浅草の劇場へ。



昭和の懐かしい茶の間のセット。

アナログレコード、昭和アイドルのポスター。


少しホコリ臭い感じも懐かしい。

寄り掛かるとキラキラが肌にくっつく砂壁かな。外装はきっと青いトタン屋根だろうな。西日で夏は部屋は蒸し返すだろうな、、、。などと、幼少期を過ごした自身の思い出を巡らせながら舞台セット以外の所まで妄想が膨らむ。


「五月、忘れ去られた庭の片隅に花が咲く」鄭義信 演出・監督


1981年に発生した北炭夕張新炭鉱ガス突出事故を元に描かれたこの作品は、高度経済成長後期における家族の形や労働者の苦悩、時代の移り変わりのまさに狭間が詳細に描かれている。



舞台では昭和を象徴するアイドルやカーペンターズの曲が採用されていたが、私の脳内ではスペイン音楽のFLAMENCOにあるTARANTOSという曲が鳴っていた。


TARANTOSは、スペインはアルメリア県の鉱山の歌と言われており、苦しい労働を強いられる彼らの魂の叫び、死と隣合わせに生きる彼らジプシーの生活を歌ったもので、まさに今回の舞台テーマにリンクする。


雨漏りのする小さな屋根の下で、炭鉱で働く男兄弟と、気丈な女性とその息子の姿がまた洞窟暮らしのジプシーだ。


TARANTOS



本公演の役者の皆さんの熱量もまた、FLAMENCOが頭に浮かぶ要因だった。


2時間という決して短くない公演だったが、間合い、掛け合い、緩急強弱がとにかく素晴らしく、舞台に多い中弛みも一切感じられない全力投球であっという間に感じられた。



最前列のかぶりつき席だったので、尚更彼らの息づかい、充血していく目、滴る汗ひとつひとつが情報として入ってくる。



不整脈が誘発されそうな突飛もない大声、ドタバタと入り乱れまわり何度も笑いを誘うかと思えばぐっと心臓を捕まれ泣かされる。

私の持っている感情全てを吐き出させられる感覚で、観ているこちらも終わる頃にはクタクタに疲れてしまう熱量だ。

「役者をサボらせない、休ませない演出」は鄭さんイズムだと今回誘ってくれた役者の友人が教えてくれた。


彼らはまさにジプシーの叫びだった。





東北育ちの私は、山も多く、炭鉱場所も少なくなかったので、近所にも炭鉱で働いてきたおじさんたちが何人かいた。



「みんな、肺がやられちゃってね、、、」



元炭鉱夫のおじさんたちが今何をやってるのかを母に尋ねると、母は瞼をおろしながら、こうひとことだけ言ったのを今でも覚えている。片腕がないおじさんもいた。




昭和、戦後といえば、学生運動、労働運動、女性の人権運動、、。

全身を泥だらけにしてボトムアップの力をと燃えた時代。


私の父も電電公社の労働運動筋金入りのひとりだったのでなんとなく肌で覚えている。



死ぬ思いで生き抜く人生。

長さではなく太さのある人生。


人生とはなんなんでしょう。

生きる力ってなんなんでしょう。


色んなことを巡らせてくれた、本当に素晴らしい舞台でした。



「五月、忘れ去られた庭の片隅に花が咲く」

鄭義信 演出・監督







●40代女単身でウクライナ国境へ行く。1/2はこちら↓

40代女単身でウクライナ国境へ行く1/2


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40代女単身でウクライナ国境へ行く。2/2


戦火の中走り続けるウクライナ〜ポーランド鉄道





7.21

7:40発の電車で、ワルシャワ中央駅から、ルブリンを経由してウクライナ国境近くヘウムまで向かう。

今回、鉄道マンたちがどの様な思いで開戦後もずっと仕事に取り組んでいるのかを聞いてみたいと思った。

 

