長い時間を要しました。
 
世間から身を守る方法や、学校や友人を通じての人との関わり方、お金の本当の価値などを学ぶ前に家を出されたため仕方がない……という側面もあるが、誰も世間の常識を教えてくれなかったし、第一、生来あまりお金に執着する質ではなかったように自己分析する。
 
お金は遊ぶためのツールだった。お酒や、タバコや、それらと同じ要領で扱うものだった。生活のためのものとか、いざという時の備え、という価値観はなく、あたしにとってお金は楽しいことの代名詞であり、それを使って遊ぶ……という感覚だった。
 
お金はあたしにしばしの幸福感を与えてくれるものでした。あればあったで楽しく使って遊び、無かったら無かったで、別に慌てたり、塞いだりはしなかった。無いものは仕様がない、という性分だったのもあるし、子供過ぎて、あたしにはお金が無くなる恐怖が欠如していたようにも思う。生活水準が下がることに対する恐れとかそういうのも念頭に浮かばず、とにかくお金に執着しなかった。それよりも、楽しいものを目の前にして、それを我慢して使わず置いておくとか、お金を貯めていく理屈も理由も理解できないでいた。
 
お金が入ってきたら仲間のみんなと喜んで使い、無くなれば無くなったで、別に平気だった。
 
今もその気質はあまり変わっていないように思うが、あの当時とは少し違う。お金というのは、自分や、家族が安心して暮らせるためにあるもので、娯楽に使うのはその後のこと。自分や家族が、本当にやりたいことや欲しいものが見つかった時のために大切にするもの。これが、ほとんどの人が知っているお金についての常識だと思う。でも、あたしにその常識はなかった。あたしは、親になってからもしばらくはこの狂った金銭感覚のままでやってきていた。そして、いざというときに、本当に息子のためになることを、必要なものを与えてあげられなかったことがあった。高級な子供服とか、毛皮とか、車とか、宝石とか、旅行とか、そんなもんよりずっと大事なもののはずだった。本当に悔やまれた。お金だけじゃなく、時間も。時間は戻ってこない。あれからいろんな思いをして、ようやくお金とは何のためにあるかということを多少は学んだつもりだから。小学校3年生の頃までほとんど現金に触ったり、管理したことがなかったあたしは、両親のもとでは経済観念は学ばなかったが、その代わりに彼らのもとに生まれ、人間を学んだ。


■いじめの洗礼
 
小学3年生までのあたしを振り返ると、大人しくて、本を読み、絵を描いては空想ばかりしていた子供だったと思う。
 
そんな内気で、人見知りの激しい恥ずかしがりやのあたしが次第に変わっていくきっかけはいくつかあって、最初の洗礼は小学1、2年生の頃にやってきた。ある日、家に遊びに来た友人が、

「いえのひと、なんて喋ってるの」と聞いてきた。

「あのな、絶対にゆうたらアカンで。あたしの家な、韓国人やねん。純ちゃんは親友やから言うわな」
 
あたしは親友に秘密を打ち明け、親友は秘密を守らなかった。
 
あたしの不用意な発言はあっという間に小学校中に広がり、皆が知る事実となってしまった。そして、そのために違いない友達や先生、近所の人といったあたしを取り巻く周囲の人たちの態度の変化をとても悲しく思った。あたしは、こんなことから苛めが始まった時に、自分は、他の子たちとは決して交われないのだと悲観的になった。昨日まで一緒に楽しく遊んでくれていた友だちが、一転して苛めっ子に豹変する違和感をなんと表現して良いのか分からない。同じ保育園に通い、同じ幼稚園にも通い、同じ小学校に通っていて、同じ市場のほぼ同じものを食べて育ち、真隣に住んでいても、でも、ここでは外国人だという事実が、これほどまでに特別な扱いを受ける要因になるんだなと深く実感しました。あたしはみんなと違い、他の人の眼に異様に映る存在だったのだ。

