以前もこちらで一部記述しましたが、改めて記事として報告させて頂きます。

ウクライナ並びに、支援大国ポーランドの現状を少しでも知って頂けると嬉しいです。

肌で感じたことをそのまま皆さんにシェアさせて頂きます。

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40代女単身でウクライナ国境へ行く。1/2

 

日本は終戦から77年を迎えた。終戦記念日には平和記念公園で献花をする人々の姿がメディアで写し流される。

私の祖父は19才で満州へ行き数年間兵隊として戦って生還した。左腕には銃弾で撃ち抜かれた傷跡があったのを今でも覚えている。

夏休みの父の実家へ遊びに行った際、一度だけ、戦地の様子を語ってくれたことがあった。

 

「敵の兵士と出会しても殺すことなんて出来なかった。同じ人間だと思うと絶対に殺せなかった。敵国の兵士と出会した時には先に銃口を向けた方が勝ちなんだ。とにかく先に銃口を向けて逃してしまっていたよ」

 

繰り返してはならないと世界中で平和を願う人々が口にする。しかし海の向こうでは現在もそれぞれの"正義"を掲げて今も戦争が繰り広げられている。ロシアのウクライナ侵攻直後はとてもショッキングなニュースに、日本にいる私たちも皆やるせない暗い気持ちになったものだが、今では日常に追われすっかりと頭の外にある人も多い。しかし、間違いなく戦争は今も続いている。

ウクライナ避難民受け入れ大国のポーランドは、アウシュビッツ、マイダネク強制収容所などの負の遺産が多く残る。

そうだ。今だからこそ、この目で見ておかなければならない。

全身に稲妻が落ち、すぐにポーランド航空LOTのチケットを予約した。

 

ポーランドへ出国



7.17 

成田空港第一ターミナルのカウンターは不気味なほど静かで、自分の足音が天井に響く。

22:50成田発のワルシャワ行きLOTに乗り込むも、ポーランド人と日本人の組み合わせカップルがパラパラといるくらいで、単身でいるのは私ともう1人の日本人男性くらいなものだった。搭乗率は30%というところだ。

直行便とはいえ、ロシア上空を飛行できない現在、片道14時間という長旅にやや憂鬱感を感じていたがエコノミーでも三列シート独占にてすっかりとカラダを横にし、快適なフライトだった。



飛行経路を見ていると、ロシアとウクライナ上空を避けるルートを示しており、黒海からポーランドの東側、つまりウクライナに近いエリアからポーランドに進入していた。

 

着陸体制に入り上空から地上を見下ろすと地平線まで平らで広大な畑が広がっている。ポーランドは、「平原の国」という意だというのがよく分かる地形だ。

 

今回滞在は6日間。帰国時には72時間以内のpcr検査で陰性証明をゲットしなければならないという事を考えると、到着二日間はなるべくタクシー移動、人混みを避けながら、街の様子をリサーチするに過ぎなかった。

 

ポーランドの歴史に触れる

7.18

早朝にワルシャワに到着。タクシーでホテルへ向かいチェックインを済ませ、すぐにワルシャワ旧市街へ向かった。

旧市街の王宮広場にウクライナ戦で没落したロシア戦車が二機展示されていると情報を得て行くも一足遅く撤去されていた。

肩を落としながらもこじんまりとした旧市街を歩くとなんとも美しい街並みだ。

 



ここ旧市街は、13世紀ころから王宮を中心に発展していった美しい街だ。しかし、第二次世界大戦でドイツ空軍により街は壊滅。戦後、ポーランドはドイツとソ連に分割占領され、ワルシャワ旧市街はソ連カラーの街に作り替えられる計画だったが、ソ連崩壊後、40年もの歳月ののち、レンガのヒビ1つ、絵画のシミすらも厳密に復興再建され、「破壊からの復元及び維持への人々の営み」が評価され世界遺産登録へとなった世界にも稀にみる場所となっている。

王宮広場から一本路地を入りすぐにある洗礼者聖ヨハネ大聖堂はワルシャワで最も古い教会で、1791年に行われたヨーロッパ初の成文憲法である「53日憲法」の憲法宣言が行われた場所でもある。

 

