電車の車窓からみえる景色の様変わりがここ最近著しい。

 

古い平屋とか取り壊されて更地になっていくペースが速くて

 

その跡地に建売が次々と建っていく。

 

更地には植物が繁茂していて

その植生の多様なこと。

 

 

「雑草」のひと言で片付けてしまうのが

そこを生活圏とする我々の 現・生活様式での認識かもしれないけれど

 

国が違えば これ程 複雑で多様な植生も珍しいのだと思う。

 

 

 

そして、思った。

 

「多様」って結果であり状態であり ただの「事実」

「多様性」となると認識の話になってくる。

 

 

個々人が気高く生きようとすることが

「多様」という性質の結果として現れる。

 

そのように生命を表現したいのか。

 

 

 

多様という性質を崇高な概念として祀り、理解したいのか。

 

つまりそれは

その性質を理解しようと

 

「教え・伝え・導く」

 

 

そんなことが可能なのであろうか。

また必要なのだろうか。

 

こーしたら こーなる。って。

 

ある方向性・意図をもった価値観の

利害関係が派生する

またはバイアスのかかった

 

そんな歪んだ認識にしかならないんじゃないかって。

 

 

 

 

 

人の意で建てられ、そして解体された跡地。

そこにずっとあった種たちに機会が訪れた。

 

多様 の 表現。

 

更地の多様な植生をみて感じるのです。

 

 

 

 

 

で・最近こんな事も思う。

 

例えば好きな 音楽。

 

自由の体現としての多様な表現も

 

解釈・理解 の共有。

 

重要ではない。

 

 

自身を還元していく機会として響かせる。

 

人との会話もそれ。

 

 

友人の娘さん。  | こころ踊り・跳ね・振動する (ameblo.jp)

 

 

 

 

であいがしら  を大切にしたい。感覚が更新されるから。

であいがしら  はプリズムのよう。自身の構成要素を可視化してくれる。

 

 

すると、「正気」な自分に出会うことがある。

 

 

出会うことがあると言ったのは、「常」でないから。

でも、「感じる」とそっちを「常」としたくなる。

そっちがリアルな感じだから。

 

現状「常」でなくても信頼している。そっちを。

 

 

 

「正気」でいたい。

 

 

多様性 とか

意識にあがっているうちは

そーじゃないものが不自然に異物として紛れている。

だからある意味わかりやすい。

 

 

全ての人が「正気」であろうと試みれば。

そのように意識的に生きようとすれば。

以前も書いたけれど「原因」となる生き方を試みれば。

 

 

「多様」とはただの「結果」であり「事実」だから。

 

ただ「正気」で生きようとすればいい。

個々人が「正気」で生きようとすれば、その多様の性質は自ずと現れる。

 

 

多様性という「教え」をもとに生きる じゃない。

これは拡がりに欠ける。イメージも痩せた狭い世界観。

 

 

「原因」となる生き方を試みれば

多様性は「結果」として体現している。

これは無限の可能性がある。イメージ拡がる豊かで開いた世界観。

 

 

更地の多様な植生が

そう語っているようだった。