「とんちゃん(あたしの幼少時の渾名)とこ、韓国らしいで」

「あそこ韓国人やったんやて」

「なんや、韓国人のくせに革靴を履いて頭にリボンなんかつけて。生意気な」
 
それ以後、学校でもしばらくは自分の言いたいことも言えず、思ったことも口にできなくなった。さっきまで生きていた蟹を食べた自分を責めて激しく泣く、という感情的に不器用な子供となりました。
 
放課後になると一目散に家に帰り、2階にある自室に閉じこもる。ベッドの上に三角座りをして、今日もやって来る奴らを思い身を縮めていた。

あっ、やっぱり今日も来たな。

「かーんこーくじん、かーんこーくじん」
 
手を叩いて囃【ルビ=はや】し立てる声がだんだんと近づき、そして、あたしの部屋の真下にくると大合唱が始まるのである。女の子の笑い声も聞こえる。誰か止めて。お願い、誰か来て。と心の中で唱え、祈る。すると、ガッという鈍い音がした。あたしは布団を被って目をつむり、いっそう身をすくめる。
それは、あたしの部屋の窓めがけて石が投げつけられた音だった。うちの窓ガラスに針金が入っていなければ、きっと何度も割られていたと思う。何も悪いことをしていないのに、保育園からずっと仲良くしてくれていた友達からの、突然の理不尽な仕打ちにひとひとり泣きじゃくるしかなかった。本当に納得できなかった。しかし、この苛めが始まったことによって内気なあたしは次第にたくましくなる。いや、たくましくならざるを得なかったのだ。
 
ある日、こんなことはもうゴメンだと決心したあたしは立ち上がることにした。苛めに怯【ルビ=おび】える日々に別れをつげようと、遊んでくれる友人を求め、大合唱に加わらなかった友達の家を訪ね歩いた。しかし、その友人らの家に行ってみても、やはり居留守を使われるようになっていた。昨日まで話しかけてくれた優しい大人に今日はよそよそしくされたり、無視されたり、冷たくあしらわれ、大人もそんなことをするんだとこのとき知った。
 
大人ってみすぼらしい、猾いな、と感じたのが、あたしがひとりだと挨拶しても冷たい態度で無視するくせに、うちの親が一緒だと笑顔で話しかけてくることだった。親と近所を歩いていると、その人達がへこへこと媚びへつらって挨拶をしてくるのを見た時は、心に分厚い氷が張ったような、そんな気持ちになりました。自分達は、ここでは忌み嫌われる存在であることを理解していたのだろうか、帰国する度に近所の方々に大判振る舞いをする母。近所の大人たちは、なぜか母には評価されたがっていたように見えた。
 
母は誰に対しても、えええっと思うようなことを率直に言うし、一緒に居るとはらはらするような言いたい放題の人だったが、とことん嫌われているという感じはなくて、近所の大人たちは母のことを、あたしと同じように「ママ」と呼んでいた。放課後に行われたあたしの家の下での投石をともなった大合唱は、2ヶ月もすれば飽きたのか、誰かから注意を受けたのか、いつの間にか1人減り、2人減りしてそのうち誰も放課後にあたしの家まで大合唱をしには来なくなったのだが、そのかわり学校での地獄の苛めが始まった。
 
学校では、苛めも怖かったが社会の授業も怖かった。社会の授業中に朝鮮半島の話になると、教室にいるみんなが一斉にあたしのことを見ている、考えている、笑っているといった妄想がやまなかった。そう考えると途端に首から上がカーッとのぼせたように熱くなり、頭部のこめかみのあたりがどくんどくんと脈を打ち、心臓もばくばくした。
 
いまにも泣き出しそうな気持ちだった。地理であれ歴史であれ、朝鮮半島の話になると、時間が長く感じて辛かった。先生が「朝鮮半島が……百済が……」と言うたび机に顔を伏せた。「早く終って、早く」と祈った。教室中のみんなに責められているような気がして、死にたくなるほど苦しかった。
 
