7時も過ぎると営業がひとり、またひとりとホワイトボードに明日の予定を書き込んでは帰って行く。
「お疲れー。」
「お先失礼しまっす。」
「渚ちゃんも、早く帰りなよ~。」
そんな声をかけては閉まっていくドアの音を遠くに聞いていた。




「なにあれ。そんな事言う資格、なくねぇ!?」

スーツ姿のイケメンが腹を立てている。ちゃんと、閉まったドアを確認してから。

「何言ってるの。仕方ないでしょ。」

「でも、小松さんが今やってるのって、あいつの後始末でしょ。ひどくねぇ?」

見積もりと売り上げの金額の相違。経理からの連絡で確認をとったら、担当営業と顧客と事務員間の伝達の不行き届きだと判明。それにまつわる事務処理の諸々が、今日の夕方になってまとめてこちらに回ってきたのだ。営業成績表の訂正と経理への報告、業務ソフトへの入力と明日の会議資料の再作成等、些細だけれど時間と手間は充分にかかる、しかもそれをやらなければ他の作業が先に進まないような仕事達が、夕方の4時を回って「ごめんごめん。」の電話と共にいきなり私の元へと飛び込んできたのだ。

「これは事務の仕事だから。」

仕方がない。他の人には頼めない。自分がやるしかない。そうは思っても、やり切れない。やり切れないから、考えないようにしていた事を、彼は簡単に口にする。

「小松さん、もっと怒った方がいいよ。このままじゃ、あいつもっとつけ上がるよ。」

「いいから。あの人は、前からああなの。」

お願いだから、もうこれ以上言わないで。画面に集中しようとしても、できない。次第にキーボードを叩く指先が震えてきた。

「でも・・・。」

「もう、いいから!いいの!そういうのは、いいのー・・・。」

叫んだ後、顔を覆ってデスクに突っ伏した私は、もう何も耳から聞こえて来ない事を願った。もういい、もうこれ以上、考えたくない。どうしようもない事に怒って、振り回されたくない。呼吸を整えながら、肩で息をする。目の前を真っ暗に閉ざそうとした私の、背中をそっと優しい手が撫でて、

「分かった、ごめん。」

そう言うと、彼はその場を離れた。





次に顔を上げると、宮沢君の姿はなかった。節電を謳われたフロアに、明々と電気が照らされている。
「消さなきゃ・・・。」
椅子から立ち上がると、自分のシマの上だけ蛍光灯が点くようにして、その他の列のスイッチを切った。席に戻ると、資料と向き合う。あと一時間でこの件だけ何とかけりを付けて、今日はもう帰ろう。はあ、と息をついてそう思った矢先、
「わっ、何?暗っ!」
大きな声と共に、ドアが開いた。
「宮沢君、帰ったんじゃなかったの?」
思わず立ち上がると、彼の手にコンビニの袋が見えた。
「帰れないでしょ。俺もまだ仕事あるし。」
困ったように笑うと、いつもの様にほかほかしたハンバーグ弁当を席まで持ってきてくれる。
「俺もここで食べようかな。暗いし。」
そう言って隣の席を陣取ると、彼はフタを開けて食べ始めた。私も仕方なしに渡されたお弁当に向かう。フタを開けると、ほわんと温かい白いお米の匂いがして涙が滲んだ。









笹の葉がさらさら揺れる季節に、私は失恋した。


「おめでとう。」「おめでとう。」
あちこちから投げかけられる祝福の言葉。灰色の壁と灰色のデスクによって四角く囲まれた営業部のフロアは、すらっと背の高い彼を中心に小さな輪を作った。さざめく拍手の波のなかで、彼は気恥ずかしそうに微笑む。茶色く染めた天然パーマのうねった髪と同じ様に、表情をくしゃ。と笑顔で歪めた。


私はパソコンに向き直り、画面を見詰める目を逸らさないように努めた。黙っていても手が震える。彼が何を言っているのか分からない。周りにいる人達の声も。ゆっくり、ゆっくり、吸って、吐いて。何事もなかったかの様に振舞う為に、細心の注意を払いながら、私は自分の殻の中に閉じ篭もった。

