授業が終わると、美加は机に両手を出してぐーっと伸びをした。両腕の間に挟んだ頭を、そのまま顔の向きだけを変えて話かけてくる。
「ねえねえ。これ、どうなるん?教えてぇー。」
指先はいつしか、さっき出題された問題が書き写されたノートを指していた。指先の爪が赤く長くて、ぎらぎらした飾りがいっぱい付いていた。
「もう、何言よるん?さっぱり分からんよ、あの先生。」
ぼやいている彼女は、昨日知り合ったばかりで。友達に誘われたコンパでちょっと話しただけだったのに、皆で店を出て輪になって話し込んでいる時に、俺の事をトシ君、トシ君と呼んでまとわり付いてきた。その膝から崩れ落ちそうな程の泥酔振りと、呼び名を聞いた時の、
「あたしの事は、ミカでいいよ。」
と言った軽さが、どうにも好きになれなかった。だから今日、英語の授業で顔を合わせた時も、冗談かと思ってたのに。
「えへへぇ、やっぱり。この授業、経営と合同だったもんね。」
そう言って、当然のように隣に座ってきたのを、断る理由もないままに一時間半の講義を受けて、今終わったところだったのだ。
俺は英語が得意だなんて、一言も言った覚えないぞ。そう思いながらも、問題を書き写した後、授業が終わるまでの間に解答も記入しておいたノートを開いたままで彼女の顔の近くまでスライドさせる。
「これ、見ときぃや。」
がばっと起き上がってノートを両手で掴むと、美加は目を点にした。
「おっほ。さっすが、経営学科は違うわあ。」
「同じ学校なんだから、そんな変らんやろ。」
「いや、違うよぉ。あたし、受験の時経営の偏差値見たもん。もー、冗談やないぐらい離れとったけんねー。」
人と話をする時、彼女は顔を寄せてくる。昨日出会った時は、酔っているせいかと思っていたけれど。特徴の無いのっぺりしている顔を化粧で色を付けてかさ増しし、それを通常の1.5倍近付けるもんだから、俺は思わず顔を背けた。彼女はそのまま目線を外さずに頬杖をついて俺を見詰めている。
「あたし、頭良い人、好み。ね、付き合お。」
びっくりして振り向いたら、びっくりする程美加の顔が近くにあった。長く作られた睫毛に目を奪われて、
「ああ、うん。」
と答えた。
大学の最寄り駅は、20分に1本電車がやってくる。ホームへの薄暗い階段を下りて、ぽつぽつと並んだベンチのひとつを二人で陣取った。
「あたし、敏君と同じ方面で良かったあ。こんな寒いのに、一人で待つなんて耐えれん。」
そう言って美加はぎゅーっと両手をコートのポケットに押し込んで前屈みになる。肩まで伸ばした黒髪が、ばさっと前に揺れた。二人で、山手町方面の電車を待つ。冬の日は3時を過ぎれば、日差しがあっても、あんまり暖かくはならなかった。隣に座った美加の化粧は相変わらず濃いままで、一週間経った今では、毎日よく出来るなと感心してしまう。商学科との合同授業は週一回の英語ぐらいで、その他に会うといったら昼飯を一緒に食ったり、帰る時間が揃ったら一緒に帰るぐらいのもんだった。毎晩10時に届くメールは、ごちゃごちゃと絵文字やらデコメールやらで飾り立てられていて、何を書いてるんだかさっぱり分からなかった。線路の白い柵の向こうでは、商店街の小さな薬局が安売りの札を付け替えているところで、俺は今日あった事を引っ切り無しに話す美加の声を聞き流しながら、遠くにあるその様子を眺めていた。
その内話も終わったのか静かになって、美加がそわそわし始めた。ベンチで隣に座ったまま、上半身を曲げたり起こしたりしている。
「ね、誰もいないね。」
「あ、うん。授業終わってからしばらく経つし、皆と時間帯ずれてんだろ。」
俺の答えを聞いているのかいないのか、今度は俺のコートのポケットに右手を突っ込んできた。指を交差させてぎゅっと握ってくる。膝同士が当たって、ベンチに座ったまま二人が向き合った形になった。彼女は顎を上げて顔を近付け、ぱたっと瞼を閉じた。
彼女の、濃く色付けされた瞼と唇は表情を閉じられ、つるんとした顔は白く塗られて、目を閉じた彼女は、ばさばさとした睫毛の他には何の特徴も無い顔になっていた。
少し首を傾けて、顔の側で目を閉じる、それが何のサインだか解った俺は、彼女の傾けた顔と反対の角度に顔を傾けて。
唇を重ねた。
「じゃあねえ。また明日―。」
ぷしゅう、という音と共に電車の扉が閉まる。先に下りた彼女を窓ガラス越しに見送ると、美加は手をいっぱいに伸ばして振ってみせた。しばらく小さくなる彼女を眺めて、再びガラガラの座席に腰を下ろす。これからファミレスでバイトだという彼女を、引き止める気も起こらなかった。
こんなもんか。と、思った。
(2/3に続く)