社会の時間が何より嫌いで、時間割に社会科があると、今日も朝鮮半島の話をされるのではないだろうかといつも怯【ルビ=おび】えていた。本当に嫌で嫌で仕様がなかった。社会の授業が怖くてたまらず、仮病で早退したり、休んだこともあった。授業が終わり、休み時間になると誰にも話してもらえず、遊んでもらえず、混ぜてもらえない。誰かと視線を合わすこともかなわないその10分間は、できるだけ自分の存在を消すことに集中した。両手を机に置き、顔を伏せる。すると、
 
ゴツンッ

「こら、韓国人!」
 
声がすると同時に頭に何か当たった。当たった衝撃で、中身がバラバラバラッと散らばり落ちた音がする。これはたぶん筆箱だな。大丈夫。まだ頭を上げないでいる。

「韓国人、返事しろ」
 
ピシッ
 
今度は何やろ。あぁ、定規か。痛くないわ。
 
グサッ
 
痛い!これはなんやろ。あっ、コンパスやわ!ヤバい。
身の危険を感じ、顔を上げると一目散に逃げ出した。

「韓国人が逃げたぞ」

「捕まえろ」

待ってましたとばかり、何人かに追いかけられて、仕方なくトイレの個室へと逃げ込んだ。あわてて鍵をかけようとするが、「どーん、どーん」と扉に体当たりをしてこられて、なかなか鍵をかけられない。閉まれ、閉まれ、念じながら左足に重心を置き、渾身の力で扉に寄りかかり、右足を後ろに突っ張って、開こうとする扉に全身で抵抗してやっとの思いで鍵をかけた。

ドンドン、ドン

バンバン

ゴンゴンゴンゴン

「ドアを開けろ!」
 
数人が扉を拳で叩いたり、平手で打ちつけたり、足で蹴ったりする音だ。いくら威嚇されようと、絶対にこの扉は開けない。しばらくして、「きゃー、あはははは」という笑い声が聞こえる。嫌な予感。

ビッシャー
 
誰かがホースを蛇口につなげて勢い良く水を出し、あたしが籠城するトイレの個室をめがけて水を放った。逃げ場はなかった。彼らの容赦ない放水により髪の毛は頭の先からすっかり濡れて、毛先から水が滴り落ちてくるほどだった。ブラウスもずぶ濡れで、下着が透けてしまっていた。穴から出てこない濡れねずみを相手に水遊びにも飽きたのか、そのうち誰の声も聞こえなくなり、気配がなくなってもまだ誰かいるような気がして、全身びしょ濡れのまま、いつまでも扉を開けられずにそこに佇んでいた。
それが1時間か2時間か、30分だったのか、しばらく迷ったが、和式トイレの高く盛り上がる部分に足をかけて扉の上部からそっと顔を出して覗く。誰かが待ち構えていないだろうか。辺りを見回すが誰もいないようだ。確かか。誰か隠れていないか。いないようだ。そんな風に自問自答しながら、細心の注意を払い鍵を開けた。
 
カチッ
 
ヤバい。音がしてもうた。でも外に変化はない。下校時間はとうに過ぎている。暗くなってきたし、いつまでもここにいるわけにもいかない。どうしよう。泣きそうになるのをぐっとこらえた。決意しなければ。息を殺しながら1ミリずつドアを開けた。顔を半分だけ出して辺りを見渡す。誰もいないと確認しても、まだ誰かいそうな気がするのだ。もう一度扉を閉め鍵をかけた。そして、2度ほど大きく深呼吸してからえいっと大胆に飛び出した。

心臓が高鳴る。どくんどくんと。もうびくびくしないぞ、と自分を励ましながら、でも、静まり返った校内を一心不乱で駆け抜け、ジャンプで階段を飛び降り、ついに校門を出た! だがまだ安心はできない。薄暗くなっていたので迷ったが、いつもの下校順路を避け、自宅まで遠回りだがホームレスのおっちゃんしかいない高速道路の下の暗い道を、隠れるように、腰を屈めひたひたと忍び足を使って帰った。そして、ようやく無事に家に到着して自分の部屋に入り、一人になると、安心したのか、ホッとして涙がこぼれた。その日やられたことが思い出されると、あたしはあの子らに何にもしていないのに、なんで毎日こんなことをされんとアカンのやろう、いつまでやられるんやろう、と悔しくて悲しくて気持ちが昂っていった。落涙が嗚咽に変わる。低く、大きく。最後はそれこそ地鳴りのような呻き声で泣き叫んだ。