「で、いつなの?予定日は。」

「それが、来年の2月ぐらいなんっすよねえ。何用意したらいいすか。」

「お前、気が早えよ。でも、ベビーベッドとか家もう使わねえし、買うと高いからうちのやるよ。」

「おっ。さすが先輩、太っ腹。」

「5万でいいよ。」

「ぶほっ!それって店で買うより高いんじゃないっすかぁ~?」

「うるせえ。俺の可愛い娘が使ったんだから、プレミアもんだ。どうだ、欲しいだろ。」

そう言って斉藤先輩は、彼の肩に腕を回して髪をぐちゃぐちゃとかき回した。温かい笑い声に包まれた輪は、私から1,5m先のとても遠い所でいつまでも明るく賑わっていた。


私が彼を知ったのは、今年の1月。川越支店でも名高いエース、噂は以前から耳にしていた。“売り上げナンバーワンのイケメンがいるらしい。”それが本社に異動になった。若くして主任という肩書きを付けて。言わば“栄転というやつだ。彼が転入してきた当初、女子ロッカールームは相当な盛り上がりをみせた。
彼女はいるのかしら。独身らしいわよ。年齢は、身長は、学歴は。
いくら顔が良くても、そんな実利的な要素を彼女達は外さない。私はというと、そんな様子を横目で見ていた。制服のスカートに履き替えてグレーのベストを着用するまでの間しか、そんな情報聞く必要もないと思っていた。実際にそうだった。それから2ヶ月が過ぎるまでは。


3月に入ると繁忙期も大詰めを迎え、年度末の事務処理と相まって定時に帰る事が難しくなった。
「困ります。そんな事じゃ。」
担当営業の不備と丸投げの処理の為に、終日客か営業のどちらかと通話し、6時が回った後でやっと自分の担当する事務処理にかかるので、早くとも退社が10時は過ぎる毎日が続いた。
3年先に入った女性の先輩が「残業なんて、出来ませぇん。」と言いながらさっさと6時にタイムカードを押して帰る事も、ガラス張りの喫煙ルームの向こうで私が“困りちゃん”と呼ばれている事も知っていた。それでも、投げ出したくなかった。背中まで伸ばした真っ直ぐな黒髪を、焦げ茶のシュシュで結び直してパソコンに向かう。
「さあ、こっからが私の仕事時間の始まりよ。」そう6時に思う事が多くなった。

ひょろっとした細い指が、かたかたとキーボードを叩く。受信が留守電に切り替わった会社の電話は、もう私の指を止めることは無い。
「飯、行かないんすか?」
ふいに声がして、その宛てが私であることに気付く。こちらを向いて動かない影に目線を上げると、スリムスーツのとてもよく似合う締まった身体の青年が立っていた。
「え、ああ。うん。もう、これやったら終わりだから。」
そう言って、目線を5cmの厚みのファイルに移す。
「んな事言って、いつも帰るの10時じゃないすか。そんなんじゃ身体持ちませんよ?」
残業する為の夕食なんて、食べたくない、食べる必要がないと思っていた。そんな事してる暇があったら、さっさと仕事を片付けて帰りたい。しかし、家に着くと食べる気力もなくそのままベッドに倒れ込むことも事実だった。
「俺、これからコンビニ行くんで、よかったら何か買ってきますけど。」
「そうね。お願い。何か、適当な物でいいから。」


閉まるドアを見送ると、側にある彼の席が目に入った。異動して来たエースのデスクには、引継ぎ客と新規客からのFAXが山積みになっている。近寄って眺めると、時系列なんかも、枚数までもがごちゃごちゃのままで、無造作に積み上げられていた。そう言えば1課の事務を担当する原口先輩は割りと大雑把なところがあって、付き合いやすいのだがこういう細かい所にまでは気を配れないタイプだった。いつも自分が担当する部署以外は気にしていないだけに、わんさと山積みになっているFAXにうわっとなった。