ワルシャワからの乗車率はほぼ満員。

特に10代から20代の若い世代が目立つ。

途中、大きな駅に到着する度に、沢山のひとが下車していく。

ウクライナ国境に近づけば近くほど、乗客数は少なくなり、年老いたシスターや年配の男女がみられるくらいだった。平日だったこともあり、ウクライナ難民らしい人は見当たらない。そして、東に行けば行くほどに車窓にはだだっ広い平野に木造らしき古い教会がポツンとあるような田舎町が続いている。

更に、田舎に行くほどに、駅員はみな白髪頭で白髪の髭を整えた渋いイケおじ風の"ベテラン"になっていった。

 

ポーランドの鉄道はキセル乗車に厳しいのと、ローカル線では無人駅も多くチケットを車内で購入する客も多いので、車掌が何度も車中を往復する。

 

私は特急券を購入したのだが、ミスでローカル線に乗り込んでしまい、このチケットのまま乗車させてくれかいかとスマホの翻訳機能を使い伝えた。そして、乗客が少ないことを見計らい、ウクライナの方たちはどれくらいのペースで今往復しているのか、また、鉄道マンの皆さんはどの様な思いでいるのか質問を投げかけてみた。

 


鉄道マンに取材するも、、、。


音声翻訳機能を見せ、スマホのマイクに向かって話して貰うも、地方の訛りがひどいせいか翻訳機能がずっと迷走したまま機能しないという、珍道中っぷりを発揮。私が「....」となっていると車掌は突然いなくなり、少しすると、離れた席に座っていた20歳くらいの女性客を連れてきて、通訳するようお願いしている様子だった。

そして、その女性がスマホを私に向けてくれた。

 



「週末になると、ウクライナに帰る人が増えてきている。私たちはただ毎日、やるべき仕事をするだけです。私たちは、"ウクライナの隣の国"という意識はありません。元々同じ国の住民として当たり前のことをしているだけです。」

 

ポーランドは過去にはウクライナをゆうに呑み込む、現在の国土の3倍もの巨大な国を築いたと思えば、各国からの侵略で分割され、1世紀余り地図から消えるという戦争の絶えない壮大な歴史を歩んできている。この様な歩みを刻まれている彼らにとっては決して他人事ではないのだ。

また、ウクライナもポーランドも民主化してまだ間もない国だ。このベテラン車掌らは、民主化前の貧しく不自由な時代も経験してきている。今まさに自由の為に戦うウクライナ人は言葉は違えど、漸く手に入れた民主化を死守して次の未来へ繋げて行かなければいけないという思いの同志なのだと感じた。

 

乗り換え駅に到着すると、イケおじ風の車掌がわざわざ私の席へ来てくれ、ウィンクをして知らせてくれた。

 



次に乗り継いだ駅の売店員や駅員に同じく質問を訳した画面を見せると、だれもが皆親切に対応してくれた。どの鉄道マンも共通して、「特別な何か」ではなく人として当然のこと、この仕事に着く上で当たり前のことをただしているだけだというナチュラルな姿勢がとても印象的だった。

 

 

負の遺産 ウクライナ国境近くのルブリン市へ







ポーランドの東、ルブリン駅に到着する。

駅の規模で言えば"各駅停車の新幹線が停まる駅"といった感じだ。電車を降りてゲートへ出るとすぐに目に飛び込んできたのはやはり「ウクライナ支援情報センター」の文字だ。さほど大きな駅ではないけれど、それなりの広さの部屋が用意されており、そこで避難民の為のチケット交付や食事の提供が行われていた。

 


●負の遺産、マイダネク強制収容所





私は駅を出てタクシーに乗り込み、マイダネク強制収容所跡地へと向かった。

マイダネク強制収容所はナチス時代、ポーランド人を中心に50万人もの人々が収容され、過酷労働とガス室で36万人もの人々が命を落とした最大の絶滅収容所で、戦後、世界で初めて一般公開された現在は博物館として運営されている場所である。

