(「鉛筆(1/2)の続き」)


「明日は10時に保証人の判子もらいに行くんだから、早く婚姻届の自分の分、書いといてよね。」





「そうだっけ。」



あれから2ヶ月が過ぎ、入籍日は彼女の希望通り5月でも6月でもない、7月7日になった。その間に僕の両親とも挨拶を済ませ、明日を待つばかりとなって、彼女のテンションも上がっている。





「もおー。聞いてない。あたし、あなたのそういう所、嫌い。」

ぱたぱたと出かける準備をしながら、こっちを向かずに静代が言う。

「ケータイ、どこ置いたっけー?」

そう言って部屋を出て行く。



ぱたんと閉まるドアの音を聞きながら、彼女の言葉を反芻した。



「あたし、あなたのそういう所が嫌い。」



閉まったドア、彼女の後ろ姿。考えてはいけない考えが、僕の頭の中をぐるぐる回り始める。





ねえ。じゃあ、僕のどこが好き?







静代は僕の事が好き?



同じ事をぐるぐる考えては、僕は自分が磨り減っていくのを感じていた。



静代は、25歳を過ぎて、結婚適齢期が慌しく過ぎて行く中で、結婚してくれそうな無難な男を探していたら、タイミング良く僕と知り合ったから、僕を選んだのではないの?

最近は、口を開けば「結婚、結婚」で、普通に話をしていなかったよね。

君は、本当に僕が好き?僕の事が好きなの?



ただ結婚だけがしたいのではないの。・・・僕には分からないよ。





そんな事は、聞いてはいけない。聞けないまま、僕等は明日を迎える。





玄関横の靴箱の上にあった携帯電話を握り締めながら、彼女が部屋に戻って来る。

「忘れないで書いといてよね!保証人の判子もらう目の前で自分達が書くなんて、話にならないわ。それじゃあ、先寝てていいから。おやすみ。」

彼女はソファに置いてあったバッグを取って、そのまま部屋を出て行った。







ああ。書かなきゃ。彼女が机の上に置いていった婚姻届を眺める。左半分が空欄になっている。右側は、ペンで書かれた彼女のシャープな文字で埋まっていた。



書かなきゃ。そうだ、ここに書かなきゃいけない。



ぽっかり空いた左半分の空欄を眺めると、同じことが頭の中をぐるぐる回りだす。言えない思いはそのまま吐き出せずに、頭の中に、ぐるぐる回した鉛筆の削り糟みたいに溜まっていく。



書かなきゃいけない。





彼女がきれいな文字で右半分を埋めた婚姻届の、左側にあった僕の空欄を、僕は鉛筆で書いた。そして。





そのまま僕は、どこでもない所へ旅に出た。











「忘れないで、書いといてよね!」



そう言って彼と別れた後、彼女は二つ先の駅前の居酒屋まで向かった。そこには彼女の最後の独身の夜を祝って、女友達が集まってくれていた。



もうすでに賑っているテーブルに近付くと、居酒屋レベルの音量で声がかかる。

「なんだー。一人で来たの?彼も連れてくれば良かったのに。」

ビールジョッキを片手に声をかけた友人は、すでに顔が赤らんでいた。

「こんな狼たちの群れの中に放り込めないわよ。」

静代の言葉に女達が、わっと盛り上がる。



飲み物と料理を追加注文したところで、話題は改めて今回の主役になった。

「しかしまあ、おとなしい人よね。よく静代と結婚する気になったもんだ。」

溜め息をつきながら、首を横に振る友人に、「なにぃー。」そう言って、静代はグーで相手の頭を小突くふりをする。テーブル中に笑い声が広がる。店員がタイミング良く、飲み物を運んで来た。



「初めて会った時も、私が誘わなけりゃ皆の輪の中に入って来れないような、おとなしい人だったわ。だから、放っておけないっていうか。」

目を細めて、グラスのピーチフィズを眺めると、出会った頃の彼の姿があった。コンパの女性陣は全員が今日と同じメンバーで、ここと同じ居酒屋だった。ガツガツと話題を振ってくる男性陣の中で、彼だけが一人黙っていた。

「芯があるっていうか、自分のやりたいことを曲げない人なのよねぇー。まあ、そこを好きになったっていうか。」

自分は、こんな煩い場所には来たくなかったんだ。こんな賑やかな場所、自分には似合わないんだ。黙ってそう主張する彼は、とてもかたくなで、手を差し伸べてあげたいと自然にそう思った。

