わからないことへの恐れ。

対象を認識できないと不安だから

いっそうのことソレをナイものとする。。

 

「自分の知らないところには真実など存在しない」かの如く。

 

「答え・応え・回答・解答」に 安心を求める 生き方は自身を限定してしまう。

 

安心して「問い」を生み続ける生き方は自由でひろやか。

 

 

 

「答え・応え・回答・解答」

 

 

 

教育って外側から、それらを「求める・求められる」

 

 

 

個人の内から「問い」がうまれるのを待たず、待てずに

「答え・応え・回答・解答」を押し付け、求め 迫る。

 

しかもそれらに「模範」的なことまで付随させていたりもする。

 

 

おとなが採用している「概念」を固定したままそれをさせれば、

こどもの経験するそれは「代り映えのしない」ものになる。

 

おとなや社会は自分たちの知らない領域に踏み出されるのを嫌う。

 

自分の経験してきたことを覆される、

あるいは否定されているようで、それを嫌う。

なんなら「恐怖」ですらある。

 

 

だから、おとなはこどもに対して「黙る」をしない。

常に、半ば強制的に「求める」「与える」をやる。

 

相手の内側で、「問い」がうまれるのを阻害する。

 

おとなはこどもから「受け取る」をしない。

 

 

 

おとなはこどもに問われる前に「あつらえた何か」を与えようとする。

そうしておきながら

 

「これは違う」

「こんなハズじゃない」 と

 

受け取ろうとしない。

受け取ることを知らない。

 

 

 

自身の受け取る経験を変えたければ。

 

おとなは、先ず「黙る」といい。

 

「黙る」を知らない者は 受け取れない。

空っぽで何かをする羽目になる。

 

「黙る」をすれば受け取れる。

 

「黙る」は

「問い」をうむ。 

「問い」を促す。

 

 

そして、「問い」が自身のもとに訪れたら。

 

問いに対して何かを与えるのではなく

問いを受け取ればいい、各々の内に。

 

 

問いがなければ教師は現れない。

 

逆も然り。

 

教師の手筈が整えば、「問い」を携えて生徒が現れる。

 

 

手筈の整った教師は「教える」「与える」など手際よく済ませる。

いつまでも「生徒のため」などといって

手垢でまみれてしまうくらいこねくり回しはしない。

 

早々に「生徒といっしょ」に分かち合う。

ほんとうの自分を「知ろう・現わそう・示そう」と、

そこに自身も含む。

 

 

 

教師は本来「教える」だけではない。

 

教師は「問いを磨く者」でもあるのだから。