これぐらいしてあげても、いいかな。そう思って、枚数を揃えてクリップで留めて、着信順に並べて机の上に並べ直した。至急の物は、蛍光ピンクの付箋を貼って手前に置く。

代わりにご飯を買ってきてくれてるし。これで、おあいこね。

そんな簡単な気分だった。


しばらくして戻って来た彼からハンバーグ弁当を受け取り、550円を支払うとお互いのデスクに着いた。やっぱり箸を割ったほうがいいのか、それとも改めてキーボードに向かうのかを決めあぐねていると、
「うわぁ。綺麗に片付いてるぅ。」
素っ頓狂な声が、向こうのシマのデスクから飛んできた。
「まとめて揃えただけよ。」
彼が何に驚いているのかが判った私は、素っ気無く返した。片付いてるわけじゃない。これから取りかかるのに、やり易い方がいいと思ったから・・・。
「ありがとぅございまっす。」
冗談のつもりか、半泣きのような笑顔をこちらへと向ける。不覚にも、可愛いな。と思ってしまった。
あわてて目を逸らし、べっ甲色の眼鏡を押し上げる。
「そういうの、いいから。それと、二人の時は無理して敬語使わなくていいから。どうせいっこ違うだけなんだし。」
そう言って、無理矢理キーボードを叩く。意味の無い言葉をでたらめに打って、仕事をしている振りを装った。彼が届けてくれたハンバーグ弁当が、私のデスク左脇にほかほかと座っていた。





ドアの向こうで、ママの声が聞こえる。僕は玄関口まで走って行った。

がちゃりとドアが開く。口を開けて待っていると、ママの後ろにもう一人、人影が見えた。

「おじゃましまーっす。」

そう言って少し屈みながら入ってくる、誰だかわからないお姉さん。予想していない人物の登場に足踏みしていると、色とりどりのミュールがジグザグに敷き詰められた玄関に、もう一足ヒールが加わった。

「あ、こいつが前行ってた冨田(トミタ)っすね。ちゅーす!!冨田、チューッス!」

顔に指を向けてどかどかと近づいてくるもんだから、いったんママの後ろに避難した。すると、

「なに~。なんだよ、愛想悪いなあー、可愛くねえ。ちょっとアヤカさん、なんとか言ってやって下さいよー。」

「あははぁ。ごめんね、()()()。冨田、あたしに似て、面食いなの。」

「かってぃーん。何すかそれ。まあ、(アヤ)()さんが面食いなのは認めますけどねー。」

お姉さんはがさがさと音をたててコンビニ袋を運び、リビングのテーブルに乗せた。ソファの前でしゃがむと、再びこちらを向き、今度は手の平でちょいちょいと僕をこまねいた。その指の動きが気になって、寄って行って手の平に顔を近付ける。指に鼻が付きそうになった瞬間、

「よし来たー。冨田、来たー。よしよーし。」

お腹から抱え上げられて、わしゃわしゃと撫でられた。目をぎゅっと瞑っていると、お姉さんは僕を抱き上げたまま床にあぐらをかいて、足の上に乗せた。冷蔵庫の前のママに話しかける。

「そーいやアヤカさん、昨日の“店に女登場”の事件、大丈夫だったんすか。」

「それよ!それそれ。しょーがないから、店の裏まで行ったわよ。(きったな)い、瓶ケースとダンボールと生ゴミに囲まれてさ。」

言いながら、ママがレジ袋の中からビールと缶チューハイを取り出す。由希恵はスーパードライを受け取ると、

「それで、話し合ったんすか。」

ぷしっ。缶を開けて口をつける。

「何を言うかと思えば、彼と別れて下さい。だってさ。」

ママも、缶チューハイのレモンを開けた。

「二ヶ月も付き合ったのに、あたしの方が浮気だったのよ。信じられる!?」

「いや、信じますけど。」

「うるさい。ばかー!!」

ママが由希恵の頭に手を伸ばすと、そのまま覆いかぶさってきた。三人でもみくちゃになりながら床の上を転がる。僕は楽しくなって由希恵の肩にかぶりついた。ママに引き剥がされて、胸の上に抱き上げられる。