「あんた、のろけ過ぎ。ここに、最後の独身がまだ残ってるんですけどー。」

「ごめーん。」

仰け反りながら笑い合う。女同士の賑やかな夜は更けていった。





「結婚前夜かぁー。しみじみするなー。」

そう言って、静代が3杯目のグラスを傾けた頃、終電に間に合わせる為に逆算して帰り支度を始めた友人達に気付く。

「え、嘘。もう12時くるんだ。」

レジで清算を済ませて、店先でしばしたむろする。

「それじゃあね。幸せになれよー。」

一人に肘で突かれると、未来の花嫁は満面の笑みで答えた。

「当然じゃん。」

「結婚しても、こうやって飲みに来ようね。」

店先でひと盛り上がりして、話は尽きないまま、彼女達はそれぞれの路線の駅へと散っていった。







ぷるるるる・・・・



発車のベルを追いかけながら、同じ方向へ帰る友人と、電車に乗り込む。

「間に合ったー。」

「良かったねー!」

息を切らしながら混んだ電車の中で時計を見ると、12時を過ぎていた。

家に帰れば、未来の旦那様がそこにいる。きっと、真面目な人だから、ちゃんと婚姻届の空欄を記入してくれてから、先に眠っているのだろう。

明日、二人で役所に提出する様を想いながら、静代の頬は赤く染まっていた。

鉛筆が好きだ。あの、手で持った時の、木の温もり。軽い書き心地と、柔らかな曲線。ずっと小さい頃から使っているからか、手に馴染む感じがして落ち着く。それよりも何よりも、書いてしまった後でもすぐに消せるという安心感がある。「やってしまった。」と思った後でも、鉛筆だから消しゴムで消してしまえばいいんだ、そう思えるのだ。だから、何度注意されようが、僕は鉛筆を手放せない。







「困ります。」

事務の女の子が言う。

「これだと、FAXの時に見え辛いし、それに、原本を保管した所で意味ないですから。」

「そうなの?」

僕は、ぼんやりと、自分の出した見積書を眺めた。二重線の上に判子が押してある。その上には、五千円値引かれた金額が鉛筆で書いてあった。

「とにかく、これは請求書の段階で直しておきます。これからは、こういう事やめて下さいね。」

言い放って、つかつかとフロアを去って行く。

僕は将来について何の意識もなく、ただ入れる高校に入って、入れる大学を出て、入れる会社に来たら、ここだった。商業高校を出て、すぐうちの会社に来た事務の女の子の方が、事務手続きについては、ずっと詳しい。

「ああ、はい。」

僕は、自分より3つも年下の女の子の去って行く背中に、生返事を返した。









「それで、どうするの。結婚するの、しないの。」


「そうだなあ。」


静代とは、もう3年の付き合いになる。コンパで知り合って、ちょっとだけ話をして、メールアドレスを交換して。そうこうしている内に、いつの間にか付き合うことになっていた。

「そうだなあ。じゃないわよ!あたし、もう29よ。適当に流されると困るんですけどー。」

彼女と喋ると、最近いつもこんな話だ。年齢の事、結婚の事、親の事。早口で捲し立てられて、僕には彼女が何を喋っているのかが分からなくなる。こんな事は、よくある。今も、ぱくぱくと機敏に口を動かして、何かを一生懸命喚いている彼女をぼんやりと眺めていた。








「・・・・ね。」



言ってから、静代の口が止まった。じっと、こっちを見ている。


まずい。なにかを聞かれたみたいだ。適当に、何かを答えないと。


「うん。」

「だと思った。じゃあ、入籍だけにしましょ。日にちはいつが良い?」


にゅうせき・・・。いつがいい・・?続けざまに、聞かれた言葉の意味を考えようとする。彼女は、僕の言葉を待たずに喋りだした。



「あたし、ゾロ目の日が良いと思うのよね。だって、7月7日とか、3月3日とかって、なんか縁起良さそうじゃない?覚え易いし。結婚記念日なのに、いつなのかを忘れてるとかっていうの、私的にはあり得ないから。ああ、でも6月6日は駄目よ。だって、何か“真逆”な感じする。そうじゃなくて、もっと“ハッピー”って感じの日にちが良いわけ。あなたもそう思わない?」

聞いて来るのに、答えを待たない。彼女とのやり取りは、万事がこういった調子だった。


“にゅうせき”、“縁起がいい”、・・・・・まさか!!



