私は、死後の世界を信じる。

という人を、信用しない。


死んだら何も残らない。だからこそ、今を全力で生きていけるんじゃないの。

がさっと、パッケージされたシャツを三枚まとめてつかみ、アンティーク風に白く塗られた木の棚の上にざっと並べる。2、3回並べ直して配置を決めたら、袋から出して形を整える。カラーバリエーションは全色並ぶように、色の配置が重要。推してる商品が目立つように。詰め過ぎず、空き過ぎない様に気を配る。ふと窓際を見ると、自由が丘支店からヘルプで来てくれてる坂野さんが厚手で焦げ茶色のセーターを奥の棚に置こうとしているところだった。

「そこ違ーう。その左のダンボールの中の、白いヤツ。それを棚に置いて、三段目よ。ああ、もしもし、すいません。」

携帯電話を肩に挟んで、本店の店長とずっと打ち合わせ。通話しながら、手は商品の仕分けと配置の作業にかかっている。ここ一週間というもの、毎日この調子だった。2月1日のオープンに向けて、現場の調整作業はいよいよ大詰めだ。目黒店は熱気に溢れていた。各支店から集まった精鋭たちが、私の指揮の下に動く。ただ、それぞれが各店舗のやり方で動くものだから、まとめるのが大変だった。

「ふう。」

一旦切れた携帯電話を肩に挟んだままで、大きく溜め息をついた。左耳に“ツー、ツー、ツー”という電子音が残る。ショーウインドウから入る西日が、ジーンズの膝まで伸びてきていた。


「結婚しよう。」

「え、今?」

思わず聞き返してしまった。だって先月、新設される目黒支店の店長になる辞令が私に下って。そこから2月のオープンに向けた間の3ヶ月間は、私がずっと仕事で忙しくなる事を、彼も知っていたはずなのに。同じアパレル業界で店員やってるんだから、忙しい時の忙しさぐらい分かってくれるはずでしょう。そう思った時、その言葉が普通に口をついて出たのだった。

通りに面した窓の、向こうでは忙しなく人が行き交う。二人で久しぶりに合わせて取った休日は、世間で言うところの、“普通の月曜日だった。


「少し早いけど、今度の休みはクリスマス記念に出かけようよ。あの店、予約しとくね。ランチだったら安いし、俺、おごるよ。」

そう言って出かけたイタリアンレストランで、黄金色に弾けるシャンパンを一口飲んだ後、

「はい、これ。早紀が欲しがってたやつ。」

(じゅん)から手渡された真紅の紙袋のサイズは小さくて手の平サイズ、側面に書かれていたロゴマークで私の好きなアクセサリーブランドの物だと分かった。少し疲れた休日の顔に、ぱあっと笑顔が拡がる。

「うっそ。本当に?嬉しい、ありがと。はい、これ。あたしからもクリスマスプレゼント、あげる。」

ポールスミスのマフラーが入ったギフトボックスを彼に手渡してから、手元に残った紙袋の口を塞ぐ金色に煌めくシールの端っこを、カリカリと長い爪で擦った。斜めに彼を見上げて、

「ねえ、これ開けていい?」

「うん。開けて。」

上品なリボンに飾られた小さな赤い箱を開けると、そこにはピンクゴールドの艶やかなリングが緩やかなカーブを描いて、真ん中に輝く赤いハート型のルビーを支えていた。

“あの指輪だ!!”

私には、一瞬で判った。

無理だと思って、ダメ元で折ったドッグイヤーのひとつ。12月が近付くと騒ぎ出すファッション誌のクリスマス特集の中でもひときわ光っていた。写真を見た瞬間心奪われたけど、その後値段を見て諦めた。それでも諦めきれずに、握っていた濃いピンクのペンで、ぐるぐると何重にもハート形で囲んだ、彼に買ってもらいたい私の心のNo.1アイテムが、今ここにある。

「どうして?こんな高い物、大変だったでしょ?」

付け睫毛が落ちそうなくらい瞬きして、私は潤を見詰めた。信じられない。他にも五千円から八千円台の物にまで、どれでも選べるようにしっかりとピンクのペンで丸印を付けておいたのに、よりによって一番高いものにするなんて。普通のショップ店員が、ボーナス無しの給料で気軽に買える代物ではない。

