(「缶」(1/2)の続き。)


そして月日は過ぎて行き、私は終に缶を開けなかった。
そんな自分の人生に、満足している。
木漏れ日の射す五月、窓からの光がきれいで目を細める。白いシーツと壁に囲まれた四角い部屋の中で、私の心は落ち着いていた。
「じいじー。眠い?」

病院の白いパイプベッドに寄り添った孫が、私の右手をぎゅっと握り締めてくれている。ああ、神様。


孫の手をそっと握り返すと、穏やかな表情でその老人は最後の息を吐いた。


日曜日、無くなった父の荷物を整理しに、夫と共に実家を訪れる。先に靴を脱いで中に駆けていった息子を追いかけると、キッチンで母の膝にじゃれついていた。

「あらぁ、賢ちゃん。よく来たわねえ。」

「母さん、大丈夫?」

慌しく葬儀が終わってから三日後の土曜日、母の表情は思いの外落ち着いていた。

「そうね。入院が長かったから、覚悟はできてたわ。それより、書斎の荷物を見てくれる?私じゃ見分けがつかなくって。」

木造の茶色のドアを開けると、父の書斎だ。小さい頃は、子供の入る場所じゃないと言って、中に入れて貰えなかった。私が反抗期の頃には、リビングで私を叱るだけ叱っておいて、その後書斎に直行するのが父のお決まりのコースだった。おかげで、心のどこかに“書斎の父”には恐れを抱くようになっていた。


「ままー。これなにー。」
ぱか。

六歳の息子が両手それぞれに、開けられた赤い缶と、その缶の蓋を持っている。とことこと歩み寄る息子から、それらを取り上げた。

「あらぁ。これ、ひと昔前に流行ったのよねぇ。懐かしい。」

赤い色の缶を、表へ裏へ、返しながら見詰める。それには筆の様な文字で“パンドラ”と書かれてあった。

「パンの缶詰。まだ柔らかいわ。うそお。冗談みたい。」

缶の中を人差し指でつつくと、ふかふかと弾力があった。小麦のよい香りが鼻をくすぐる。

「ぱんー。食べるー。」

「止めときなさい。物には賞味期限っていうものがあるのよ。」

まとわり付いてくる子供を脇に押しやり、缶詰をキッチンに持っていく。

「母さーん。生ゴミと缶の分別の仕方だけどー。」

途中でひらひらと一枚、中から小さな四つ折りの説明書が落ちた。かの有名な青い猫型ロボットに似せた、しかし決してそれではない丸いキャラクターの漫画絵が描かれており、噴出しで何かを喋らせていた。そこには、

「未来の味がするよ。」

と書いてあった。

                          2010.05.24. 安堂まりー



通りすがりだった。狭い裏路地にある一軒の店からダンボールの山が張り出して置かれており、危くそれにぶつかりそうになる。苛っとして店内を覗き込むと、どうやら雑貨屋らしい。本当に雑多な物が、通りから眺めただけでも溢れんばかりに置かれていた。自分がぶつかりそうになったのは、その中でも店内に収まりきらなかった物達のようだ。積み上げられたダンボールの一番上の箱だけが開いて、その上半分が、カッターか何かで無造作に切り取られていて、中の商品が見えるようになっていた。開けられた箱は、どれもこれも売れた形跡が見られないほどに、ぎっちりと埋まっていたが、その中でひと箱だけ、ひとつを残して他はみんな売れたらしい物があった。すぐ下の箱には、それとはちがう商品名が書いてある。三段に積み上げられたキャラクター物のカップ麺の段ボール箱の上に残る、その最後の一つは、赤い缶だった。