はじからはじまで歩けば何時間も掛かる広大な敷地には当時のままのガス室、遺体焼却炉、バロックが並び、正門から真っ直ぐ1キロほど歩いた先には【LOS NASZ DLA WAS. PRZESTROGA(私たちの運命をもってあなたに警告)】というメッセージと共に、犠牲者の御遺灰をこんもりと山に積み固められたモニュメントが共同墓地の様に展示されている。

 

戦争で命を落とした方々が灰になっても尚訴えるすぐ先ではまた同じことが起きていると思うと胸がざわつき、昨日出会ったウクライナの高校生たちの顔が浮かんで涙を止めることができなかった。

 

 

いよいよウクライナ国境の町ヘイムでのサプライズ


私は更に東のヘイムという、もう次の駅はウクライナという距離まで足を伸ばした。そこでもやはり同じように支援カウンターが設置されており、パラパラとウクライナの方達とサポートスタッフが出入りしていた。

 

今回私が乗車したルートは、ポーランドとウクライナを結ぶ鉄道の一つで、クラクフを経由してワルシャワへ到着する路線と併せて、開戦してから両国が避難経路として推奨している路線だ。

 

実際に来てみると、ウクライナ国境近くといえどポーランドは日本で想像していたよりもずっと安全だ。殺伐とした感じもなく、のんびりとした田舎町で、アジア人が珍しかったのか、パンデミック以降久々に外国人を見たのか、通りすがりの年配女性が「ウェルカム」と言いながら話しかけてきたりもした。

 

1時間ほど駅周辺を歩き、ワルシャワ行きのチケットを買う為カウンターに並んでいた時に電話が鳴った。

 

「息子がお世話になっております。宮島全の父親の宮島です。息子からお話は伺いました。明日の16時にお会いしましょう。場所はメールします」

 

私がポーランドにいることをSNSで知った友人の宮島全君が「僕も日曜から父に会いにポーランドにいくんです」とメッセージをくれていた。ポーランド在住のお父様がいるのであれば是非お会いしてお話を聞かせてほしいと願い出て、繋いでくれたのだ。

 

ワルシャワへ戻る車中、電車に揺られうとうとしていると宮島さんから待ち合わせ場所のメールがきた。それを見て私は目を疑った。

 

「明日お待ちしています」というタイトルのメールには、「公邸」とあったからだ。人は本当に驚くと二度見するものである。

 

メールにある"公邸"の住所を慌てて検索すると、ワルシャワ日本大使館の敷地内を差していた。

全君のお父様は2020年コロナ禍真っ只中に就任されたポーランド共和国日本国特命全権駐在大使の宮島昭夫さんだったのだ。

 

思いもよらない展開に、手土産どころか、名刺もなければスーツも持ってきていない事に気がつき一瞬顔が青くなったが、急な出来事だったのでそこはもはや仕方がない。ご無礼を承知で伺うことにした。

 

 

ポーランド日本大使公邸へ。


7.22 ポーランド滞在最終日

午前中は昨日の疲れからか、何もする気が起きなかった。午後になりなんとかカラダを起こして準備をし、先日のpcr検査陰性結果を日本政府のフォーマットに記入してもらいに再び検査ポイントへ向かった。帰国の準備も程々に、16時の待ち合わせ時間が迫ってきたのでUberでタクシーを呼び、公邸へと向かった。

 

大きな鉄柵の門には「日本国大使公邸」と書いた金色のプレートがある。やや緊張してきた私は一度大きく深呼吸をして、門の隣にあるセキュリティゲートで名前を伝え中へ通して頂いた。

 

綺麗に管理された敷地から建物へ入ろうとすると、ポーランド人であろう、いかにも紳士の秘書らしき男性が扉を開けて応接間まで案内してくれる。

広々とした応接間には立派な屏風と小さな茶室もあり、日本を感じることができる。どこか落ち着かず待っていると、足音が近づいてきた。

顔を上げるとスッと長身の紳士が爽やかな笑顔で現れた。左胸には、ポーランドと日本の国旗が交差した小さなバッチ、その隣にはウクライナ国旗のバッチを付けているのが目に入った。

