すべての問いは個人にむけられたもの

その個人もまた問いを生むもの

 

人の生は問いの質で決まる。

問いの質はそのまま

その者の生きるレベルを反映する。

 

 

 

 

高校美術の非常勤講師をしていた時の事。

 

うどんをすすりながら教室へ入ってくる生徒

授業時間をフルに使って化粧をする生徒

 

 

私からすると、彼らの自由なんだけれど。

 

 

そう言えてしまう時点で私は教育者ではない。

 

でも

 

自由に履き違えはないからね。

履き違えと思う人は自由をあまく見ているし

むしろ履き違えている。

なんなら危ないから。(生きる脆弱さ)

 

 

そう。彼らの自由なんだけれど。

 

私に対して彼らが負う責任はない。

 

 

 

私が思うに、

 

彼らが自身の生に負う責任。

 

生きるうえでやることは。

 

 

 

彼らの

自身の「問い」はどこにあるか

ということでしかない。

 

 

そして私が彼らに興味あるとしたらそこでしかない。

 

 

うどんの男子も

化粧の女子も

 

 

わからない関わり方しかできないのだから

放っておくしかない。関わりようがない。

 

 

 

で、上記のような事象を、

それは問題だ。とする。

 

教育問題にね。

 

 

でも問題として共有するその前に、

 

 

自身の内側に「問い」がどうあるか。

 

 

個人レベルでの

それが先。

 

それがなければ

そもそも共有は成立しない。

 

思考停止・放棄か 思考を許さない末の

強制か統制・統治の類。

倫理・道徳・社会規範・常識・教え 等に疑いなく自身を預けて生きれば

個人が生きるチカラ(思考するチカラ)は弱まる。

 

 

 

 

私としては「教育」という言葉もしっくりこない。

そのシステムについて語ったり議論したりということに興味がない。

そもそも議論ってあんまり信用していない。

 

 

 

 

 

例えば

 

不登校を問題としたり。

不登校を議論したり。

 

つまらない。途端につまらなくなる。

そこじゃないから。

 

 

私の周りには「学校に行かない」と選んだお子さんが多い。

とても楽しそうで充実している。

それをシェアしてくれる。

そこに不登校という問題は存在しない。

 

 

学校へ行くか行かないか。

個人の中で「問い」はあっても

一般化された「問題」としては存在しない。

 

 

 

私が関わるお子さんで「学校に行けない」

という方も中にはいる。

 

不登校という一般化された「問題」を存在させ

自らに食い込ませていたとしても

それも個人レベルでの「問い」であり 

問い方である。

 

 

 

結果(全体)が先ではない。

原因(個)が先。

 

結果として生きるから問題として悩み、苦しむ。

 

原因として生きれば 問いが訪れ、問いを生む。

 

 

 

 

すべての問いは個人にむけられたもの

その個人もまた問いを生むもの

 

人の生は問いの質で決まる。

問いの質はそのまま

その者の生きるレベルを反映する。

 

 

それが社会を映し出す。