繁忙期を終えた今は、さして会社に残る理由もなく、まっすぐに家へと帰る。帰り際に横目で彼の姿を探すと、経理部の女の子と笑いあっていた。季節は春を終えようとしていた。


7時に自宅に帰ると夕御飯を食べる。少しでも食べないと、ガリガリのままだ。経理部の吉岡さんは、私なんかよりずっと女性らしい丸みのある体型で。夕食後眠るまでの時間は、美顔ローラーとマニキュアと、バストアップエクササイズの為の時間になった。
あの瞬間を迎えるまでは。


喫煙室へ向かう彼を呼び止めて、階段の踊り場へと誘い出す。左右を見渡して誰も居ない事を確認すると、一歩踏み出して、彼へと近寄った。
「どうして。」
どうして結婚するの。どうして今、結婚なんてするの。そう聞きたかった。私の恋は始まったばかりだったのに。
「どうしても何も。だって俺達付き合ってもないし。」
胸を空気砲で打ち抜かれた気分だった。握りこぶし大に開いた穴が胸に風を通して、息をするたびにスースーした。
彼はしきりに頭をかいていた。無造作ヘアにセットされたはずの髪が無造作に乱れていく。
「あのさ、もういいかな。俺、こんなとこ見られて、誰かになんやかや言われたくないんだよね。」
そうね。もし経理部の誰かさんに見られたら、事だもの。そう言いかけて、それでも声は出なかった。
私の返事を待たずにさっさと立ち去る彼の背中を見送る。ストライプのスーツのシルエットは、彼の美しいスタイルを際立たせていた。
残業が続いた後、改札での彼は、何回振り返っても私をずっと見送ってくれていた。それは、彼女に対してもそうだったのだろうか。目線を落とすと、自分の飾り気の無い胸が目に入る。もう少し、私に価値があったら。


営業部のフロアに戻ると、彼の左手に新しく光る銀色の指輪の上で、祝福の言葉と二人のなれそめのエピソード、ベビーベッドを譲り受ける約束等が、仕事の合間に行き交った。そこに居られない私は、パソコンの前で両手を動かしながら、入力している文書の中に隠れて息を潜めていた。


その日の晩、私はコンビニでハンバーグ弁当を買って帰った。ロールケーキとゼリーとティラミスも買って帰った。コーヒー牛乳とバナナ・オ・レも買って帰った。家へ着くと、自分の部屋に篭もり、一心不乱に食べ続けた。喉に詰まると、コーヒー牛乳で流し込んだ。ロールケーキを半分まで食べ終えると、嗚咽に詰まった。それでも食べ続けて、ティラミスまで押し込んだ時に、吐いた。吐いて、床に広がった物達が、さっきまで食べ物だったのに見る影もなく崩れて異臭を放っている。
肩を揺らして震えている、自分が泣いているのが悲しみのせいなのか、喉を通った胃液による痛みの為なのかが判らない。ただ頬を伝って、涙は流れ続けた。


翌朝目覚めた時、薄ぼんやりと白けた光の中で、すべての物から心を閉ざそうと決めた。そうする事で、自分を守れる。会社が終わると、ぱんぱんになったコンビニの袋を提げて帰った。
「渚ぁ、ご飯はぁ?」
という母の声に、
「買ってきたから、いい。」
とそのまま部屋への階段を上がる。鍵をかけて、温めてもらったハンバーグ弁当のフタを開けると、ほわんと立ち昇る香りに目が滲んだ。
大丈夫。そう呟くと、カロリーをオフしてないコーヒー牛乳の紙パックの口を開ける。ストローを差し込み、ひと口飲んで息をついた。それから、さあ。と食べるのに取りかかった。
食べても食べてもなかなか終わらないお弁当は、『お徳でボリューミー』が売りの商品だった。これを食べきれば何とかなる。きっと変われる。箸を握る手は、まだ節くれ立って細い。隙間が空いた胸の穴を埋めるように、食べ物を自分の中に詰め込んだ。
窓の外は風が強くて、さっきまでの小雨も大粒の雨に変わっていた。音のない部屋に、ばらばらと雨の音が響く。
木の枝にぶら下がっていたさなぎの、一本の糸が、ぷつ。と切れた。


変わりたい。変わらなきゃ。
手を休める暇も惜しんで、物を口に運んでは押し込む。
空っぽになった自分の中に、物を詰める事に必死だった。
チーズケーキバーと、シュークリームも食べ終えて、味なんて分からないままティラミスのカップに残る最後のひとさじを口の中に押し込むと、そのままベッドに倒れ込んだ。
きっと朝が来たら、劇的に変わっている。私はふっくらと可愛くなって、彼もきっと見直すはず。お腹を押さえて横になり、丸まった姿勢のまま私は眠りに落ちた。


窓の外では、さなぎが地面に落ちて転がっていた。木の枝と細く繋がれていた一本の糸は、千切れて風に吹かれていた。部屋の窓、カーテンの下からわずかにこぼれ出る光が、ふっくらとして横たわった黄緑色のさなぎの姿をぼんやりと照らし出していた。小雨に変わった雨は、優しく流れを作り、ゆっくり、ゆっくりと、動かないさなぎをどこかへと静かに運んでいった。

2011.5.16. 安堂まりー