あなたとの思い出は、あったようで無かったようなもんでしたね。とても無口な人でしたから。あなたが、息子の事で大事な時も、何もちっとも相談に乗ってくれないので、私が喚き散らしたことがありましたっけね。あなたはしばらくそこで聞いたような振りをしていると、ぷいっとそのままどこかへ出かけてしまって。私は口惜しくて、その場で泣き崩れたように思います。
座敷に座って、外を眺めていると、孫が膝の上に乗ってきた。
「こら、おばあちゃまは、今疲れているのよ。あんまり騒いじゃいけません。」
黒い服を着た息子の嫁が、孫の手を引っ張る。
「どうもすいません。今、お義父様の事を考えてらしたの。」
「ええ、まあ。」
少し会釈をして、再び想いに耽ると、まるであの日が昨日の事のように蘇ってくるのでした。
あの大変な喧嘩の後で、あなたが何も言わずに、帰って来た。出かけた頃のまま、居間に一人で座っている私の元にやって来て、あなたは片手に提げている袋を置いた。
「ん。」
ごめん。も、悪かった。も何も言わずに、ただ、そこに白いビニール袋を置いた。私がその袋を見詰めていると、あなたはそのまま、又ふいっと部屋を出て行ってしまった。袋を開けると、中には草餅が入っていました。
あなたが私に何か物を買ってくれたのは、後にも先にも、あの日だけでしたね。透明なプラスチックの入れ物の中には、青々とした蓬の色をそのまま映した草餅が四つ並んでいました。
私はあの日から、あなたに怒るのを止めた。あなたはとても不器用な人だと気付いたから。
五月になると私は、江戸川の土手によもぎを取りに行かされた頃の事を思い出します。六人兄弟の内で、私が一番小さかったから、いつも使いに走らされた。あなたは私が柴又の出身だから、草餅が好きだと思ったのかも知れませんね。雨が上がって緩んだ土の中で、手足を泥だらけにしながらも、よもぎが籠いっぱいになるまで家に帰らせてくれなかった。今でも蓬を食べると、草を食む思いが致します。
「ご遺族の方は、こちらへ。」
煙突が白い煙を吐くこの建物に入ると、顔の部分だけ棺の扉が開かれ、花に囲まれたあなたが眠っているのが見えました。日に焼けた黒い肌にいくつもの皺が刻まれているのを眺めると、あなたと過ごした長い年月の事を思います。とても穏やかな表情で、あなたは笑っていたのでしょうか。笑顔はこのかた見せてくれたことがなかったので、しみじみと落ち着いて見るその表情は、亡くなって尚新鮮に感じます。そんな驚きの中、あなたは鉄の扉の中へと飲み込まれて行った。
しばらく座敷に通され、お茶を飲み、息子夫婦と話していると、係りの方に呼ばれて、また同じ灰色の鉄の扉の前に並ばされました。
扉が両脇に開くと、中には白くなった主人であろう何かが横たわっていました。係りの方の指示通りに、脇に並んで、順々にお骨を壷の中へ詰めていきます。箸の先で、私はあなたをとても軽いと感じました。親類縁者達が並んだそれも一巡して、辺りが落ち着いたようなその時、係りの方が声を張り上げて皆に示しました。
「こちらが喉仏になります。実際の喉仏は燃えてしまいますので、首の骨の二番目にあたる、三角形のお骨を納めます。これは仏様が座っていらっしゃる形に似ているのでお舎利様とも呼ばれています。奥様はこちらを。」
指示の通りに最後のお骨を壷に納める時、私は心であなたに最後のお別れをしました。
あなたは、最後まで、わたしが草餅を苦手だってことに、気付きませんでしたね。もう、仏さんになったから、全てお見通しなんでしょうか。そうしたら言います。ええ、私はあなたの事が、草餅程度には好きでしたよ。
私はあなたと一生添い遂げました。それでいいじゃありませんか。それが、夫婦ってもんです。
建物を背に、車が走り出すと、白い煙も遠ざかって行くのが見えました。空に上がって行くあれは、雲を作り、いずれは雨になるのでしょうか。それともこのまま解けて消えてゆくのでしょうか。今ではもうあなたが見えなくなってしまって、私にとっては、いないのと同じ事です。あんなに傍にいたのに、不思議なもんですね。
黒い着物を着た老婦人は、膝に抱えた骨壷をそっと撫でた。
2010.6.6. 安堂まりー