光輝(コウキ)のばか。幸せにするよって、言ったのにー。」

僕を抱っこしたまま仰向けになると、ママは天井に向かって叫んだ。オレンジ色の照明が、暖かく辺りを照らしていた。




テーブルに、半分になった三本目の缶チューハイを置いて、ママがぼやく。

「キャバ嬢に、純な出会いなんてないのよー!!」

「ありますよ~。綾香さんみたいに、顔にさえこだわらなければ。」

38歳の薄ぱげ部長を捕まえた由希恵は、偉そうに言う。缶越しに由希恵を伺い見ながら、綾香は思い出していた。元うちの客だった彼の事は、私もテーブルに着いたことがあるから知っている。背の低い小太りの男で、金払いと笑顔は確かに良かったものの、ぷっくりした顔の上に乗った小さな目は離れていて、ちょっと見パグ犬みたいだ。由希恵は顔にこだわらなさすぎだろう、と綾香は感じる。

「あんなおっさんの、どこがいいのよ。17歳も年上でしょ。おっさんよ、おっさん。」

「それはそれで、気ィ使ってくれるから、楽なんすよ。何やっても、若いからいいねえー、で済んじゃうし。」

綾香は、差し向かいで飲んだくれている後輩に視線を投げた。だぽだぽのサロペットを弛ませながら、背中を曲げて缶ビールを飲んでいる由希恵は、当の本人がどう見てもおっさんだ。薄手のスカートで脚を出して、こんな時でも女を忘れないあたしの方が、絶対に女らしい。なのに、何故あたしの方が男運がないのか。綾香はどうしても納得がいかなかった。

「いやでも、今日はビビリましたけどね。だって、鼻にガーゼ貼ったまま出勤するキャバ嬢、いないっすよ。」

「だって、当日欠勤は罰金取られるのよー!冗談じゃないわ。」

「まあ、そりゃそうですけど。今晩もこんな飲んじゃって、大丈夫なんすか。鼻から、ぴょっ。と血ィなんか出ないっすか?出ても介抱しませんからねー。」

「分かってるわよ。大丈夫よ、・・・多分。」

言いながら、缶に口をつける。ぐっ、ぐっと傾けると缶チューハイが三分の一に減った。

「でも、あれっすね。ホストクラブ行っても、良い事ないっすね。」

「本当よー。きれい可愛い愛してるーなんて、目一杯ちやほやしてくれるけど、結局いい男は誰か他の人のもんだし。」

「綾香さんも、あれっすよ。そろそろ行くの、止めた方が良いっすよー?」

よく店に通って来ていた自分の客と一ヶ月前に付き合いだしてから、めっきり男遊びがなくなった後輩にたしなめられると、綾香もそういうもんなのかなと感じる。指に光る銀色を蛍光灯にかざすと、石が鈍く光った。三ヶ月前に、自分で買った物だった。

「稼いでも、八割それに持ってかれちゃいますからね。それよりは自分に使った方がよくないすか。」

何回も、何回も自分の頭の中で繰り返した言葉が、他人の声で耳から入ってくる。

「そうね、そうなのよね。」

休日の丸一日分の食費と外出費を控えて切り詰めて、翌朝倒れそうになっても。あの夜のきらきらの中で、音の洪水ときれいな顔の男達と有り余る酒たちに囲まれて、一瞬じゅわっと脳が融ける様な感触を、どうしても手放せなかった。