さっき聞き逃してそのままにしておいた話題と合致する、その内容に思い当たって、そこから先は、恐くて喋れなかった。



「私の誕生日が8月だから、それまでに何とかしたいのよねー。かと言って、子供の日に結婚っていうのも、なんだか違うような気がするし・・・。」



彼女はずっと喋っていた。僕はTVを見る振りをして、その後の言葉も聞き流すよう努めた。






「どうだね。うちの静代は。」

落ち着いたリビング。やわらかなベージュのソファ。彼女のお父さんが、湯呑みを手に僕に尋ねる。日曜日の昼食を終えた後、彼女の家で過ごす落ち着いたひと時。僕に代わって答えたのは静代だった。




「ああ、駄目。この人、おとなしいから、「静代さんを僕に下さい。」なんて、言えない人なの。」

「あら、そうなの?」

「はあ。」

彼女のお母さんが、僕に尋ねる。僕は、何とも言えなかった。

「だめよ、お母さん。元々そういう人なんだから。それより、役所に出す婚姻届の保証人の欄、二人に頼んでもいいかな。」

「それは、お安いご用よ。でも、結婚式も披露宴もしないとなると、ねぇ。」

「そうだな。」

僕を置いて、話が進んでいく。どんどん進んで行く。僕は目が回る。

僕は、一人だけ取り残されているのか、それとも一緒に流されているのか。分からないまま、話は、どんどん流れていた。




「今は不況だから、ご祝儀がかかる披露宴なんかは、やらない方が却って喜ばれるのよ。」

「それは分かるけど、ねぇ。あなた。」

「うむ。」

比較的無口な彼女のお父さんまでが話に参加する中で、僕だけが黙っていた。

「お父さんとお母さんには分からないかもしれないけど、これが今風なの。ね。」

と言って、僕の方を向く。

「ああ。」

やっと渡されたバトンは、甲斐もなくポトリと落とされた。



「本当に、おとなしい人ねぇ。」

彼女のお母さんがキッチンに一旦引っ込んで、おかきを持ってきた。彼女は器に手を伸ばし、おかきの小袋を開けると同時に再び口を動かし始めた。

「そうよー。あたしが言い出さなきゃ、結婚だって、ずるずる先延ばしにされてたんだから。このままじゃ、あたしが年取るばっかりだし、ずっと付き合ってるのにそんなの馬鹿みたいじゃない?だから、あたし言ってやったの。どうせ、結婚式の準備とかが面倒臭いし、披露宴とかそんな事にお金をかけるのが嫌なんでしょーって。」

おかきを口に運びながらも、喋るのは止めない。どんな仕組みになっているのだろう。器用だなあ。関心しながら僕は彼女の口元を眺めていた。

「そしたら、案の定。“YES”よ。だから言ったの。そんな事はいいから、入籍だけしようって。」

彼女のお母さんもおかきを食べながら、ふんふんと頷いている。


「私、考えたの。今までずっと付き合ってるのに結婚を渋ってたのは、なにか理由があるはずだってね。当たりよ。今まで心配して気にして、馬鹿みたい。でも、これで安心した。」

えへへ。と笑う娘に、居間全体に笑顔が広がった。

「良かったわねえ、静ちゃん。譲さん、この子をお願いしますね。」

目を細めて笑うお母さんの笑顔に、僕は「ああ、はい。」と言った。そうとしか答えられなかった。


晴れた日曜日のリビングの中で、家族は温かな光に守られていた。


                                「鉛筆(2/2)へ続く」

今日も、山手線は混んでいる。正確には人間で混んでいた。一定時間が経つ毎に、ぷしゅう。という音と共に、大量の人間がドアから詰め込まれる。人と人とで押し合って苦しそうなのに、まだ足りないのかと思うくらい、外からやってくる。押された中の人は、皆灰色の顔をしていた。


そんな上空をふわふわと浮かびながら、人間たちを眺めていた。ぼくは、とても小さい。だから、人間には見えないようだ。おかげで気ままにやっているが、あの、虫なんかは憐れだな。間違って電車に乗り込もうもんなら、払われて、煙たがられて、運が悪けりゃ命まで落とすっていうんだから、堪ったものじゃない。



僕は、とても上からやって来た。この身体のおかげで、大気圏は楽に越えられる。その向こうからやって来た。言ってみれば宇宙の塵みたいなもんか。人間の感覚で言うと、うちゅうじんなんだろうな。字で書くと「宇宙塵」か。あそこは、まっ黒だった。


この山手線での生活も、かなり長い。乗車した人々の会話と雑誌、車内に貼ってある中吊り広告なんかで、大分人間の言葉を理解できるようになった。


今日の中吊り広告を見ると、赤い太字で“円盤が現れた”と実しやかに騒いでいた。「彼らは何のために現れたのか。」


「知らないよ。だって、俺じゃないし。」


そう思う。日本人が、異国の政府の方針を理解しないように、俺だって他人の考えてることが分からない。


「なんでだろうねぇ。」

座席上空の、少しゆとりのある空間を漂って、座っている黄色いスーツの男の雑誌を覗き込んだ。このおっさん、ぎゅうぎゅうの電車の中で、余裕だな。てらてらの頭を、朝日が照り付けるのもそのままに、二つ折にした週刊誌を、じっくりと読み進めていた。見ているページは、丁度電車の中吊り広告の雑誌、特集のページで、半分読み終わったので今裏返すところだった。