私はハッと立ち上がり、ご挨拶をした後に宮島大使はすぐに名刺を渡してくださったが、予想外のことで私は名刺を持ち合わせていないことを伝え簡単な自己紹介だけを済ませた。

 

ソファに腰をかけるとすぐに「今回はなぜポーランドへ?」と投げかけられたので、ウクライナ難民の子どもたちが今どのような状況にあるのか、また、最大の難民受け入れ国のポーランドでサポートしている方々のサポートはどうしているのかなど、何か具体的に肌で感じたくきました。と伝え、加えて、先日ウクライナ難民の高校生とお話したこと、取材先で感じたこと、日本の皆さんが目に見える形で支援したいと願っている旨などお話させて頂いた。
宮島大使は「そうでしたか。そうして来てくださるのはとても嬉しいことです。」と言葉をくださり、戦争が始まってすぐの状況や現在の状況などを優しい口調で語り始めた。


2021
2月にロシアの軍事侵攻が始まってから、鉄道、そしてバスで350万人のウクライナ人がポーランドへ避難してきている。
現在においては、160万人がポーランドに留まり、その内100万人は民間の方々が個人宅に受け入れ、寝食を提供しているという。日本へも避難民ビザで約2000人のウクライナの方々を受け入れている。

 

ポーランド人の90%以上がカトリック教徒なので、慈善の精神が目の前で困っている人たちを助けるという一つになっているのも大いに想像つくのだが、その他には、ソ連崩壊後、1999NATO加盟、2004年のEU加盟あたりから、ポーランド一人当たりの実質GDP(自国通貨ズロチ)が3倍にも急成長をしている。ポーランドでの平均所得は日本の初任給ほどだというがワルシャワを歩いていていても飲食店やデパートにはどの時間も人が多く、生活水準の高さが肌で伝わってくる。飲食店では東京とさほど変わらない金額で食事を済ませることをできるが、Uberタクシーの初乗りが200円しないほど、スーパーへ行くと生活雑貨や化粧品などの消耗品がとても安く、円安の影響を感じないほどだった。

これほどまでの沢山の人々を民間人が自宅に招いて支援するには、ある程度の経済的余裕があることも必要だと考えれば、このGDPの成長率というのも一つ助けになっているのに違いない。


求められる"日本らしいさ"
とはいえ、子どもたちが夏休みに入ると、子どもも親もずっと家にいる状況が続き、支援者の生活疲労はもちろん、財力への負担も重くのしかかる。
実際、長期化する中で、ボランティアの数、募金数も減少傾向にあり、やはり財政力がないと彼らのサポート力の継続は難しくなってくる。
自主的支援をされているポーランドの方々にも生活がある。海外から支援に来ているボランティアの方々にだって生活がある。「支援者への支援」が現在最も大きな課題となっており、日本がどのようにサポートしていくのが良いのか、日本とポーランドで手を組み、どのようにウクライナをサポートしていくのがよりよい道なのかが大きな宿題だ。

ポーランドで託児所や女性へのサポートなど、具体的支援をする日本人の方々も数名おられる。開戦して間もなくには、ポーランドでラーメン屋を営む日本人がウクライナ国境近くで支援をする方々にラーメンを振る舞ったという。その際には、極寒の中しばらく温かいものを口にできていなかった方々に大変喜ばれたそうだ。また、日本企業からパロというアザラシ型の癒しロボットをメンタルサポートをする病院へ寄付があったり、ハンディキャップのある方やお年寄りの方へのサポートとしては、足場の悪いところでも移動ができるように、「JINRIKI」という日本の人力車の発想から、押すではなく、けん引式の車椅子補助のアイデアを提供している日本人の方のお話しも印象的だった。