頭で解っているはずなのに、心が言うことを聞かない。身体はそれに引っ張られて、火曜日の晩は毎週あの店に向かってしまうのだった。




「カレと別れて下さい。カレは私と付き合ってるんです。」

「は?どの彼?」

思わずそう答えてしまった。昨日の店内での出来事を思う。緩やかに流れる肩まで伸びた髪、上品なライトグリーンのカーディガンと胸元にパールの飾り。クリーム色のタイトスカートの下にはヌーディベージュのストッキングと、真っ白いパンプス。なにこれ。まるで“お嬢様”じゃない。そういった印象の女とは、まるでご縁がなかったので、私とどんな接点があるのか一瞬判断がつかなかった。なんでもハイハイ言う事をききそうな、おとなしそうな女の子が店まで乗り込んできては「彼と別れて下さい。」という。そんなドラマみたいなシチュエーションの中の、相手役を自分がやらされるとは思ってもみなかった。訳が分からずに通路で突っ立っていると、慌てて黒服が寄ってきて、二人とも店の奥まで押しやられた。

「彼は、光輝です。私達、同棲もしてます。最近、休みの日も仕事だって言って出かけるようになって、おかしいなって思ってたんです。」

「コウキ・・・あたしと付き合ってるけど。」

女の言ってることが理解できずに、もそりと呟くと、女は綾香の目を睨んで、白いきれいな顔をゆがめた。

「私達、付き合って2年半も経ってる。ぽっと出の貴女とは違う。」

女が声を上げて泣き出したので、黒服はさらに私たちを押しやり、店の裏まで追い出してしまった。もやっとした暗がりの中で、つんとした悪臭が迫って来る。

こんな所に長居はしたくない。瞬間、そう思った。でなければ、なんであんなに苦労して、毎晩親父たちのご機嫌をとって、稼いだ分の七割を衣装と美容院代に使ってまでしてここで働いているのか、意味がなくなってしまう。私は綺麗な世界で生きたいんだ。早いとこ済ませて、またあのキラキラしたフロアに戻らなければいけない。そう思って、使う言葉は最終兵器を選んだ。

「あんたにはどう言ったか分かんないけどさあ。光輝はあたしの事好きって言ってたし。もう付き合って2年も経ってるんなら、あんたに飽きてそろそろ別れるつもりなんじゃないの?見たところつまんなそうだし。おとなしいだけのお上品な女より、一緒に遊んでて楽しいあたしの方を、好きになったって事でしょ。それって普通じゃない。あんたの方こそ諦めたら?」

たっぷりと厭味を含ませて、敵にぶつける。女社会に生きる者として、こんなケンカはお手の物だ。てっきりお嬢様らしく、シクシクと泣いて帰るんだろうと決めてかかって、ふっと笑って相手を眺めた。すると次の瞬間、女はかっと目を見開いて掴みかかってきた。

「許せない!」

このまろやかなライトグリーンのカーディガンの、どっからそんなファイトが湧いてくるのか、初めに見せたしっとりとした表情なんて微塵も感じさせずに向ってくる。指は爪をたてて髪を狙っていた。

「え、ちょ、何。やめてよ。」

戸惑いながらも応戦する。が、髪の毛を掴まれてしまった。引っ張られて、解こうとして、身体を引いて顔を左右に振ると、彼女の整えられた指先を飾るピンクの透き通ったネイルアートの先端が私の鼻先に引っかかった。

目を瞑り、髪を掴みあい、引っ張り合って喚き散らす。「なにすんのよ!」「やめてよ!」「あなたが」「あなたさえいなきゃ」そんな、意味の無いやり取りを繰り返して、どのぐらい経っただろう。ふとこちらに目線を向けた後、彼女は途端におとなしくなり、二、三歩後ずさりして何も言わずにそのまま立ち去ってしまった。私の方はというと、応戦一方だったので、相手の攻撃がなくなるとする事をなくし、両の手を下にだらんと下ろしたままその場に突っ立っていた。賑やかなはずの繁華街の隙間で、もやもやと生温かい空気の中で、初めに感じた悪臭は悪臭のまま、私だけを包んでいた。