今もそうだが、大阪市内には在日韓国、朝鮮人などの外国人が特に多く住む地域があって、そこに住む外国人の子供らも日本の公立校へ通うケースは多かった。そこでは在日に対しての苛めなどほとんどないと、子供時分に親や、その地域に住む親の友達とその子供らから聞いていた。もし、日本人が在日韓国、朝鮮人の子を苛めたら、逆にやり返されるくらい在日韓国、朝鮮人がたくさん住んでいたからだと思う。

でも、あたしが子供の頃に住んでいた地域には当時まったく外国人などいなかった。毎週のように母に連れられて行った生野区のカトリック教会では、このあたりは自分と同じような在日韓国人や、朝鮮人、アメリカ人、ハーフの子など日本人以外の子供も大勢いて、人種や国籍を理由にした苛めなどほとんどないということも聞き、すごく羨ましかった。

あるとき、すぐ上の異母姉が神戸からあたしの暮らす大阪の家に遊びにやって来ていた。
いつものように学校で苛めをうけて自室で泣いていたら、異母姉が入って来てどうしたのと尋ねてくれた。泣いていても、どうして泣いているのかなど誰かに声をかけてもらったことなんて今までいっぺんもなかったから、悲しいが、一瞬少しだけ嬉しさが加わったのを確かに感じた。

「韓国人だと分かってから学校で苛められている。友達だと思っていたのに」

「……そうなんや」

「もういやや。あたし死にたいわ」

「あのな、ちょうどええやんか」

「なにが」

「そんな友達いらんやん」

「……」

「お姉ちゃんだったらな、そう思うで。ちょうどええわって」

「……お姉ちゃんはそんなこと言うけど、学校であたしだけ友達が誰もおらんねんで。なんにもしてないのに、毎日苛められて。お姉ちゃんには絶対に分からへんわ」

「お姉ちゃんにだって神戸で同じようなことがあった。だけどな、そのなかで遊んでくれるようになる子もおるし、そうじゃない子もおる。これから友達とは仲良くなる前に最初に打ち明けたらええ。それでも遊んでくれるんならその子が友達やんか、な」

「お姉ちゃんはええやんか。学校で苛められても家に帰ったらお母さんがいて、泣いてたら話を聞いてくれるやろ? 何があってもほんまの兄姉がいつも一緒にいてくれる。学校で苛めにあっても味方になってくれるし、助けてもくれるやろ。あたしみたいに独りぼっちと違うもん!」

叫び泣き、いま自分がどれだけ辛い目にあっているかを嘆き訴えた。

しばらくして外国から戻った母が珍しくあたしの部屋にやって来た。

「なに、学校で苛められているんだって?」
 
母が初めてあたしの学校生活に関心を寄せてくれた。

あたしは今までのことすべてが込み上げてきて、体罰や折檻の恐怖を少しも心配しないで、一気にまくしたてた。お母様を相手に。

「そうや。ずっと苛められてる。今頃そんなこと聞いてきたって、どうせパパにもママにも関係ないんやろ? あたしのことなんか何も知らんくせに! あたしは韓国人になんて生まれてきたくなかった。なんであたしを韓国人に生んだんよ! あたしは大きくなったら日本人になるんやから! 絶対に、絶対になってやる」大声で言い放つとベッドに伏せて号泣した。
 
さあ母よ、何と言う?