いや、赤というよりは朱色か。一色のラベル一面に、黒く太い文字で商品名と思しき物が書いてある。筆の様なロゴ。それは、下っっ手な字で“パンドラ”と書かれてあった。

それをひょいと掴んで店内に入ると、カウンターへ近付いた。

「おじさん。これ、中身、なにが入ってるの?」

店内では、黄色いベレー帽とエプロンを身に着けた、頬のこけた男がプラスチックの人形を磨いていた。小さく濁った目でこちらをじろりと睨むと、

「パンドラだから、希望が入ってるに決まっている。」

早口で愛想なく答える。パンドラだから、希望か。

パンドラの箱には、様々な災厄が詰まっていた。あれは確かギリシャ神話だったっけ。小学校の時は、昔話とか呪いの話とかが、夏になる度に教室中に広がって、誰彼構わず的にして、囃し立てたもんだっけ。その箱を、好奇心で開けてしまったせいで、人間はそこから溢れ出した不安とか恐怖とか、戦争なんかの災厄に見舞われるようになった。しかし、最後にその箱の中を覗くと、そこにはひとつの“希望”が残っていたという。たしかそんな話だった。

箱の中に最後に残った希望。それが、この缶の中には入っている。箱から先に溢れ出した不安とか、恐怖の方では決してなく。

その言い回しが僕は気に入った。ギリシャ神話なんて興味もなさそうな、怪しげな雑貨屋のおっさんがそう言うのも奇妙だが、この缶の存在に、それはぴったり嵌るような気がした。

「これ、買うよ。いくら?」

「・・・千円。」

小さな目で探るように見られて、少し間を置いてからの返答は、本当に千円だったのか、知らぬ間にぼったくられていたのかは疑わしいけれども。とにかく、千五十円を払って、僕はその缶を家に持って帰った。


さあ。と、机の上に置くと、その缶は異様な空気を醸し出しているように思えた。持った感じは、重くもなく軽くもなく。振っても、からからと音がする訳でもなく、もったりと詰まったような感触がするだけだった。その日は何もせず、缶をただ机の上に置いて眠った。



次の日も、朝起きるとその缶は僕の机の上にあった。

「僕は、パンドラの箱を手に入れた。」

そう思って缶を眺めると、言い様の無いわくわく感が僕を包んだ。実際の缶の正体が何であれ、自分の右手と左手をちょっと動かすだけで、世界を変えられる。そう思うことは、気分が良かった。もし会社で嫌な事があった時も、「辞めさせて頂きます。」と言ったその日に、あの缶を開ければいいのだ。これからは、なんだって出来る。何も恐くない。だって、未来への切り札は全て自分が持っているのだから。

ワイシャツを着てネクタイを締めると、僕はにやりと目を細めて机の上の缶を一瞥し、その日はそのまま会社に向かった。



一週間経っても、缶は相変わらず僕の机にあった。業績が伸びない事を、先輩に皮肉られても、彼女と浮気したのしないのでケンカしても、まだこんなもんじゃ開けない。開けるもんか。つまらない事で開けてしまっては、自分が後悔しそうな気がする。もっとでかい、どーんとした出来事なんかが、自分にやって来ないかなぁ。そう思いながら、僕は毎日を過ごしていた。



6月30日、彼女に振られた。会社で上司にいびられているのを、毎日の様に愚痴っていたら、どうやら腹に据え兼ねていたらしい。そんな暗い男は嫌だと言って、少し距離を置きましょう。と申し出られた。部屋に戻ると、僕の机の上には赤い缶が残されていた。

もう、どうなってもいいや。世界なんか、知るか。そう思って僕は、缶を手に取った。しかし、いざ開けようとすると、ずっしりと重い。そんな気がする。

力を込めた両手を緩め、一呼吸すると、僕は赤い缶をそっと机の上に戻した。

彼女には電話して、「もうくだらない愚痴は言わないから。」と侘びを入れた。彼女も分かってくれたようだ。次の週末のデートは、少し豪華に過ごそう。


それから年月が過ぎていく中で、僕は何回も缶を開ける機会に見舞われた。「会社は、俺達ヒラの働きを全然分かってくれてないんだよ。」と酔っ払って管を巻いて帰って来た時も、「それ、俺のせいじゃないよ。」と思う事で、「お前は何をやってるんだ。」と上司に怒鳴りつけられた日も、部屋に戻って缶を手に取った時点で、それまで心の中に沸き立っていた怒りは一瞬で冷やし固められ、粉のようにさらさらと砕かれて離散するのだった。