宮島氏は、「心はもちろん、技術や知恵など、日本人らしさでサポートできないかと考えている。」と語る。



ロシア軍事侵攻開戦4日目の状況


宮島氏は話をしている途中で突然席を立ち、少しすると小さなアルバムを両手で大事そうに持ってきた。
アルバムを開くと、山積みの衣類やぎっしり並ぶベッド、子どもたちの写真があった。
開戦4日目の写真だという。
福祉センターには床、壁が見えなくなるほど山積みの衣類や水などがぎっしりと積み上げられている。全てポーランド国内から集まった物資だ。

福祉センターや駅に設置された避難所には、日本の避難所で目にする段ボールでの仕切りなどはないノンプライバシー状態のベッドが500はあろう数がギッシリと隙間なく並ぶ。それでも間に合わずに床に毛布を敷いて寝る子どもの姿もある。200万人の避難者を収容するのは到底容易ではない。

駅のコンコースには避難民たちがひしめき合い、その中に何かプラカードの様なものを手に高く持つ人も見られる。
個人宅で寝床の提供をしようとポーランド在住の方々が自ら段ボールに「3人までなら我が家で部屋を提供できます」など段ボールに書いて立っていたのだ。駅についたばかりのウクライナ人はその段ボールに書かれた内容を見てその場でマッチングする。これは、3.11や熊本災害などの大規模災害の際でも、日本では絶対に見ることのない光景だった。

また一枚アルバムをめくると、たくさん厚着をした上にダウンを被った4歳くらいの可愛らし少女が、和柄の折り紙を嬉しそうに手に持ちカメラ目線でウィンクしている姿が写っていた。
この時、宮島大使はこの目の前にいる小さな少女の前に膝をつき折り紙を出したものの、折り紙をどう説明したらよいものかとモジモジとしていたら、「おりがみ!」と女の子が手に取り笑顔になったそうだ。するとその少女の母親も子どもの笑顔を見てスーっと表情が和らいだという。
「少女は折り紙を手に持ち、私に向かってウィンクしたんです。写真撮ってもいいかとジェスチャーで伝えるとOKと。この少女の笑顔は私にとっても宝物です」

宮島大使の表情はとても優しく、人の親の顔をしていた。

「どの仕事においても、"自分はここで何をしたのか"。自分でも問われるんです。」
3.11.
の際には官邸の緊急支援隊の受け入れ調整についており、世界中からの支援の調整を行なっていたという。その際には、本当に世界中から沢山の支援を目の当たりにし、これら支援をくださった世界中の国々、方々を忘れてはいけないと感じたそうだ。そして、ポーランドに来た現在も同じようなことが起こっている。



「忘れて欲しくない」


離れた日本にいると、日々のニュースに翻弄されて忘れてしまいがちだが、間違いなく戦争は継続しているし、ボランティアの方々の精神力、経済力の維持を支えるサポート体制、避難民の雇用、教育、住居の問題について、まだまだ先の見えない中での大きな課題だ。更にこれから冬に向かって行くのにあたり、樺太と同じ緯度の極寒地においてこれは大変な問題となっている。

「忘れて欲しくないのです。忘れられては困るのです。」と宮島大使は何度も語っていた。

 



未曽有の事態は決して記憶から消してはならない。そして必ずそこには支えてくれる誰かの存在がある。思いやりの連鎖で世界を一つにしていきたい。改めてそう感じた旅だった。

以前もこちらで一部記述しましたが、改めて記事として報告させて頂きます。

ウクライナ並びに、支援大国ポーランドの現状を少しでも知って頂けると嬉しいです。

肌で感じたことをそのまま皆さんにシェアさせて頂きます。

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40代女単身でウクライナ国境へ行く。1/2

 

日本は終戦から77年を迎えた。終戦記念日には平和記念公園で献花をする人々の姿がメディアで写し流される。

私の祖父は19才で満州へ行き数年間兵隊として戦って生還した。左腕には銃弾で撃ち抜かれた傷跡があったのを今でも覚えている。

夏休みの父の実家へ遊びに行った際、一度だけ、戦地の様子を語ってくれたことがあった。

 