「そんなこと言ったって仕方ない。だっておまえは韓国人なんだから。その事実は変えられない。おまえが体中の血を全部入れかえたところで、おまえに韓国人の血が流れていることに変わりはないし、たとえおまえがパスポートを緑から赤に変えてみたって、おまえが韓国人に生まれた事実は変えられない。パスポートの色を変えることはできても、おまえの歴史を変えることはできない。おまえが日本人になるというのはパスポートの色と文字を変えたいということで、日本人になれるということと違う。反対はしないが、大きくなってから決めなさい」

「大きくなってから? いやや。今すぐなりたい。ママは、あたしが、あたしだけ日本人になるのが嫌なんやろ。だから帰化の邪魔をするんやわ。パパやママに反対なんかする権利なんてない。放ったらかしのクセに! あたしが学校で苛められている時、いつ助けてくれた? いつ話を聞いてくれた? いつ慰めてくれたっていうのよ!! これはパパやママに関係ない!」
 
自分でも驚いた。親に対して一度だってこんなふうに口をきいたことはないのだ。

「帰化は今すぐにはできない。手続きもあるし、小学生では無理なんだよ。もっと後で考えなさい」てっきりぶたれるかと思っていたが、思いがけず母は冷静だった。肩すかしを食らったのもあるが、冷静な母の態度に安堵したあたしは、開き直って勢いよく言葉を付け足した。いつもなら、調子にのりやがって!と2、3発来るところだ。

「そうする。絶対に。そしたら韓国人だって苛められなくて済むし。反対されたって、絶対にやってやる」

「……止めたりはしない。だけど覚えておきなさい。お前は自分が韓国人の子供に生まれて、韓国の血が入っているということを知っている。嘆いたって、帰化したって、知った事実を変えることはできないのだということを」

韓国人だという理由で、学友から苛められていると泣きながら訴える小学生のあたしに対する母の言葉は本当に耳を疑うものだった。

「外国人なんだから仕方がない」
 
え? は? それだけ?
 
母からその言葉を聞くまでは感情的になっていたので咄嗟に口答えをしたが、呆気にとられて、もうそれ以上、あたしは何も言うことができなくなったのだった。
 
ずるい。完全に母の勝ちだった。
 
彼女は泣いている子供の目線には下りてこないで、子供に自分の目線に近づくように強いた。
 
母に慰めや同情はない。慰めるだけでは人は成長しないから。彼女にあるのは現実と事実だけだ。建前やら、きれいごとのない人だというのを忘れていた。そうだ、彼女はアニメなどのファンタジーでしか涙を流さないし、感傷的にもならない人だった。勇気を振り絞って母に食って掛かったが、その甲斐あって、自分の存在について非常に冷静になることができた。
 
この出来事がなく、いま、ここにあたしが被害者意識を強く抱いたまま自分を、相手を憎んだままであったなら、あたしの人生はこうはいかなかったと思う。あたし自身は顔立ちと、生まれ育ったところと、国籍と、言語と、教育と、家庭環境がてんでバラバラで、何国人かと問われたら、自分でもその都度、あたしって何国人なのかなって、正直なところ未だに戸惑いを感じるところもあります。
 
実際に、日本に居留して国籍を隠したいということではなく、自分は韓国人ですと堂々と言い切るのに自信がないというか、迷いがある。それは韓国であたしは韓国人ですと言うと、いやいや、あなたは日本人だよと言われるのと同じようなことで、複雑なものです。
 国籍は確かに韓国なのだが、別に国籍に拘っているわけでも、帰化しないことに意固地になっているという訳でもなく。ずっと日本にいるのだし、帰化しようと考えて書類を取り寄せてはみたのだが、そのやりとりにものすごく時間がかかってしまって、次々に届く書類を目にしていたら違うことに興味がわき、手に入れた戸籍などから両親のことを一生懸命に調べるうちに気が抜けてしまい、そのうち帰化のための書類がすべて揃っても何となく面倒になってきて、そのまま手続きを保留、放置しているだけなのだが。
 
あれ以来、パスポートの色を変えると日本人になれる、という幻想に情熱を抱けなくなったからなのかもしれないが。現在の感覚として母国は日本。自国は韓国ということになるのかな。わからない。


■いじめ克服

日本の教育機関においての在日韓国人問題と苛め。あたしが直面したこの苛めの行方は、5年生くらいの頃、ある一人の活発で、裕福で、自信に満ちた、背丈もあたしと同じくらいで目鼻立ちのはっきりした女子転入生がやってきて終結を迎えた。そこであたしに対する苛めは「韓国人」という名目から、当時、一世を風靡した「ブリッコ」になった。「韓国人」から「ブリッコ」へ。苛めは思わぬ方向にすり替わり再びあたしに襲いかかってきた。
 
