皆、当然そうなんだろうと思っていた。そんな当たり前のこと、口にするだけ馬鹿らしいんだと思って、ずっと黙っていた。僕は、食べた物が喉を通り、胃に入った瞬間に、それらがよみがえって生きいきと踊りだす。そんな胃の中での映像が、物を食べる度に、脳裏に映し出される。それは、カメラのレンズを通して見たみたいに四角い世界で、僕はそれを「胃カメラ」と呼んでいた。
子供の頃は、小魚が食べられなくて、親に叱られた。
「だって、魚いっぱいで気持ち悪いんだもん。」
いくら言っても、聞いてもらえなかった事を思い出す。マグロや鮭の切り身だと、一匹で現れるくせに、ちりめんじゃこなんかだと、ぶわーと一面の魚が頭の中に広がって、吐きそうになる。
「馬鹿なこと言ってないで、早く食べなさい。これは栄養があるのよ。」
観点がまるで違う母からの言葉に、これが大人になる為の試練なのかと、小さい僕は思った。
「嘘ぉ。」
けらけらと笑った彼女を見て、それが僕ひとりだけに起きることだって分かった。
その日は、初めて出来た彼女と、夕食を目の前にして話をしていた。
「トンカツかあー。俺、味は好きなんだけど、食べた時に浮かぶ絵が嫌い。」
「?」
怪訝そうに首を傾げてこちらを見詰める彼女に、
「え、だって、食べたら浮かんでくるだろ。豚とちっちゃな小麦畑が。」
「・・・想像力が豊かですね。」
口を引きつらせる彼女を見て、「いやいやいや。」と話題を引っ張ると、このことが判明したという訳だ。
「じゃあ、好きな食べ物は何だったの?」
まだ笑いで呼吸が落ち着かない彼女を目の前に、考えながら答える。
「サラダが一番落ち着くよ。だって、見たまんまだもん。」
それを聞いた彼女は、ますます笑い出した。
「おかしな人だと思ってはいたけど、本当に変だったとわー。」
ばんばんとテーブルを叩いて肩を揺らす。思いっきり笑われているのに、悪い気はしなかった。
「変な人だね。でも、あたし、そういうの好きよ。」
彼女と付き合うきっかけになった言葉が、それだった。素直で真っ直ぐな彼女に笑われていることで、これまでの、僕の食べ物にまつわる苦労が、全て洗い流されているように感じた。
それから、彼女と僕にしか分からない話題が、食事の度にやってきた。
「せっかく出かけたんだから、カフェでお茶してこーよ~。あの店、可愛くない?」
駅前に買い物に出た時に、歩き疲れた彼女が指し示した店は、ピンクと黒でまとめられた外装で、一見して都会風のおしゃれな店に見える。近付いて店頭のメニューを眺めると、一面にケーキの名前と説明、写真が載っている。ケーキの種類が豊富なスイーツの店らしい。ああ、と僕はげんなりした。あの、ショートケーキってやつ。ふわふわのスポンジに生クリーム、苺。それらは僕の胃の中で、小麦畑に鶏と牛、苺畑の映像に変換されてしまい、それは、一言でいうと「田舎」だった。
「せっかく都会に出てきたのに、田園風景なんて今更見たくないよ。」
「ぶー。じゃあ、都会的な食べ物って何なのよ。」
「アジとか鯖の、光り物に決まってるだろ。都会っていったら、ギラギラしてるもんだろ。」
そう言えば、僕は女の子を誘う時に、よく寿司屋を選んでしまう。勿論、高い寿司屋なんかには行けないので、一皿百円程度の回転寿司の方だ。待ち合わせ場所に二人が揃って、さあ。どこへ行こう。となった時に、キラキラのアクセサリーを身に付けて、おしゃれに決めてきた女の子を田園風景の中に誘うのは、あまりにそぐわない気がしていた。無意識にしていたことに、初めて気付く。改めて言うが、僕はこの年まで彼女が出来なかった。まさかそのせいだったのか。
はっとして隣を見ると、彼女はふくれていた。
「シルバーアクセは好きだけど、食べたいんじゃないもん。」
可愛い店を一軒見送ったことに拗ねてしまっている。右手のリングを前にかざして、そうぼやいていた。
「ゴールデンウィークは、実家に帰るの。夏物の服とか、みんな実家に置いてきてたから、取りに帰るわ。お土産買って帰るね。」
4月の半ば、「休みはどうする。」気になった僕が、そう話を振ったところ、あっさりと彼女がそう返してきた。少しだけ下心のあった僕は「ああそう。」と、なるべくがっかり感が気付かれないように努めた。
「ちょっと待って、実家、仙台だっけ。お土産はいいや。」
僕にはひとつだけ、苦手な物がある。小魚も、蛸も、大人になるにつれ何でも食べられるようになった。でも、大人になってくると大人向けの味覚の食べ物が、選択肢として増えてくる訳で。ビールに合う物、珍味、高価な物。それらは、僕の見たことのない映像になって、僕に新たな衝撃を与える。
そういう食べ物があると知って、美味しいと人に聞かされてからも、映像が恐くてどうしても食べられない物がひとつだけあった。
「牛タン。」
牛に決まっている。これまで、ハラミを食べてもロースを食べても、みんな黒か斑かの牛だった。でも、もしも。
万が一、ローリングストーンズのマークみたいな、大きな舌の映像が、脳裏の画面いっぱいに広がったら、僕はそれだけで気を失ってしまうだろう。食卓でそれは、あまりにシュール過ぎる。
僕は、牛タンだけは、どうしても食べられない。彼女とうまくやっていけるかな。