「敵の兵士と出会しても殺すことなんて出来なかった。同じ人間だと思うと絶対に殺せなかった。敵国の兵士と出会した時には先に銃口を向けた方が勝ちなんだ。とにかく先に銃口を向けて逃してしまっていたよ」

 

繰り返してはならないと世界中で平和を願う人々が口にする。しかし海の向こうでは現在もそれぞれの"正義"を掲げて今も戦争が繰り広げられている。ロシアのウクライナ侵攻直後はとてもショッキングなニュースに、日本にいる私たちも皆やるせない暗い気持ちになったものだが、今では日常に追われすっかりと頭の外にある人も多い。しかし、間違いなく戦争は今も続いている。

ウクライナ避難民受け入れ大国のポーランドは、アウシュビッツ、マイダネク強制収容所などの負の遺産が多く残る。

そうだ。今だからこそ、この目で見ておかなければならない。

全身に稲妻が落ち、すぐにポーランド航空LOTのチケットを予約した。

 

ポーランドへ出国



7.17 

成田空港第一ターミナルのカウンターは不気味なほど静かで、自分の足音が天井に響く。

22:50成田発のワルシャワ行きLOTに乗り込むも、ポーランド人と日本人の組み合わせカップルがパラパラといるくらいで、単身でいるのは私ともう1人の日本人男性くらいなものだった。搭乗率は30%というところだ。

直行便とはいえ、ロシア上空を飛行できない現在、片道14時間という長旅にやや憂鬱感を感じていたがエコノミーでも三列シート独占にてすっかりとカラダを横にし、快適なフライトだった。



飛行経路を見ていると、ロシアとウクライナ上空を避けるルートを示しており、黒海からポーランドの東側、つまりウクライナに近いエリアからポーランドに進入していた。

 

着陸体制に入り上空から地上を見下ろすと地平線まで平らで広大な畑が広がっている。ポーランドは、「平原の国」という意だというのがよく分かる地形だ。

 

今回滞在は6日間。帰国時には72時間以内のpcr検査で陰性証明をゲットしなければならないという事を考えると、到着二日間はなるべくタクシー移動、人混みを避けながら、街の様子をリサーチするに過ぎなかった。

 

ポーランドの歴史に触れる

7.18

早朝にワルシャワに到着。タクシーでホテルへ向かいチェックインを済ませ、すぐにワルシャワ旧市街へ向かった。

旧市街の王宮広場にウクライナ戦で没落したロシア戦車が二機展示されていると情報を得て行くも一足遅く撤去されていた。

肩を落としながらもこじんまりとした旧市街を歩くとなんとも美しい街並みだ。

 



ここ旧市街は、13世紀ころから王宮を中心に発展していった美しい街だ。しかし、第二次世界大戦でドイツ空軍により街は壊滅。戦後、ポーランドはドイツとソ連に分割占領され、ワルシャワ旧市街はソ連カラーの街に作り替えられる計画だったが、ソ連崩壊後、40年もの歳月ののち、レンガのヒビ1つ、絵画のシミすらも厳密に復興再建され、「破壊からの復元及び維持への人々の営み」が評価され世界遺産登録へとなった世界にも稀にみる場所となっている。

王宮広場から一本路地を入りすぐにある洗礼者聖ヨハネ大聖堂はワルシャワで最も古い教会で、1791年に行われたヨーロッパ初の成文憲法である「53日憲法」の憲法宣言が行われた場所でもある。

 

旧市街を歩いていると、窓辺に青と黄色のウクライナ国旗を垂らすアパートメントの部屋がぽつぽつと目につく。

王宮広場には、背中にウクライナの国旗を巻いて観光客に声をかけながら歩く少女、少し離れたところには、首からプラスチックボックスをぶら下げて募金活動をしている少年たちの姿があった。

pcr検査が終わってから再び彼らに会いに来ようと取材の目処を立て、この日はホテルへ戻った。

 