それからというもの、自分も少し穏やかな人間になったようだ。人に会う度に、温かい笑顔と、「何かあったの。良くなったね。」そんな言葉の贈り物を頂く。妻を娶り、子供も出来て、今は幸せだ。


                         (「缶」(2/2)に続く。)



「早くしてよ。私の方が、電車1本分早いんだから。」

「分かってるよ。」



鞄を提げ、机に置いたi-podを手に取る。それをスーツのポケットに押し込んで、玄関に向かうと、革靴にかかとを入れた。

「ねえ、美幸。路線も違うんだから、無理して一緒に出なくてもいいじゃない。」
まだ撥ねたままの髪の毛を撫で付けながらそう言うと、彼女はぷぅっとふくれて答えた。

「ちょっとの時間でも一緒にいたいと思う気持ちが、分かんないの?」

やれやれ。彼女といると、毎回こういった形だ。理論で問いかけると、感情論で答える。可愛いと、思わなくもないが、毎回これだとさすがに堪える。




「はいはい。」
階段を下りながらi-podのイヤホンを耳に詰め込むと、手首を掴まれた。
「二人の時は、止めて。」
彼女の目が怒っている。 ・・・・・恐い。
「はいはい。」
そう言って、おとなしくイヤホンをスーツのポケットに仕舞い込んだ。
美幸と同棲を始めてから、もう四ヶ月近くになる。女と付き合うのは、今回が初めてだが、こんなに面倒臭いもんだとは知らなかった。あれをやれ、これはするな。とにかく細かいのだ。普通は皆そうなのか?




マンションを出ると、朝の日差しがカッと照りつける。今日は、暑いな。

「はい。」

駐車場を抜ける手前で、美幸が右手を差し出した。

「はい。」

いつもの様に、その手を取って、繋いだ。駅までの距離を、二人並んで歩く。


ぎゅっと手を握って微笑んでいる彼女は、昨日の晩の騒ぎなんかは、もう忘れたようだった。




「浮気してるんでしょう。私、あなたが別の女に取られるのだけは許せない。許さないんだから!!」
そう言って、そこら辺にあった雑誌やリモコンを投げ付けては、喚き散らす。




彼女は、浮気にとても敏感で、自分ではそういった意識はないのだが、他の女性と自分が飲みに行ったりするのが許せないようだった。昨夜もその話題で、先週友人たちと飲みに行った話を何の気なしにすると、彼女が急に怒り出したのだ。



投げ付けられた物達を、上手くはたき落としながら応戦する。

「そんな事言ったって、仕方ないだろう。世界中の半分は女なんだから。」

「だから、女と飲みに行くのは当然ってこと?許せない。」

うわぁぁん。と、感極まったのか、その場で泣き崩れる。それを確認したところで、ようやっと彼女を抱き締めて頭を撫でてあげる。

この、柔らかくて小さな生き物は、多分全て“感情”で構成されているんだろう。全力で生きている分、疲れるだろうな。だからこそ、自分みたいなのがいてあげないといけないんだろうな。

そう思うと、なんだか騎士になった様で、気分が良かった。ひたすら泣きじゃくる彼女を腕の中で包んで、「よしよし。」とずっと声をかけ続けていた。






昨夜の事に想いを馳せていると、美幸がこっちを見詰めていた。

「もう浮気しないでね。」

「してないよ。」

あと100m程もすれば、二人の道が分かれる場所が来る。

名残を惜しむように、美幸の手からぎゅっと力が込められた。




朝日を浴びて、女同士が仲良く手を繋いで歩いている。それは、駅まで続く距離。



二人の女は、駅の改札の手前で「じゃあね。」と言って、手を振って別れた。