よろよろとフロアに戻ろうとすると、慌てた黒服に更衣室まで引っ張ってこられた。鏡を見ると、ひどい顔だった。取れた付け睫毛、伸びたアイライン、頬まで広がった赤い口紅、鼻からは、一筋の血を流している。さっきのあれだ、ネイルアート。おそらく引っかかって皮膚の表面が切れたのだろう。「もうその顔では仕事は出来ないから。」黒服に帰れと言われた。あの女はいきなり現れて、私の男の上に仕事まで奪うのか、そう思うと腹立たしかった。上がってしまったテンションのやり場は、もう彼しか思いつかなかった。月曜日は、いつも早番だから、11時には終わる。そこを狙って会いに行くしかない。そう決めると、鏡に向かって適当に化粧を直し、ロッカーのバッグを引っ掴んでコンビニに向かった。ぴーん、ぽーん。間延びしたチャイムを背中で聞きながら、ばさりと雑誌を広げると、星占いの記事。今月も射手座の恋愛運は最高だった。

「へえ、射手座なんだ。じゃあ俺、水瓶座だから綾香ちゃんと絶対相性いいって。知ってる?水瓶座って、神様に酒を注ぐ美少年の星座なんだぜ。わーお、俺にぴったりー。」

あははあ。テーブルを囲む笑い声とシャンパン。光輝の切れ長の瞳が私に笑いかける。ふかふかのソファでグラスに手を添えられて、なみなみと注がれたゴールドの液体は、泡をつくっては弾けて消える。嘘のように綺麗な世界を、そのまま現実まで持って来れたと思っていたのに。




10時過ぎにコンビニを出て、彼の店に向かう。逃げられると嫌だったので、連絡はしなかった。この時間だと、客引きの男の子たちもいなくなっているのが都合が良かった。階段脇の壁に、隠れるようにもたれて彼を待った。立ち読みした雑誌の占いは、どれも「射手座:恋愛運;良好」だった。“思っている事がスムーズに伝わるかも。”

誰の?彼の?違う、彼女のかも。苦笑していると、自分が情けなくなってきた。そうしている内にカツン、カツンと男の靴音が階段を上ってくる。残りの二段になったところで近付いて、

「お疲れ。」

と声をかけた。




深夜のファミレスで、コーヒーを並べて二人で黙っている。「少し聞きたい事があるの。」と言ってここまで連れ出した。それから、上品そうな女が店に来たこと、女が「私は光輝と付き合っています。」と言ったこと。別れる別れないで、店の裏で揉み合いになったことを話した。

さあ、どうするって言うの。彼の言葉が聞きたくて口を閉じた。黙って彼をじっと伺う。綺麗な顔をしている。細い眉と、白い肌と、長い睫毛。シャンパンを飲む時の、彼の唇が好きだった。一緒に店を出て、肩を抱かれて、その唇が重なった後から、私は彼の彼女になった。そう思っていた。

しばらくの沈黙の後、コーヒーの湯気の向こうで彼がつぶやいた。

「ごめん。」

「ごめんって、ごめんって、どういうこと。その女と別れて、あたしのところへ来てよ。」

「だから、ごめん・・・。」

「ごめんって、どういう事よ!!あたし、そんな事聞きたくない。謝るぐらいなら、初めっから「好き」とか言わないでよ。馬鹿あ。」

彼女は金持ちなの?上品だからなの?それとも、もう一緒に暮らしてるから?毎日の生活が、そこにはあるからなの?今更引っ越すのが面倒だから?付き合いが長いから?一緒にいると楽だから?ごはんも作ってくれるから?

そんなの、私でもできる。私だってできるし、やってあげる。上品な金持ちではないけど、その分お金も稼ぐし、尽くす女になる。私の事、愛してるんでしょう?愛してるって言ったじゃない。だったら愛してよ。嘘つき、うそつき!!

