先日、アメリカに住むFacebookの友人の投稿で、はっと気がついたことがあります。
彼女は、こう言っていました。
「ただ、誰かの何かの記事だけをシェアしただけで、きちんと自分の考えを載せない人は好きではない」
そう、今のパンデミックのご時世、何か自分の意見を書くと、考えてもいないようなことで、難癖をつけられることがあるので、厄介だったりします。
言われてみれば、何かの記事、例えばワクチン反対とか、コロナはただの風邪とか、または、何かしら人が意見したくなるような記事を、ただシェアしているか、
または、「ちょっと読んでみた」「メモ」とかいうのを見かけます。
彼女の記事を読むまでは、気にもしていなかったのですが、
なぜシェアしたのかを書くことは、確かに大切だと思いました。
人に紹介するわけなのですから。
「ちょっと読んでみた」とか「メモ」ならば、またはメモがわりにただシェアするだけならば、別に、記事が時系列で流れてしまうFacebookにシェアするよりも、自分のパソコンのメモかEvernoteなどに記録しておく方がはるかに便利です。
本音は、人に読んでもらいたいわけです。
それは、どちら側の意見の人に突っ込まれても、言い逃れできるようにしているんだと、彼女の記事を読んで初めてわかりました。
そのアメリカ在住の彼女は、聡明で優しいけれど、いうべきことは、恐れずに意見する人であることを、ご本人の記事からは感じてはいたけれど。
この洞察力に感嘆してしまいました。
目を覚まさせられる感覚でした。
確かに…、SNSに限らず、こういう類のことは、やっていることと、言っていることが違う人によく見られます。
一見、人当たりは悪くないけれど、誠実さがない。
自己保身に走る人です。
私自身、60年を越える人生で、残念ながら、そういう人は要注意だと言えます。
なぜなら、そういう人は、あなたが信念をつら抜こうとか、
誰かの誤解を受けたりして、誹謗中傷にさらされた時、窮地の時、
真っ先に逃げるか、遠回しに見ているだけの人であるからです。
基本的に、本人は気がついてないときもありますが、自己中心的な人であることが殆どです。
あなたが調子がいい時は、寄ってくるけれど、それはあなたが頼りになって、自分にとって都合がいいから。
けれど、あなたが頼りたいときは、助けてはくれません。
むしろ、ハシゴを外そうとしたりします。
私は若い頃、それを痛感した苦い経験があります。
一時は、人間不信になるほどでした。
昔は、日本語でそういう人を「卑怯」とという表現を使いました。
「卑怯」とは、勇気がないこと、臆病。物事をするにあたって、正々堂々としないことをいいます。
人として誠実でないということですね。
TwitterやFacebookなどを見ていると、このパンデミックという平時ではない状態は、人としての本性や本音を露わ(あらわ)にしたと、感じるときがあります。
その人の情報リテラシーも…。
本当に優しい人は、人としての強さ、誠実さ、義侠心がありますね。
けれど、そういう人は、しばしば、とっつきにくかったり、言葉が少なかったりします。
有り体に言えば、偏屈だったり(汗)
(そうでない、スーパーな人もいますが。)
そして、普段、そういう人は、もしかしたら、あなたの気ままなおしゃべりの相手はしてくれないかもしれません。
けれど、一本筋の通った友人を持つことは、一生の友、財産になるはずです。
私は残念ながら、そんな友人を一人、病気で亡くしてしまいました。
私は、一生の友人となる人に出会うためにも、
そして、今いてくれる、数は多くないけれど、気骨のある友人のためにも、
自分自身も、人として誠実で、強くあらねばと思うのです。
友人は、数ではないですね。
これを書きながら、20年、30年、友人でいてくれた人の顔が思い浮かびました。
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