言葉を失ってまじまじと彼を見詰める私に、彼は真っ直ぐな瞳でこう言った。

「結婚しよう。」

予想外だった彼の用意された言葉に、私は打たれた様に、少し揺れた。


「え、今?」

「今だからだよ。早紀、ずっと忙しくて会えないだろ。結婚でもすれば、ずっと毎日一緒にいられるのかなって思って。」

そう言って、テーブルの上で組んだ指は、心なしかもじもじして見えた。伏し目がちな黒い瞳を覆う睫毛は長くて、まるで彼の精一杯の勇気を守っているかのようだ。

「あ・・・。」

なんと言ったらいいのか解らない。

確かに、結婚したかったよ。うん、そう。ずっと。だって、もう付き合ってから三年も経ってる。お互い仕事が忙しいけど、ずっと一緒にいられればいいねーなんて、言ってた。リビングで二人、抱っこされてTVを見ながら。この背中に感じてる温もりが、ずっと続けばいいなー。ぼんやりと、そう思って彼の肩に頭を持たせかけると、柔らかく返してくる腕の力で、彼もそうなんだと感じていた。

「生まれ変わっても、一緒にいようね。」

夜の時間も深くなってくると、口癖のようにそう囁く彼に、

「死んだらそれで終わりよ。来世なんて信じてない。それより今、愛して。」

そう言ってなだれ込むのが、二人のお決まりのパターンだった。

そう、それは、この恋が今もこれからもずっと二人で一緒にいられる、いずれは結婚に繋がる恋愛だと二人で信じていたからだった。


・・・でも、そのタイミングは、今?今なの?

「お待たせ致しました。」

ウエイターがテーブルの上に前菜を置いて去って行った。きっと訪れるタイミングを待っていたのだろう。モッツァレラチーズとレタスのサラダの上に、ラインを描くようにかけられたバルサミコ酢のドレッシングが、重力と時間に負けて、つぅ、と下まで流れ落ちていた。


たはー。

私は、テーブルに肘を着いた片手に頬を預けると、少し涙が溢れてきた目を細めて彼を見詰めた。

もちろん、悲しかったからだ。

甘すぎて、泣けてくる。眉をハの字型にゆがめて瞳を見詰める私を、彼は嬉しそうに見詰め返してきた。それは満面の笑みで、窓から差し込む光がいっそう眩しく彩った。


駄目だ、分かってない。そんな、ぼんやりしたところが可愛くて付き合ったのだが、結婚するには準備が。それぞれの両親への挨拶や挙式の日程調整、参列者名簿のリストアップが。人数、予算、案内状の発送にお返し、その他諸々を手配する事が。そして二人が一緒に住むためには、何よりも引越しの準備という、今まさに仕事で起こっているような、てんやわんやの様々な雑事が必要不可欠なのだというのに。潤にはまるで分かってない。

空になったオードブルのお皿が下げられて、変わりに温かいパスタがそれぞれの目の前に並ぶ。

私は彼からの、純粋な甘い眼差しに耐え切れずに、

「ごめん。今はムリ。」

そう短く答えた。

潤は突然水を浴びせられたかの様に目を見開くと、それからうつむいて固まってしまった。私は、何も話さなくて済むように、テーブルに届けられたばかりの熱々のボンゴレを、無理矢理口に運んだ。くるくるとフォークに巻き付け過ぎたパスタを、解かずにそのまま口いっぱいに詰め込んで、水で流し込む。それを3回くらい夢中で繰り返した後に、改めて彼の方を見たら、両手を膝の上に乗せたまま、テーブルの上をじっと見詰めていた。

「あ、あのね。嫌だっていう、訳じゃないのよ?ただ、今は物理的にも時間的にも、無理かなーと思って。ほら、身体ってひとつしかないんだし。今は仕事忙しいし。」

そう言ってなだめてみても、彼は身動きひとつせずに固まっていた。

「そういった話は、また仕事が落ち着いてから、したいな~。とか。」

駄目だ。何を言っても空回りしてるような気がする。口と手が異常に動いて、しかも全然潤に気持ちが伝わってない。しばらくひとりで勝手に喋ってから、それでも身動きひとつしない潤の様子に、諦めて黙々とボンゴレを口に運び続けた。

静かなテーブルの上に、軽快なイタリアンポップスのBGMが流れて、潤の頼んだトマトソースのパスタが二人の間にいつまでも残っていた。









繁忙期を終えた今は、さして会社に残る理由もなく、まっすぐに家へと帰る。帰り際に横目で彼の姿を探すと、経理部の女の子と笑いあっていた。季節は春を終えようとしていた。


7時に自宅に帰ると夕御飯を食べる。少しでも食べないと、ガリガリのままだ。経理部の吉岡さんは、私なんかよりずっと女性らしい丸みのある体型で。夕食後眠るまでの時間は、美顔ローラーとマニキュアと、バストアップエクササイズの為の時間になった。
あの瞬間を迎えるまでは。