わーっと沸きあがった思いを、大声で叫んでぶつけようと思った。詰め寄って、シャツを掴んで、しがみ付いて、泣いて、怒って。

コンビニの雑誌を開いた手が、握り締めたせいで皺になるところだった。立ち読みで小一時間つぶしたところで、怒りは治まらなかった。急いではなかったのに、コンビニを出た後は早足で彼の店に向かった。彼が店から出てくるのを待つ40分の間に、同じ疑問ばかりを心で繰り返した。

心の中で湧いたそれは、ひとつ、ひとつ、繰り返し自分に向って来る。それらは時間が過ぎるにつれ、ふつふつと気泡を発して、はじけていく。一人で待つ暗闇と時間の中で、私にだってできるはずの、その中のどれもが、彼女にだって出来るのだ。という正解に達してしまった。

きれいに頭の中にひろがった金色の夢は、ひとつの現実が倒れただけで、がしゃんと崩れた。

「彼女を手放せない。君とは遊びのつもりだった。」

予想がつく答え。彼の口からは一番聞きたくないと思った。耳をふさぐように両手で顔を覆って、何も言わずに、何も聞かずに、それから20分が経過した。三回目に水を持った店員が脇を通り過ぎた時、彼は黙って席を立ち上がった。レシートと財布だけを持って、飲んでいない冷えたブラックコーヒーを残したまま。







部屋の隅に転がったバッグの匂いを嗅いでいる仔犬を、由希恵は引き寄せた。

「まじでコイツ、足短いっすねー。」

冨田の足を握ると、握りこぶし一個分の長さの足は爪先が見えない。

「あ、でも顔はいいのか。目ぇ、くりっくりしてますよー。もしかして顔で選びました?」

仔犬の顔を両手で挟み込み、がしがしとなでると、大きい目はぎゅっと閉じられて、耳がぷるんと回った。

「違うわよ。でもいい男でしょ。やぁっぱり、私はいい男とくっつく運命なのねえ。」

綾香が冨田を抱き上げて、顔を寄せた。

「この子、8万円で買えちゃうのよ。一晩あいつの店に行くより安いの。嘘みたい。」

んー、とママが鼻を近づけてぷるぷると左右にふる。僕はべろんとママの鼻をなめた。

「初めてこの子に会った時、抱っこして水をやったのよね。こうやって、哺乳瓶をやってさ。」

ママは僕を膝の上でひっくり返すとお腹をなでた。

「この子、こうやってアタシを見上げては、目を剥いて、がつがつ飲んでたの。」

綾香が指を差し出すと、富田はそれを、かぷりとくわえた。

「水よ。ただの水なのにさ。必死で飲んでたの。」

「はあ。」

由希恵は、その言葉の意図が分からなくて曖昧に頷く。

「それを見た時、アタシ、がつがつ生きたい!!って、思ったのよねぇ。」

綾香が冨田を床に降ろすと、由希恵の手が伸びてきて茶色い背中をなでた。

「そーいや、こいつ買ったの3ヶ月前でしたっけ。その前の彼と別れた直後ですね。」

「るさぃ。そんな事はいいのー。しばらくは、男はいいの。今回の失恋も、冨田が癒してくれるわ。」

ママの膝をくんくん嗅いでたら、お腹をつかんでもう一度抱き上げられた。嬉しくなって、べろべろとママの顔を舐める。

「稼いでやる。がつがつ働いて、がんばって稼いで、男も服も指輪も褒め言葉も愛も。高い酒だってなんだって買えるようになってやるー!!」

「あははあ。いいですねー。それはいいですけど綾香さん、それにはまず遅刻グセを直さないといけないですよねー。」

「それはあんたもでしょお。」

由希恵の頭をこづくと、二人でけらけらと笑う。

「もう光輝は来ないのよ。」ひいーん、と掠れる声で泣きながら茶色のグラスを傾けていた昨日のママが、今日は笑顔ではしゃいでいる。僕はママの顔に黒い鼻をくんくんと近付けた。

僕もう、光輝に会えなくてもいいよ。深夜の散歩も、水曜日のお出かけも、晴れた日の公園のキャッチボールも、楽しかったけどもういらない。昨日の塩水くさかったママの顔が、今夜は笑顔でゆがんでいる。僕は嬉しくて、もう一回ママの頬をべろん、と舐めた。





                             2010.8.20. 安堂まりー