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40代女単身でウクライナ国境へ行く1/2


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40代女単身でウクライナ国境へ行く。2/2


戦火の中走り続けるウクライナ〜ポーランド鉄道





7.21

7:40発の電車で、ワルシャワ中央駅から、ルブリンを経由してウクライナ国境近くヘウムまで向かう。

今回、鉄道マンたちがどの様な思いで開戦後もずっと仕事に取り組んでいるのかを聞いてみたいと思った。

 

ワルシャワからの乗車率はほぼ満員。

特に10代から20代の若い世代が目立つ。

途中、大きな駅に到着する度に、沢山のひとが下車していく。

ウクライナ国境に近づけば近くほど、乗客数は少なくなり、年老いたシスターや年配の男女がみられるくらいだった。平日だったこともあり、ウクライナ難民らしい人は見当たらない。そして、東に行けば行くほどに車窓にはだだっ広い平野に木造らしき古い教会がポツンとあるような田舎町が続いている。

更に、田舎に行くほどに、駅員はみな白髪頭で白髪の髭を整えた渋いイケおじ風の"ベテラン"になっていった。

 

ポーランドの鉄道はキセル乗車に厳しいのと、ローカル線では無人駅も多くチケットを車内で購入する客も多いので、車掌が何度も車中を往復する。

 

私は特急券を購入したのだが、ミスでローカル線に乗り込んでしまい、このチケットのまま乗車させてくれかいかとスマホの翻訳機能を使い伝えた。そして、乗客が少ないことを見計らい、ウクライナの方たちはどれくらいのペースで今往復しているのか、また、鉄道マンの皆さんはどの様な思いでいるのか質問を投げかけてみた。

 


鉄道マンに取材するも、、、。


音声翻訳機能を見せ、スマホのマイクに向かって話して貰うも、地方の訛りがひどいせいか翻訳機能がずっと迷走したまま機能しないという、珍道中っぷりを発揮。私が「....」となっていると車掌は突然いなくなり、少しすると、離れた席に座っていた20歳くらいの女性客を連れてきて、通訳するようお願いしている様子だった。

そして、その女性がスマホを私に向けてくれた。

 



「週末になると、ウクライナに帰る人が増えてきている。私たちはただ毎日、やるべき仕事をするだけです。私たちは、"ウクライナの隣の国"という意識はありません。元々同じ国の住民として当たり前のことをしているだけです。」

 

ポーランドは過去にはウクライナをゆうに呑み込む、現在の国土の3倍もの巨大な国を築いたと思えば、各国からの侵略で分割され、1世紀余り地図から消えるという戦争の絶えない壮大な歴史を歩んできている。この様な歩みを刻まれている彼らにとっては決して他人事ではないのだ。

また、ウクライナもポーランドも民主化してまだ間もない国だ。このベテラン車掌らは、民主化前の貧しく不自由な時代も経験してきている。今まさに自由の為に戦うウクライナ人は言葉は違えど、漸く手に入れた民主化を死守して次の未来へ繋げて行かなければいけないという思いの同志なのだと感じた。

 

乗り換え駅に到着すると、イケおじ風の車掌がわざわざ私の席へ来てくれ、ウィンクをして知らせてくれた。

 



次に乗り継いだ駅の売店員や駅員に同じく質問を訳した画面を見せると、だれもが皆親切に対応してくれた。どの鉄道マンも共通して、「特別な何か」ではなく人として当然のこと、この仕事に着く上で当たり前のことをただしているだけだというナチュラルな姿勢がとても印象的だった。

 

 

負の遺産 ウクライナ国境近くのルブリン市へ







ポーランドの東、ルブリン駅に到着する。

駅の規模で言えば"各駅停車の新幹線が停まる駅"といった感じだ。電車を降りてゲートへ出るとすぐに目に飛び込んできたのはやはり「ウクライナ支援情報センター」の文字だ。さほど大きな駅ではないけれど、それなりの広さの部屋が用意されており、そこで避難民の為のチケット交付や食事の提供が行われていた。