あたしが「ブリッコ」として苛められるその主な原因と思われたのは、髪型だった。当時うちの3軒ほど隣には、
 
しあんくれ~る
 
というなんとも楽しい名前の美容室があったのだが、あたしは母から許可をもらって、よくその美容室へ通っていた。そこではパーマをかけて、当時大流行した「聖子ちゃんカット」や「伊代ちゃんカット」、あとはサーファーカットにしてください、などと小学生のクセに大人顔負けの大変おませなオーダーをしていたのだった。
 
なぜ厳しい母がパーマをかけたりする許可をくれたのか皆目分からないが、多分、母なりに、何か失ったものを取り戻すというか、母子の溝を埋めるためにあたしの希望を尊重しようとし始めていたのかも知れない。しかし、気づくのが遅かったのか、母が逝くのが早すぎたのか、もう少し時間があれば良かった……。だけど時間は戻らない。
 
あたしは、小学生ながらも早起きをして登校前に朝シャンし、2本のブラシとドライヤーを巧みに使い、ブローして髪型を決める。思い通りのヘアスタイルになると1日中気分が良かった。しかし、あたしのお気に入りの聖子ちゃんカットがクラスの人気者の彼女の鼻についたのか、あるいは彼女らの保護者からはその髪型にする許可がもらえないでいる妬ましさか、とにかく今度は「ブリッコ」として苛められ始めた。それに輪をかけて、うちはちゃあちゃんが言葉使いには非常に厳しかったので、学校で箸などのことを、お箸と「お」をつけて呼んでいたことが余計に「ブリッコ」と言われ、苛めが増幅されることになった。
 
給食のお椀に手を添えて食べているのも気に入らなかったようで、給食中ずっと机の周りを囲まれて、教室を飛び出すまでブリッコ、ブリッコと手を叩いて大合唱され続けた。教室をあとにする際にも浴びせられる罵詈雑言。担任は知っていたけど、見て見ぬフリをきめこんでいた。
 
過去に「韓国人」としての苛めもあったので、少々慣れていたのもあったが、何ヶ月も続くとさすがに辛く、この時は自ら母に直訴してみた。すると母は、その中心人物の彼女に直接電話をして問うてみると言うではないか。あたしは真っ青になって母を制した。

「やめて。お願い」

「大丈夫。まかせておきなさい」
 
結局母は、あたしの止めるのも聞かないで、彼女の自宅に電話をしたのだ。電話の内容をはっきり聞くのが怖すぎて、母から少し離れたところ、リビングルームにある螺旋細工の水屋簞笥(食器棚)の陰から様子を窺い見ているのが精一杯でした。母は、電話に出た彼女の親御さんには何も告げずに、ただ彼女と直接に話すことを希望して取り次ぎを頼んだ。それからしばらくして電話口に出たらしい彼女に母は、開口一番、

「○○さんね、こんにちは。実はあなたに相談があって電話をしました。最近とんちゃんが学校から泣いて帰ってくるのだけれど、訳を話さないの。仲良くしてもらっているあなたなら何か知っているかも知れないと思って。あなたに何か心当たりはない? どうやら誰かに苛められているようなのだけれど、誰に苛められているのか聞いても本人は庇って言おうとしないので困っているのよ。もし、それが誰だかあなたが知っていれば、おばちゃんに教えてほしいのだけれど」
 
というようなことを言った。
 
小学生の子供とはいえ、実に相手の面子に配慮した質問の仕方をしているなあって、あたしも子供だったけれどそれが分かった。その電話を切った後どうだったか母に聞くと、そのクラスメイトのいじめっ子の彼女は母の質問を聞き、感極まって電話口で泣いたらしい。母が言うに彼女はしばらく泣いてから、