「金星人は、本当にいるのか?火星人は?」

答えの出ない事を、蒸し返しては否定して、肯定したのに難癖をつけては、2ページいっぱいもぐだぐだ言ってやがる。ご苦労様なこった。俺だって知らないよ、そんな事。


そういや俺は、何人なんだろうなあ。ふと思う。


最近、よく同じような形状の奴らを見かけるが、言葉を交わした事は一度もない。俺様も、物は思うが、発信の手段がないのだ。宇宙人が声を出して喋らないんで、テレパシーを使っているとか夢見てる奴らがいるが、どうして同じ形状をしているというだけで、相互にコミュニケーションがとれていると思うのだろう。ものを伝えなくても、同じ生物間で相互に交流しなくても生きていけるようになった。ただそれだけのことだ。必要の無い機能は、発達しないで退化する。人間だって、同じだろ?



翼を失くした人間たちが、飛ばない電車の中で押し合いへし合いしている。やつらにとって重要なのは、空の飛び方なんかじゃなくて、どんだけ大きい機械を作って、より多くの人間を詰め込んで、速く遠くに運ぶかっていうことなんだ。



「飛びたいとか、思わないのかねえ。」


こんなに苦しそうに電車に乗るぐらいだったら、日々背中を鍛えて、翼で羽ばたく研究なんかをしてみた方が、よっぽど良いに決まってる。

ごとん、と大きく揺れる毎に、顔を大きくしかめる集団を見渡す。ふと思って、汗だくで吊り革に掴まっている中年のスーツ男の、丸い背中をつついてみた。


ぶよん。




おそらく羽根が生えるであろう場所に、肉がいっぱい詰まっていた。



「これじゃあ、飛べるわけ無いな。」







その時、ホームに人が。


黄色く濁った目つきで、線路の暗い砂利石を見ている。のっぺりと平坦なグレーの地面に佇み、そこに影を落とす彼は、毎日同じ服を着て、いつも同じ会社へ向かう。髪はボサボサで、直そうとする様子はない。スーツは、どことなくくたびれていて、落とした肩の角度がそれにとても似合っていた。

今日も彼は、照り付ける朝日を浴びながら、ぼんやりと同じ道を通ってきた。ホームへの階段を下りて、そして、次の電車に乗るはずだった。


今、彼は。



その電車を待たずに。



飛んだ。







ぎきー。どん。






大きな音が響いて、電車が大きく揺れた。その後、水面に広がる波紋のように、ざわめきが周囲に浸透して、膨らんでいった。


「ああ。またか。」

「今度はなんだ。」

「早く動いて欲しいのに。」

自分の都合で、電車を使った者たちが、それぞれの都合をぼそぼそと主張する。きっと、彼も。



「ええー、大変申し訳ありません。只今人身事故で・・・。」
ががー。ざー。後ろの雑音と共に、車掌からのアナウンスが入る。

「なんだ。やっぱりかよ。」

「それで、電車は動くの?」

口々に騒ぎ立てる声は、自分の都合と、これからの時間について。ぴっちりしたスーツを着ていても、だぼついたTシャツを着ていても、ジーパンでも、皆同じ。みんな、自分しか見てないんだな。こんなに人がいるのにな。ざわざわとした波は、治まる様子を見せない。


おっと、こうしてはいられない。俺は慌てて、止まった電車の進行方向に向かった。



先頭車両のその前の線路、がらがらと赤茶けた砂利石の上に、赤黒い、ただれた物体がみっちりと広がっていた。




ごはんだ。



もう、すでに仲間たちが、うようよと集まってきてる。小さい仲間達が、わあっと集まると、まるでそこだけ白い霧が発生したみたいに見える。


「うわっ!なんだこれ。」

現場に駆けつけた新人の駅員がそれに気付き、手前でたじろいでいる。予想した惨状とは、また別の、見てはいけない世界のモノを見てしまった時のうろたえぶりで、一緒に訪れた老眼の先輩に半泣きで縋り付いていた。



“見える奴には、見える。”ってあれだ。ご愁傷様。

ひいひい言う新人の悲鳴を尻目に、物言わぬ物体に近寄っていく。



やれやれ。山手線に住んでると、一生食うのに困らないな。それじゃあ、失礼して俺様もいただこう。俺は、白く集まった群れの中に潜り込んでいく。


俺が、なんで地球に来たのかって?そりゃあ、生きる為さ。生き物として、当然のことだろ。でも、毎日こんなごちそうばっかりじゃ太っちゃうな。環境が良すぎるのも、困ったもんだ。