 


●負の遺産、マイダネク強制収容所





私は駅を出てタクシーに乗り込み、マイダネク強制収容所跡地へと向かった。

マイダネク強制収容所はナチス時代、ポーランド人を中心に50万人もの人々が収容され、過酷労働とガス室で36万人もの人々が命を落とした最大の絶滅収容所で、戦後、世界で初めて一般公開された現在は博物館として運営されている場所である。

はじからはじまで歩けば何時間も掛かる広大な敷地には当時のままのガス室、遺体焼却炉、バロックが並び、正門から真っ直ぐ1キロほど歩いた先には【LOS NASZ DLA WAS. PRZESTROGA(私たちの運命をもってあなたに警告)】というメッセージと共に、犠牲者の御遺灰をこんもりと山に積み固められたモニュメントが共同墓地の様に展示されている。

 

戦争で命を落とした方々が灰になっても尚訴えるすぐ先ではまた同じことが起きていると思うと胸がざわつき、昨日出会ったウクライナの高校生たちの顔が浮かんで涙を止めることができなかった。

 

 

いよいよウクライナ国境の町ヘイムでのサプライズ


私は更に東のヘイムという、もう次の駅はウクライナという距離まで足を伸ばした。そこでもやはり同じように支援カウンターが設置されており、パラパラとウクライナの方達とサポートスタッフが出入りしていた。

 

今回私が乗車したルートは、ポーランドとウクライナを結ぶ鉄道の一つで、クラクフを経由してワルシャワへ到着する路線と併せて、開戦してから両国が避難経路として推奨している路線だ。

 

実際に来てみると、ウクライナ国境近くといえどポーランドは日本で想像していたよりもずっと安全だ。殺伐とした感じもなく、のんびりとした田舎町で、アジア人が珍しかったのか、パンデミック以降久々に外国人を見たのか、通りすがりの年配女性が「ウェルカム」と言いながら話しかけてきたりもした。

 

1時間ほど駅周辺を歩き、ワルシャワ行きのチケットを買う為カウンターに並んでいた時に電話が鳴った。

 

「息子がお世話になっております。宮島全の父親の宮島です。息子からお話は伺いました。明日の16時にお会いしましょう。場所はメールします」

 

私がポーランドにいることをSNSで知った友人の宮島全君が「僕も日曜から父に会いにポーランドにいくんです」とメッセージをくれていた。ポーランド在住のお父様がいるのであれば是非お会いしてお話を聞かせてほしいと願い出て、繋いでくれたのだ。

 

ワルシャワへ戻る車中、電車に揺られうとうとしていると宮島さんから待ち合わせ場所のメールがきた。それを見て私は目を疑った。

 

「明日お待ちしています」というタイトルのメールには、「公邸」とあったからだ。人は本当に驚くと二度見するものである。

 

メールにある"公邸"の住所を慌てて検索すると、ワルシャワ日本大使館の敷地内を差していた。

全君のお父様は2020年コロナ禍真っ只中に就任されたポーランド共和国日本国特命全権駐在大使の宮島昭夫さんだったのだ。

 

思いもよらない展開に、手土産どころか、名刺もなければスーツも持ってきていない事に気がつき一瞬顔が青くなったが、急な出来事だったのでそこはもはや仕方がない。ご無礼を承知で伺うことにした。

 

 

ポーランド日本大使公邸へ。


7.22 ポーランド滞在最終日

午前中は昨日の疲れからか、何もする気が起きなかった。午後になりなんとかカラダを起こして準備をし、先日のpcr検査陰性結果を日本政府のフォーマットに記入してもらいに再び検査ポイントへ向かった。帰国の準備も程々に、16時の待ち合わせ時間が迫ってきたのでUberでタクシーを呼び、公邸へと向かった。

 

