通りすがりだった。狭い裏路地にある一軒の店からダンボールの山が張り出して置かれており、危くそれにぶつかりそうになる。苛っとして店内を覗き込むと、どうやら雑貨屋らしい。本当に雑多な物が、通りから眺めただけでも溢れんばかりに置かれていた。自分がぶつかりそうになったのは、その中でも店内に収まりきらなかった物達のようだ。積み上げられたダンボールの一番上の箱だけが開いて、その上半分が、カッターか何かで無造作に切り取られていて、中の商品が見えるようになっていた。開けられた箱は、どれもこれも売れた形跡が見られないほどに、ぎっちりと埋まっていたが、その中でひと箱だけ、ひとつを残して他はみんな売れたらしい物があった。すぐ下の箱には、それとはちがう商品名が書いてある。三段に積み上げられたキャラクター物のカップ麺の段ボール箱の上に残る、その最後の一つは、赤い缶だった。
いや、赤というよりは朱色か。一色のラベル一面に、黒く太い文字で商品名と思しき物が書いてある。筆の様なロゴ。それは、下っっ手な字で“パンドラ”と書かれてあった。
それをひょいと掴んで店内に入ると、カウンターへ近付いた。
「おじさん。これ、中身、なにが入ってるの?」
店内では、黄色いベレー帽とエプロンを身に着けた、頬のこけた男がプラスチックの人形を磨いていた。小さく濁った目でこちらをじろりと睨むと、
「パンドラだから、希望が入ってるに決まっている。」
早口で愛想なく答える。パンドラだから、希望か。
パンドラの箱には、様々な災厄が詰まっていた。あれは確かギリシャ神話だったっけ。小学校の時は、昔話とか呪いの話とかが、夏になる度に教室中に広がって、誰彼構わず的にして、囃し立てたもんだっけ。その箱を、好奇心で開けてしまったせいで、人間はそこから溢れ出した不安とか恐怖とか、戦争なんかの災厄に見舞われるようになった。しかし、最後にその箱の中を覗くと、そこにはひとつの“希望”が残っていたという。たしかそんな話だった。
箱の中に最後に残った希望。それが、この缶の中には入っている。箱から先に溢れ出した不安とか、恐怖の方では決してなく。
その言い回しが僕は気に入った。ギリシャ神話なんて興味もなさそうな、怪しげな雑貨屋のおっさんがそう言うのも奇妙だが、この缶の存在に、それはぴったり嵌るような気がした。
「これ、買うよ。いくら?」
「・・・千円。」
小さな目で探るように見られて、少し間を置いてからの返答は、本当に千円だったのか、知らぬ間にぼったくられていたのかは疑わしいけれども。とにかく、千五十円を払って、僕はその缶を家に持って帰った。
さあ。と、机の上に置くと、その缶は異様な空気を醸し出しているように思えた。持った感じは、重くもなく軽くもなく。振っても、からからと音がする訳でもなく、もったりと詰まったような感触がするだけだった。その日は何もせず、缶をただ机の上に置いて眠った。
次の日も、朝起きるとその缶は僕の机の上にあった。
「僕は、パンドラの箱を手に入れた。」
そう思って缶を眺めると、言い様の無いわくわく感が僕を包んだ。実際の缶の正体が何であれ、自分の右手と左手をちょっと動かすだけで、世界を変えられる。そう思うことは、気分が良かった。もし会社で嫌な事があった時も、「辞めさせて頂きます。」と言ったその日に、あの缶を開ければいいのだ。これからは、なんだって出来る。何も恐くない。だって、未来への切り札は全て自分が持っているのだから。
ワイシャツを着てネクタイを締めると、僕はにやりと目を細めて机の上の缶を一瞥し、その日はそのまま会社に向かった。
一週間経っても、缶は相変わらず僕の机にあった。業績が伸びない事を、先輩に皮肉られても、彼女と浮気したのしないのでケンカしても、まだこんなもんじゃ開けない。開けるもんか。つまらない事で開けてしまっては、自分が後悔しそうな気がする。もっとでかい、どーんとした出来事なんかが、自分にやって来ないかなぁ。そう思いながら、僕は毎日を過ごしていた。
6月30日、彼女に振られた。会社で上司にいびられているのを、毎日の様に愚痴っていたら、どうやら腹に据え兼ねていたらしい。そんな暗い男は嫌だと言って、少し距離を置きましょう。と申し出られた。部屋に戻ると、僕の机の上には赤い缶が残されていた。
もう、どうなってもいいや。世界なんか、知るか。そう思って僕は、缶を手に取った。しかし、いざ開けようとすると、ずっしりと重い。そんな気がする。
力を込めた両手を緩め、一呼吸すると、僕は赤い缶をそっと机の上に戻した。
彼女には電話して、「もうくだらない愚痴は言わないから。」と侘びを入れた。彼女も分かってくれたようだ。次の週末のデートは、少し豪華に過ごそう。
それから年月が過ぎていく中で、僕は何回も缶を開ける機会に見舞われた。「会社は、俺達ヒラの働きを全然分かってくれてないんだよ。」と酔っ払って管を巻いて帰って来た時も、「それ、俺のせいじゃないよ。」と思う事で、「お前は何をやってるんだ。」と上司に怒鳴りつけられた日も、部屋に戻って缶を手に取った時点で、それまで心の中に沸き立っていた怒りは一瞬で冷やし固められ、粉のようにさらさらと砕かれて離散するのだった。
それからというもの、自分も少し穏やかな人間になったようだ。人に会う度に、温かい笑顔と、「何かあったの。良くなったね。」そんな言葉の贈り物を頂く。妻を娶り、子供も出来て、今は幸せだ。
(「缶」(2/2)に続く。)