喫煙室へ向かう彼を呼び止めて、階段の踊り場へと誘い出す。左右を見渡して誰も居ない事を確認すると、一歩踏み出して、彼へと近寄った。
「どうして。」
どうして結婚するの。どうして今、結婚なんてするの。そう聞きたかった。私の恋は始まったばかりだったのに。
「どうしても何も。だって俺達付き合ってもないし。」
胸を空気砲で打ち抜かれた気分だった。握りこぶし大に開いた穴が胸に風を通して、息をするたびにスースーした。
彼はしきりに頭をかいていた。無造作ヘアにセットされたはずの髪が無造作に乱れていく。
「あのさ、もういいかな。俺、こんなとこ見られて、誰かになんやかや言われたくないんだよね。」
そうね。もし経理部の誰かさんに見られたら、事だもの。そう言いかけて、それでも声は出なかった。
私の返事を待たずにさっさと立ち去る彼の背中を見送る。ストライプのスーツのシルエットは、彼の美しいスタイルを際立たせていた。
残業が続いた後、改札での彼は、何回振り返っても私をずっと見送ってくれていた。それは、彼女に対してもそうだったのだろうか。目線を落とすと、自分の飾り気の無い胸が目に入る。もう少し、私に価値があったら。


営業部のフロアに戻ると、彼の左手に新しく光る銀色の指輪の上で、祝福の言葉と二人のなれそめのエピソード、ベビーベッドを譲り受ける約束等が、仕事の合間に行き交った。そこに居られない私は、パソコンの前で両手を動かしながら、入力している文書の中に隠れて息を潜めていた。


その日の晩、私はコンビニでハンバーグ弁当を買って帰った。ロールケーキとゼリーとティラミスも買って帰った。コーヒー牛乳とバナナ・オ・レも買って帰った。家へ着くと、自分の部屋に篭もり、一心不乱に食べ続けた。喉に詰まると、コーヒー牛乳で流し込んだ。ロールケーキを半分まで食べ終えると、嗚咽に詰まった。それでも食べ続けて、ティラミスまで押し込んだ時に、吐いた。吐いて、床に広がった物達が、さっきまで食べ物だったのに見る影もなく崩れて異臭を放っている。
肩を揺らして震えている、自分が泣いているのが悲しみのせいなのか、喉を通った胃液による痛みの為なのかが判らない。ただ頬を伝って、涙は流れ続けた。


翌朝目覚めた時、薄ぼんやりと白けた光の中で、すべての物から心を閉ざそうと決めた。そうする事で、自分を守れる。会社が終わると、ぱんぱんになったコンビニの袋を提げて帰った。
「渚ぁ、ご飯はぁ?」
という母の声に、
「買ってきたから、いい。」
とそのまま部屋への階段を上がる。鍵をかけて、温めてもらったハンバーグ弁当のフタを開けると、ほわんと立ち昇る香りに目が滲んだ。
大丈夫。そう呟くと、カロリーをオフしてないコーヒー牛乳の紙パックの口を開ける。ストローを差し込み、ひと口飲んで息をついた。それから、さあ。と食べるのに取りかかった。
食べても食べてもなかなか終わらないお弁当は、『お徳でボリューミー』が売りの商品だった。これを食べきれば何とかなる。きっと変われる。箸を握る手は、まだ節くれ立って細い。隙間が空いた胸の穴を埋めるように、食べ物を自分の中に詰め込んだ。
窓の外は風が強くて、さっきまでの小雨も大粒の雨に変わっていた。音のない部屋に、ばらばらと雨の音が響く。
木の枝にぶら下がっていたさなぎの、一本の糸が、ぷつ。と切れた。


変わりたい。変わらなきゃ。
手を休める暇も惜しんで、物を口に運んでは押し込む。
空っぽになった自分の中に、物を詰める事に必死だった。
チーズケーキバーと、シュークリームも食べ終えて、味なんて分からないままティラミスのカップに残る最後のひとさじを口の中に押し込むと、そのままベッドに倒れ込んだ。
きっと朝が来たら、劇的に変わっている。私はふっくらと可愛くなって、彼もきっと見直すはず。お腹を押さえて横になり、丸まった姿勢のまま私は眠りに落ちた。


窓の外では、さなぎが地面に落ちて転がっていた。木の枝と細く繋がれていた一本の糸は、千切れて風に吹かれていた。部屋の窓、カーテンの下からわずかにこぼれ出る光が、ふっくらとして横たわった黄緑色のさなぎの姿をぼんやりと照らし出していた。小雨に変わった雨は、優しく流れを作り、ゆっくり、ゆっくりと、動かないさなぎをどこかへと静かに運んでいった。

2011.5.16. 安堂まりー


思えばつまらない身体だと思う。自分の姿を鏡で映すと、ひょろっとして、肋骨が出ていた。わざわざ買ってきてくれるから申し訳なくて秘密にしているが、いつもハンバーグ弁当は半分以上残していた。自宅に帰ると、疲れてベッドに倒れこんで寝てしまう。翌朝はギリギリまで眠って、起きたらシャワー。朝食を取る暇もなく、電車のホームで野菜ジュースを1パック飲み干すぐらい。そんな毎日が続いていた。
でも、仕方ないし。
思いながら、今日も一日の始まりのシャワー。今日はお弁当をもう少し食べてみようか。そんな事を考えて、今日も残業をする気満々の自分に気付き、苦笑する。こんな毎日が当たり前になっていた。