ウクライナ難民の高校生たちの今

7.20

pcr検査を受けてからは、いよいよエンジンがかかり、旧市街へ再度足を運ぶ。先日よりも募金活動をしている少年たちが多い印象だ。

私は声をかけられに彼らに近づいた。

そうすると、首からIDと募金箱をぶら下げたひとりの少年が綺麗な英語で声をかけてきた。日本人だと伝えると、 「日本すごく憧れの国です。街は綺麗だし、人はみんな優しい。本当に好きな国です!」と少し興奮した様子。 

「アニメ、漫画も好き?(笑)」 

「あはは!もちろんアニメも!」 

いくつかの会話を交わしながら他の少年のところへ歩き、数人と話をした。

 

彼らは激戦地ドンバス地方が故郷の高校生で、開戦間もなく母親とポーランドに避難して4ヶ月が過ぎるという。

ポーランドで学校へ行けていない子、学校へ行ってもポーランド語が分からず孤立する子、英語が話せるので学校でなんとかやっていけている子、状況は様々だ。

現在、ちょうど夏休みで、英語が話せる有志が集まり、募金活動をしているとのことだった。

彼らは、「今自分たちにとって重要な仕事は、この活動を通してウクライナのことを周知すること、そしてウクライナを支援することだと強く信じている」と力強く語っていた。

彼らの父親はウクライナに残り兵士として戦っている。そんな状況でありながらも彼らは私に笑顔を向け、とても毅然としていた。

 

一緒に避難してきた母親は、ウクライナで看護師や、大手企業でキャリアウーマンとして活躍していたが、避難後はポーランド語を話せないので、定職に就くのが難しいという。

 





今最優先すべき課題

今彼らに必要なものは、住む場所はもちろんだが、何よりも母親たちが定職に着くこと。つまり、生きていく術を手に入れることなのだ。現在、避難民の母親の50%がポーランド国内で定職についているという。しかしそれは言うまでもなく前職のキャリアを活かした仕事ではなく、パン屋やハウスキーパーなど、働けるところでとにかく必死に働いているという状況だ。

 

少し酷な質問ではあったが、「ウクライナのお家に帰りたい?」 と投げかけると、みんな揃って「・・・・I don't know」と大きなため息を何度もつき、目にうっすら涙を浮かべた。

「もう家も壊れているし、帰るなら家を建てなくちゃいけないけどそれも難しいと思う。分からないけど、、、。」 

みんな故郷を離れ、それぞれ新たな土地で生きていかなければいけないという覚悟があるようだった。

彼らはこれからこの現実をどう受け止めて生きて行かなければならないのか。私に子どもがいたとするならば息子程の年。思えば思うほど、胸が苦しくなり目頭が熱くなった。最後はみんなと笑顔で「Good luck」といいながらハグをして別れた。

 

 

難民支援ポイント









彼らと別れた後はワルシャワ中央駅の支援ポイントへ足を運んだ。

駅構内に入ると、1階メインフロアのど真ん中に大きなカウンターが2つ設置されている。

ポーランドはウクライナ難民最大の受け入れ国だ。その数、これまでに350万人を超えるとされる。現在、ワルシャワ中央駅はウクライナ難民の避難サポートのハブとなり、各国への避難をサポートしている。「ヨーロッパ最大の人道援助センターRTAK」と書かれたカウンターでは沢山の人たちが用紙に記入している姿があった。24時間対応で、主に、スペイン、イタリア、ドイツ、フランス、スウェーデンなどのヨーロッパ各地に定期便バスで避難サポートをしている。

 

駅のエントランス目の前では、腕にカナダ国旗、イギリス国境のエンブレムを付けたアーミーたちが、「World central kitchen」という看板を出してテントを張り、食事の支援を行っていた。少し離れたところからテントの中を覗くと、50名くらいは入れるだろうテーブルが設置してあり、多くの女性と小学生くらいの子どもたちが食事をとっていた。

 


駅周辺では、ヘルプミーと言いながら明らかに偽難民もいるので注意が必要だ。この期に及んで同情を引きお金をせびる不届き者もいる。



●続き↓

40代女単身でウクライナ国境へ行く2/2