旧市街を歩いていると、窓辺に青と黄色のウクライナ国旗を垂らすアパートメントの部屋がぽつぽつと目につく。

王宮広場には、背中にウクライナの国旗を巻いて観光客に声をかけながら歩く少女、少し離れたところには、首からプラスチックボックスをぶら下げて募金活動をしている少年たちの姿があった。

pcr検査が終わってから再び彼らに会いに来ようと取材の目処を立て、この日はホテルへ戻った。

 

ウクライナ難民の高校生たちの今

7.20

pcr検査を受けてからは、いよいよエンジンがかかり、旧市街へ再度足を運ぶ。先日よりも募金活動をしている少年たちが多い印象だ。

私は声をかけられに彼らに近づいた。

そうすると、首からIDと募金箱をぶら下げたひとりの少年が綺麗な英語で声をかけてきた。日本人だと伝えると、 「日本すごく憧れの国です。街は綺麗だし、人はみんな優しい。本当に好きな国です!」と少し興奮した様子。 

「アニメ、漫画も好き?(笑)」 

「あはは!もちろんアニメも!」 

いくつかの会話を交わしながら他の少年のところへ歩き、数人と話をした。

 

彼らは激戦地ドンバス地方が故郷の高校生で、開戦間もなく母親とポーランドに避難して4ヶ月が過ぎるという。

ポーランドで学校へ行けていない子、学校へ行ってもポーランド語が分からず孤立する子、英語が話せるので学校でなんとかやっていけている子、状況は様々だ。

現在、ちょうど夏休みで、英語が話せる有志が集まり、募金活動をしているとのことだった。

彼らは、「今自分たちにとって重要な仕事は、この活動を通してウクライナのことを周知すること、そしてウクライナを支援することだと強く信じている」と力強く語っていた。

彼らの父親はウクライナに残り兵士として戦っている。そんな状況でありながらも彼らは私に笑顔を向け、とても毅然としていた。

 

一緒に避難してきた母親は、ウクライナで看護師や、大手企業でキャリアウーマンとして活躍していたが、避難後はポーランド語を話せないので、定職に就くのが難しいという。

 





今最優先すべき課題

今彼らに必要なものは、住む場所はもちろんだが、何よりも母親たちが定職に着くこと。つまり、生きていく術を手に入れることなのだ。現在、避難民の母親の50%がポーランド国内で定職についているという。しかしそれは言うまでもなく前職のキャリアを活かした仕事ではなく、パン屋やハウスキーパーなど、働けるところでとにかく必死に働いているという状況だ。

 

少し酷な質問ではあったが、「ウクライナのお家に帰りたい?」 と投げかけると、みんな揃って「・・・・I don't know」と大きなため息を何度もつき、目にうっすら涙を浮かべた。

「もう家も壊れているし、帰るなら家を建てなくちゃいけないけどそれも難しいと思う。分からないけど、、、。」 

みんな故郷を離れ、それぞれ新たな土地で生きていかなければいけないという覚悟があるようだった。

彼らはこれからこの現実をどう受け止めて生きて行かなければならないのか。私に子どもがいたとするならば息子程の年。思えば思うほど、胸が苦しくなり目頭が熱くなった。最後はみんなと笑顔で「Good luck」といいながらハグをして別れた。

 

 

難民支援ポイント









彼らと別れた後はワルシャワ中央駅の支援ポイントへ足を運んだ。

駅構内に入ると、1階メインフロアのど真ん中に大きなカウンターが2つ設置されている。

ポーランドはウクライナ難民最大の受け入れ国だ。その数、これまでに350万人を超えるとされる。現在、ワルシャワ中央駅はウクライナ難民の避難サポートのハブとなり、各国への避難をサポートしている。「ヨーロッパ最大の人道援助センターRTAK」と書かれたカウンターでは沢山の人たちが用紙に記入している姿があった。24時間対応で、主に、スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、スウェーデンなどのヨーロッパ各地に定期便バスで避難サポートをしている。

 

駅のエントランス目の前では、腕にカナダ国旗、イギリス国境のエンブレムを付けたアーミーたちが、「World central kitchen」という看板を出してテントを張り、食事の支援を行っていた。少し離れたところからテントの中を覗くと、50名くらいは入れるだろうテーブルが設置してあり、多くの女性と小学生くらいの子どもたちが食事をとっていた。

 


駅周辺では、ヘルプミーと言いながら明らかに偽難民もいるので注意が必要だ。この期に及んで同情を引きお金をせびる不届き者もいる。



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