部屋に戻って換気をする為に窓を開けると、目の前の木の枝に黄緑色のさなぎがぶら下がっているのに気付いた。ちょっと眉をひそめて眺め、でも行く行くはこれも綺麗な蝶になるのだと思い当たった。ツンととがった形で反り返り、一本の糸を張って細い枝に健気にくっついた、丸いころころとした生き物をそのままそっとしてゆっくりと窓を閉める。出来るだけ綺麗な蝶になるといいな。明日に向かうことの楽しみが一つ増えたようで、会社へと向かう足取りを軽く感じた。



「ちぃ~す。」
最後に出て行く営業さんと入れ違いに、彼がコンビニの袋を提げてフロアに帰ってきた。
「俺も今日、ハンバーグ弁当にした。」
「うん。」
さして好物でもないハンバーグ弁当は、「前と同じものを。」という注文に忠実に応えられて届いた。平日の夜頻繁に迎えられる時間を、私は日ごとに好きになっていた。
「電気、いっこ消すね。」
そう言ってから、私の隣の席を陣取る。あの日から定位置になった食事の席は、明かりが減って狭くなった部屋では、まるで世界の終わりに身を寄せ合って食べているような錯覚に襲われてしまう。
もう少し、一歩だけ進めば膝が触れ合うのではないかという高揚感と、そんな事をつい想像してしまう自分への戸惑いのせいで、今日もまたハンバーグがうまく飲み込めなかった。彼がお茶を飲み干している内に、急いでフタをして半分残ったお弁当を隠す。
「さて、仕事にとりかかりますか。」
両膝に手を置いて気合を入れ直すと彼は、
「さあて、先週の分ぐらいは終わるかな~。」
と、冗談にならない事を冗談めかして言った。伸びをしながら自分のデスクに戻っていく彼を目で追う。しなやかな長身は、後姿でも充分魅力的だった。
「本当に大変そうね。私、今日の分は落ち着いたから、手伝ってあげる。」
私はくすくすと笑いながら、自分の席を立った。
「まじで?え、嘘。」
振り返って立ち止まった彼を追い越して、彼のデスクの前まで行くと、山積みになった書類を分類していく。FAXの送付状と着信表示に従って、枚数を分けて。見積もり依頼と事務連絡、山を分けて並べ直していると、つつ、と寄ってきた彼が肩ごしに声をかけた。
「やっぱり、いいよ。悪いし。早くできた日ぐらい早めに帰りなよ。」
ぼそぼそと話す彼を尻目に、てきぱきと書類を割り振っていく。
「いいわよ。今日は私、きりのいい所まで進んだから大丈夫。FAXはこれでいいの?」
そう言って分類の完了したデスクの上に手を置くと、上から彼の手が重なった。
「俺、小松さんみたいな人、好きかもしんない。」
顔を向けると、傾いた彼の顔が近付いて影になった。
ゆっくりと目を開けると、気恥ずかしそうな彼の笑顔がそこにあった。
眩しくて、私は目を伏せて微笑む。
「・・・ハンバーグ弁当の味がする。」
「え、えぇ~?それってしょうがなくねー?」
拍子抜けした声が、暗くなった部屋の全体に響いた。それがおかしくて私はまたくすくすと笑う。今日は仕事、やる気出そう。そう思って山積みになっているFAXを眺めた。


「ごめん。今日、外回り。」

そんなメールが届いて、肩を落とす日が続いた。彼がいなくても仕事は山のように押し寄せる。夕食を食べずに帰る時間は10時を回り、家で倒れこんだベッドの上で、私は「ハンバーグ・・・。」と呟いた。さして好きだった訳でもない。それでも、ないと寂しいぐらいには好きになってしまっていた。早く終わらないかな。横を向いて少し涙をこぼした後、そのままうつむいて私は眠りに落ちた。




窓の外のさなぎは、まだ丸くてころころとした硬い姿のまま、一本の糸をぴんと張り、木の枝にぶら下がっていた。翌朝シャワーを浴びて自分の部屋へ戻ると、窓を開けて枝に付いたさなぎの姿を眺めるのが日課になっていた。
自然に育つには、随分と時間が必要なのね。今まで考えたこともなかったけれど。
今日はどんな一日になるんだろう。腫れぼったい目をして考える。いつも当たり前のように迎えられていた夜7時過ぎの時間は、もしかしてもう二度と自分にはやってこないんじゃないかという気がしていた。