大きな鉄柵の門には「日本国大使公邸」と書いた金色のプレートがある。やや緊張してきた私は一度大きく深呼吸をして、門の隣にあるセキュリティゲートで名前を伝え中へ通して頂いた。

 

綺麗に管理された敷地から建物へ入ろうとすると、ポーランド人であろう、いかにも紳士の秘書らしき男性が扉を開けて応接間まで案内してくれる。

広々とした応接間には立派な屏風と小さな茶室もあり、日本を感じることができる。どこか落ち着かず待っていると、足音が近づいてきた。

顔を上げるとスッと長身の紳士が爽やかな笑顔で現れた。左胸には、ポーランドと日本の国旗が交差した小さなバッチ、その隣にはウクライナ国旗のバッチを付けているのが目に入った。

私はハッと立ち上がり、ご挨拶をした後に宮島大使はすぐに名刺を渡してくださったが、予想外のことで私は名刺を持ち合わせていないことを伝え簡単な自己紹介だけを済ませた。

 

ソファに腰をかけるとすぐに「今回はなぜポーランドへ?」と投げかけられたので、ウクライナ難民の子どもたちが今どのような状況にあるのか、また、最大の難民受け入れ国のポーランドでサポートしている方々のサポートはどうしているのかなど、何か具体的に肌で感じたくきました。と伝え、加えて、先日ウクライナ難民の高校生とお話したこと、取材先で感じたこと、日本の皆さんが目に見える形で支援したいと願っている旨などお話させて頂いた。
宮島大使は「そうでしたか。そうして来てくださるのはとても嬉しいことです。」と言葉をくださり、戦争が始まってすぐの状況や現在の状況などを優しい口調で語り始めた。


2021
2月にロシアの軍事侵攻が始まってから、鉄道、そしてバスで350万人のウクライナ人がポーランドへ避難してきている。
現在においては、160万人がポーランドに留まり、その内100万人は民間の方々が個人宅に受け入れ、寝食を提供しているという。日本へも避難民ビザで約2000人のウクライナの方々を受け入れている。

 

ポーランド人の90%以上がカトリック教徒なので、慈善の精神が目の前で困っている人たちを助けるという一つになっているのも大いに想像つくのだが、その他には、ソ連崩壊後、1999NATO加盟、2004年のEU加盟あたりから、ポーランド一人当たりの実質GDP(自国通貨ズロチ)が3倍にも急成長をしている。ポーランドでの平均所得は日本の初任給ほどだというがワルシャワを歩いていていても飲食店やデパートにはどの時間も人が多く、生活水準の高さが肌で伝わってくる。飲食店では東京とさほど変わらない金額で食事を済ませることをできるが、Uberタクシーの初乗りが200円しないほど、スーパーへ行くと生活雑貨や化粧品などの消耗品がとても安く、円安の影響を感じないほどだった。

これほどまでの沢山の人々を民間人が自宅に招いて支援するには、ある程度の経済的余裕があることも必要だと考えれば、このGDPの成長率というのも一つ助けになっているのに違いない。


求められる"日本らしいさ"
とはいえ、子どもたちが夏休みに入ると、子どもも親もずっと家にいる状況が続き、支援者の生活疲労はもちろん、財力への負担も重くのしかかる。
実際、長期化する中で、ボランティアの数、募金数も減少傾向にあり、やはり財政力がないと彼らのサポート力の継続は難しくなってくる。
自主的支援をされているポーランドの方々にも生活がある。海外から支援に来ているボランティアの方々にだって生活がある。「支援者への支援」が現在最も大きな課題となっており、日本がどのようにサポートしていくのが良いのか、日本とポーランドで手を組み、どのようにウクライナをサポートしていくのがよりよい道なのかが大きな宿題だ。

