桶をかえして水盤に水を張ると、さっきまでとげとげして身を光らせていた剣山がその身を透明な水の中に潜めてしまった。
「この年になっても彼氏ひとりもおらんちゅうて。」
彼氏が。出来そうだった時の事を思い出す。それは初めてのデートの時、中三の夏前だった。日曜の十時に待ち合わせをした。なかなか服が決まらなくて、ギリギリで家を出て、待ち合わせ場所まで腕時計を見ながら走って向かった。2分前に着いて、まだ彼は着いていなくて。あわてて呼吸を整えて、髪を手で直した。二人で映画を見たけど、タイトルも内容も覚えてない。確か邦画の、当時話題になっていたラブストーリーだったと思う。
見終わった後ソフトクリームを買って、アーケードを並んで歩いた。映画の話でひとしきり笑って、それから少しの沈黙がやって来た。右隣を黙って歩く彼が、ちらちらと下の方を横目で見るので、私は右手に持っていたソフトクリームを黙って左手に持ち替えた。
腕を下ろして歩いていると、彼の指先が近付いて、右手の先に触れる。初めはすぐにほどけて、二回目にやっと繋ぎ直した。
手の平まで届かない、二人の浅い繋がりを恋しく思って、私も握り返した。
そのままアーケードを抜けるまで、黙って二人で歩いた。それ以上、近づくことも、離れることもない、指先だけの繋がり。ソフトクリームがつう、と流れて雫が下に落ちた。
突然、背後から破裂するような声が二人を襲った。
「あんったは!!ふしだらな!なにやってんの!」
振り返ると、買い物袋を下げた母がこっちを睨んでいた。
「そんな事する為に小遣いやってるんじゃないよ!こっちへ来な!」
腕を無理矢理掴んで自分の方へ引き寄せる。
「この、この。」と言いながら、私の頭を何回も叩いた。右肩にトートバッグをかけて、もう片方の手でソフトクリームを持っていた私は、人の多い商店街でされるがままになっていた。
「あんたは!本当に!恥ずかしい!こんな所で。」
そう言っては、私の頭をぶつ。何回も、何回も鏡を見て結び直した水色の髪留めゴムがほどけてゆく。私は彼の視線を背後に感じながら、早く彼がこの場から立ち去ってくれるようにと祈った。
「ほら、行くよ!!」
ぐっともう一度腕を掴まれた拍子に、それまで必死で守っていた左手の溶けかけのソフトクリームが、弧を描いてアーケードの床にべちゃりと落ちた。
それが、私にとって最後のデートの日だった。
「彼氏がいなくて恥ずかしい。」
花風呂敷の上のコスモスを手に取って、一本ずつ挿していく。あの日から私は、一年ずつ正確に年をとった。
なんで?
障子の細い脇を縫って西日が部屋に訪れる。ささくれた畳が照り返す光を放っていた。
なんで?なんで責められなきゃいけないの!あの日は、男と一緒にいるのが何より恥ずかしいって、母さん怒ったじゃない!「学生は勉強だけしてな!」って。
私は良い子だった。母さんの言うことを、ずっと守っていた。ずっとずっと、いい子だっただけなのに!!何で今、正反対の事で母さんに責められなきゃいけないの。
はたはたと零れる涙は、水盤に波紋を起こしては透明に溶けて消えてゆく。
花風呂敷に手を伸ばし、手に触れる物から次々と花を挿す。ひとつの剣山に対して多すぎる花の数は、いつひっくり返ってもおかしくないぐらいたわんでいた。
次の花を手に取ろうとした指が花風呂敷をかすめる。そこに大量に乗せられていた花も草も、気付けば全部無くなってしまった。行き場のなくなった手を膝の、スカートの花柄の上に戻した。指先で空を摘まんでいると、初めて花を剣山に挿した時に覚えた感触。丁度、ケーキにろうそくを挿す感じを思い出した。
「はっぴばーすでーい、とぅーゆー・・・・・。」
一つの剣山に無数に立てられ、西日を受けて項垂れたコスモス達をぼんやりと眺めながら、そう呟いた。
日曜日のばたばたした朝に、私の脇で帯の端を持ちながら母がぼやいている。
「見合い相手の写真も寄越さないなんて、そんな事あるもんかいね。」
「いいわよ、私面食いじゃないし。」
「それにしてもシゲちゃん、手え抜き過ぎとちがうんやろか。いくら十回もお見合い上手くいかんかったからゆうて・・・。」
私は、聞かなかった振りをして帯の端を受け取り、ぐっと締めた。まだ振袖は着られる。着られる内に、着ておくのだ。
「二十歳の女の子には、すこしおばさん臭いんじゃないかしら。」
買うことを決めた時、そう店員さんに困るように言われたくすんだピンクの振袖も、すっかり似合う年頃になってしまったことに苦笑する。成人式の日から九年も経ち、それなのに自分がまだ振袖を切らずにいられる事にも。
「じゃあ、行って来るから。」
「本当に、あんたひとりで大丈夫?もし変な人やったらまっすぐ帰ってきなよ。」
「大丈夫よ。シゲちゃんもいるし。今まで十回も紹介してくれた中で、変なひとなんていなかったじゃない。」
その、ちゃんとした人たちを、大した理由も言わずにばたばたと切り捨ててきた私が言う。
「それじゃあ、行ってきます。」
鞄を片手に持ち、玄関の扉を閉めた。