僕の名前はトミタ。ママが、そう決めた。初めてママが、あのガラスのドアを押してお店に入ってきた時、みかん色のお花みたいなスカートがひらひらと右へ左へ揺れるのを、僕は口を開けて見惚れていたんだ。
顔の割に大きすぎる耳をくるんと回し、でっかい目をおおきく開きながらママを見る。それに気付いたママは、わしわしと頭をなでて、再び缶チューハイに口を付けた。
あの日もでろんでろんに酔っ払っていたママは、狭い通路をふらふらと両サイドに並ぶのショウケースに手を着きながら進み、店の奥へと歩いていった。酔ったままの勢いで、テンチョウさんに喚く。
「店長お。雄の犬、ちょうだい。あたし、男の犬が欲しいの。」
「雄の犬っつったって、姉ちゃん。ここにいる犬のうちの、半分が雄だよ。どんな犬がいいの。」
丸顔のまん中に乗った小さな丸眼鏡を指で押し上げながら、小柄な男は深夜にありがちな酔っ払い客を、またかと思いながらも応対する。
「どうもこうも・・・・、言う事きくやつに決まってるでしょお。犬って、そういうもんでしょお。」
カウンターに両手をべったりと着いて、がしがしと揺らす。店内の明るすぎるライトに、乱れた長い髪がきらめいた。
「ああ、わかったわかった。言う事きくやつね。それじゃあ、おとなしいのがいいのかなー。」
よれよれの姿に回らない舌で絡んで来る女性客なんて、毎度のことだ。繁華街の深夜に営業するペットショップなんて、ほとんどがそういった客を目当てに商売していると言ってもいい。このお客さんも、上手くいけば酔った勢いで仔犬の一匹や二匹ぐらい買って帰るんじゃないのかねえ。心に湧き出る商売っ気をうまく眼鏡の奥に隠して店長が陽気な調子で答えていると、そのまま客はわっと両手で顔を押さえて屈みこんでしまった。
「あたし、犬がいいの。もう人間の男は嫌!犬みたいに従順な男がいいのよお。もっと、私だけを愛してくれるような・・・。」
急に泣き出した“姉ちゃん”に、店長は慌ててカウンターを回りこみ一緒にしゃがんだ。背中をさすって、ため息を吐くような声でたしなめる。
「分ーかった、わかった。大丈夫だ。お前さんを待ってる男ならごまんと居るよう~。ほら、見てみな。ショウケースの右上に、紙が貼ってあるだろ。そこに青色でオスのマークが書いてある、そいつが雄だよ。」
売る程ある、まさにそういった状態を映した様に、通路の両脇にびっしりとショウケースが並ぶ。右上に貼ってある紙の枚数は、半分はピンクで、半分は水色をしていた。店長は彼女の顔を上げさせて、ひとつのショウケースに指をさす。
「ちょうど、こっち向いてるあいつなんかも雄だよ。立派な雄犬だ。こっち来て2ヶ月になる。ためしに水でもやってみるか。」
姉ちゃんが、ばさばさの頭をゆっくりと動かして、こっちを見た。とろんとした涙目に僕は足踏みして、わん。と吠えた。
姉ちゃんは、その後もずっと僕を見詰めている。僕は、ガラスケースに手を着いて黒い鼻を寄せた。
「ほら、寄って来てる。見なよ、あんたの事が好きみたいだ。コーギーって言うんだ。ウエルッシュ・コーギー。TVなんかで見たことあるだろ。よく懐くよぉ~。短足でちょっとデブだが、いい顔してるだろ。男としては最高だ。ちょっと待ってな。」
背中をぽんぽんと叩いてそう言い残すと、店長は店の裏まで引っ込んでしまった。指さされた雄のコーギーは、大きいアンテナの様な耳を広げて、姉ちゃんの方へと向ける。女は地べたに座り込んだまま、それと黙って見詰め合っていた。蛍光灯の白さが、深夜の暗闇を嘘のように隠していた。
「コーギー・・・・・・・・・・・、冨田。」
「?」
彼女がぽつりと呟いた、初めて聞く言葉に仔犬が首をかしげる。・・・真っ白い時間が二人の間を流れた。
「ああ、あったあった。これだ。これだ~よ~。」
しばらくして、その空白に割って入るように店長が小走りで哺乳瓶を持って戻ってきた。中にはたっぷりと水が入っている。
前に、隣の部屋にいた白いふわふわの女の子が、お客さんに水を飲ませてもらった後、そのまま貰われていった。その夜店を閉めた後、店長さんが僕に言ったんだ。ああやって客を落とすんだぞ、って。「お前もこっちに来て二ヶ月だろ。大特価になる前に、さっさと客を落とせるようになれよ。」意味は分からなかったけれど、僕は黒い鼻を上に向けて“わん。”と答えた。
姉ちゃんに哺乳瓶を渡すと、店長さんが今度は部屋の裏へ回り込み、ガラスケースの扉を開けて僕を連れ出した。店長の手から、前足をぴんと揃えた子犬が女の腕の中に預けられる。
「ほら。やってみな。ほい。」
店長は彼女の隣にしゃがみ込み、彼女の手の中に納まっている小振りの哺乳瓶をつついて促した。
姉ちゃんは手の中のボトルを眺めた後、ゆっくりと僕に顔を向けた。僕は仰向けの状態で、天井と人の形の影とまぶしい光しか見えない景色に、目をぱちくりとさせる。しばらくして、哺乳瓶の口が顔の前に近付いてきた。鼻先の黄色に、僕はぱくりと噛み付いた。
口を動かすと、水がどんどん出てきた。吸うと、もっと出てきた。僕は夢中になって、ボトルに齧り付いた。不安定に揺れる瓶がまどろっこしくて、両足をかいて瓶を支える。目を上げると、ねえちゃんと目が合った。姉ちゃんは、膝の上でひっくり返った僕を、目をそらさずに見ている。
腕の中の仔犬は、がふがふと口の中を動かして、左足をもたつかせながら哺乳瓶を支えている。上を向いた目はぎょろりとして、お腹はどくどくとリズムをとって揺れていた。腕の中で波打つ温かな生命を感じながら、彼女は呟いた。
「この子、必死だわ。」
「そうだよ。生き物は、食べるのにいつも必死だ。」
「ただの水なのに。」
透明な水は、手に握った瓶の中から仔犬の口へとどんどん吸い込まれていく。ただの水が、仔犬の身体の中で命に変わる瞬間。水が、命のある所へ流れて行く。手の中の哺乳瓶にほとんど重みを感じなくなった時、女はゆっくりと店長に顔を向けて、言葉を放った。
「店長、あたし、この子買うわ。この子にする。」
僕はその日から、ママの家の子になった。