ポーランドで託児所や女性へのサポートなど、具体的支援をする日本人の方々も数名おられる。開戦して間もなくには、ポーランドでラーメン屋を営む日本人がウクライナ国境近くで支援をする方々にラーメンを振る舞ったという。その際には、極寒の中しばらく温かいものを口にできていなかった方々に大変喜ばれたそうだ。また、日本企業からパロというアザラシ型の癒しロボットをメンタルサポートをする病院へ寄付があったり、ハンディキャップのある方やお年寄りの方へのサポートとしては、足場の悪いところでも移動ができるように、「JINRIKI」という日本の人力車の発想から、押すではなく、けん引式の車椅子補助のアイデアを提供している日本人の方のお話しも印象的だった。

宮島氏は、「心はもちろん、技術や知恵など、日本人らしさでサポートできないかと考えている。」と語る。



ロシア軍事侵攻開戦4日目の状況


宮島氏は話をしている途中で突然席を立ち、少しすると小さなアルバムを両手で大事そうに持ってきた。
アルバムを開くと、山積みの衣類やぎっしり並ぶベッド、子どもたちの写真があった。
開戦4日目の写真だという。
福祉センターには床、壁が見えなくなるほど山積みの衣類や水などがぎっしりと積み上げられている。全てポーランド国内から集まった物資だ。

福祉センターや駅に設置された避難所には、日本の避難所で目にする段ボールでの仕切りなどはないノンプライバシー状態のベッドが500はあろう数がギッシリと隙間なく並ぶ。それでも間に合わずに床に毛布を敷いて寝る子どもの姿もある。200万人の避難者を収容するのは到底容易ではない。

駅のコンコースには避難民たちがひしめき合い、その中に何かプラカードの様なものを手に高く持つ人も見られる。
個人宅で寝床の提供をしようとポーランド在住の方々が自ら段ボールに「3人までなら我が家で部屋を提供できます」など段ボールに書いて立っていたのだ。駅についたばかりのウクライナ人はその段ボールに書かれた内容を見てその場でマッチングする。これは、3.11や熊本災害などの大規模災害の際でも、日本では絶対に見ることのない光景だった。

また一枚アルバムをめくると、たくさん厚着をした上にダウンを被った4歳くらいの可愛らし少女が、和柄の折り紙を嬉しそうに手に持ちカメラ目線でウィンクしている姿が写っていた。
この時、宮島大使はこの目の前にいる小さな少女の前に膝をつき折り紙を出したものの、折り紙をどう説明したらよいものかとモジモジとしていたら、「おりがみ!」と女の子が手に取り笑顔になったそうだ。するとその少女の母親も子どもの笑顔を見てスーっと表情が和らいだという。
「少女は折り紙を手に持ち、私に向かってウィンクしたんです。写真撮ってもいいかとジェスチャーで伝えるとOKと。この少女の笑顔は私にとっても宝物です」

宮島大使の表情はとても優しく、人の親の顔をしていた。

「どの仕事においても、"自分はここで何をしたのか"。自分でも問われるんです。」
3.11.
の際には官邸の緊急支援隊の受け入れ調整についており、世界中からの支援の調整を行なっていたという。その際には、本当に世界中から沢山の支援を目の当たりにし、これら支援をくださった世界中の国々、方々を忘れてはいけないと感じたそうだ。そして、ポーランドに来た現在も同じようなことが起こっている。



「忘れて欲しくない」


離れた日本にいると、日々のニュースに翻弄されて忘れてしまいがちだが、間違いなく戦争は継続しているし、ボランティアの方々の精神力、経済力の維持を支えるサポート体制、避難民の雇用、教育、住居の問題について、まだまだ先の見えない中での大きな課題だ。更にこれから冬に向かって行くのにあたり、樺太と同じ緯度の極寒地においてこれは大変な問題となっている。

「忘れて欲しくないのです。忘れられては困るのです。」と宮島大使は何度も語っていた。

 



未曽有の事態は決して記憶から消してはならない。そして必ずそこには支えてくれる誰かの存在がある。思いやりの連鎖で世界を一つにしていきたい。改めてそう感じた旅だった。