「私と、他数名が苛めました。だから泣いているのは私のせいです。すみません。もう明日からはいたしません」

と言ったという。さらに、

「約束してくれるかな」

と念を押したところ、涙声で「はい」と答えたそうだ。そうは聞いても、あたしはまだ半信半疑だった。
 
翌朝は仕返しを恐れて学校に行くのが本当に憂鬱だったが、母に背中を押されて渋々登校した。思いのほか、その日以来パッタリと苛めはなくなった。それどころか、

「今までごめん」
 
とも言ってきてくれた。きっといじめっ子の彼女も本当は感じやすい子だったのかも。だって、話のもっていきようではしらばっくれることもできたであろうに、純情だなあって。

この件で初めて母を尊敬したし、心から感謝した。それにこの時に、もしかして母はあたしが憎いわけではないのかも知れないとぼんやりと思った。


■おとしまえ

この頃、小学校4、5年くらいのときかな。難波の商業施設でファンシーな文房具などを紙袋に3つ分も万引きして補導されたことがあった。通っていたフィギュアスケートをやめさせられたのもあり、きっとそのストレスが溜り、反抗心でやったのだと思う。
 
シングルマザーのお母さんが千日前のキャバレーで働く水彩画の上手なみどちゃんとイタズラ感覚で万引きしていたら、警備員に見つかり補導されたのだ。お互い親に連絡されるのだけは死んでも嫌だったが、怒られ、諄々と諭され、逃げられないのを悟り、このままでは帰れないことを知ると、仕方なく自宅の電話番号を白状した。みどちゃんのお母様は留守だったが、その代わりに、よりによってうちにはたまたま運悪く両親が2人とも在宅で、あたしだけでなく、友人のみどちゃんの引受人にもなるために、あろうことかあたしの両親が2人揃って迎えにやって来るというのだ。

バシーン。ガターン。

「ま、ま、お母さん、落ち着いてください」

「いいえ。こんな子、不自由させたことなんてないのに、こんなに大量に物を盗むなんて! 呆れるにもほどがあるってもんだ。牢屋へでもどこへでもやってください」

バチーン
バコーン

「いやいや、お嬢さんも大変反省なさっているようですし、今日のところはこのへんにして、ご家庭で指導なさってください」

「そうですか。ご迷惑をかけてすみません。娘たちが手をつけたものの会計を願います」
 
父が子供向けのキャラクター付き文房具雑貨に3万円ほどの支払いを済ませ、あたしと、あたしの両親と、みどちゃんで賑やかな繁華街を歩いた。全員無言で。
 
帰路うどん屋さんへ入って、両親とみどちゃんと4人で食べたがまったく味が分からなかった。家の付近にさしかかると父はみどちゃんに、

「あなたはもう自分の家に帰りなさい」
と言って、みどちゃんを帰した。
 
内心、いいな~みどちゃんだけ親にバレずに済んで。という思いが頭をよぎった。あたしは今からきっと地獄だ。母から処罰、折檻されるのを覚悟した。
 
しかし、家に帰っても特に体罰が待っている様子はなかった。拍子抜けするくらい小言もなにも一切なかったが、母が突然あたしを坊主頭にすると言い出したので、学校に行けなくなるからそれだけは許してくれと泣いて頼んだがダメだった。母は大きなハサミを持ってあたしの部屋にやって来た。あたしは、もしかしたらそのハサミで刺されるかも知れんと思い、一瞬身構えた。そんな心配をするあたしをよそに、母は、いつものように威厳を保ったまま、どんどんどんと床を鳴らしてあたしに近づくと、今朝も丹念にシャンプーをして、そしてさらに入念なブローを決めたあたしの自慢の髪の毛を乱暴に一房摑んだ。そして、同級生の女子生徒から嫉妬され、苛められるほど手間ひまかけた自慢の髪型は、あっという間に見事な虎刈りにされた。母の手に迷いはなかった。あたしは母が部屋からいなくなると大急ぎで自分の洗面所へ走った。鏡の前の自分を見て、一瞬、茫然自失に陥りそうになった。あたしの考えでは、母が少しくらい手加減してくれることをひそかに望んでいたが無駄だった。
 
なんにせよ、オトシマエはつけるのがうちの流儀でした。

 
13歳の春。そんな母が亡くなったのです。



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