日本国内で生活していると、日本人がいかに賢い民族かという事に気が付かない。 なぜならば、どんな阿呆でも、大抵は最低限の賢さを備えているから(もちろん例外もあるが)。 しかも、それを個々が無意識のうちに駆使し、その場の誰とでも暗黙の了解で事が進んでいる。 たまにヘマする人がいても、その人は失敗した原因に気付き恥をかく。 これって実は、とても素晴らしい事なんだ。
昨日、Bさんに聞いた話。
先日、とあるバス停に、それはそれは大きな水溜りがあったそうな。
バス停の壁には、つい今しがた泥水を被った水の跡があったそうな。
自分がそのバス停でバスを待たなくてはならない場合、皆さんならどうするだろう? 恐らくは、その泥水を被らぬ場所へ移動し、そこでバスを待つだろう。 これが状況判断というものであり、日本人の多くは無意識のうちにそれを行っている。
Bさんがバスを待っていると、スペイン人たちが泥水に塗れた壁を背にして、ぞろぞろとバス停に並び始めたそうな。 そして数分が経過した頃、ものすごい勢いでバスがロータリーへ数台雪崩れ込み、それらが減速もせず次々と目の前の水溜りをスプラッシュして行ったそうな。 当然、並んでいたスペイン人たちはおもむろに泥水を被り、「Ehhhhhhhhhh!!!」と怒り狂っていたそうだが、なおも彼らはその場から動こうともせず、通り過ぎたバスを睨みブツブツと悪口を言っていたそうな。
そして待望の二段オチ。 目的のバスが豪快に水しぶきを立て目前に停車。 またしても泥を引っ被り怒り心頭なスペイン人たちは、こぞってバスの運転手に文句を言っていたそうな。
Bさんはこの阿呆なスペイン人たちを見て、「この国の本質を垣間見た」と語った。 少し考えれば容易に察しの付く事なのに、まず「考える」という事をしない。 そして、その身をもって経験した事象から何も学ばない。 「誰が悪い」「私は悪くない」といった端的な責任問題だけを注視し、自己防衛・危機管理などの自助努力を省みない。
トラブルを解決する上で大切なのは、「誰が悪い」だけではない。 何故そうなったのか、どうすれば防げたのか、自分に何ができたのか、そこを考えてこそ真の解決と言えるだろう。 しかしスペイン人の多くは、この理論が理解できない。 「私はただバスを待っていただけ。バスがゆっくり入って来れば何もトラブルは無かった」の一点張りになる。 「少し避けて待つとか、頭を使えばいいじゃん」と反論しても、「どうして私がそんな事を考えなきゃいけないの?バスが気を付ければいい事でしょ!」と怒るだろう。 そして情けない事に、こうしていがみ合った激論の末に学習するのは、「バス会社は責任を取ってくれない」という事だけなのだ。
もちろん、スペイン人もこんな阿呆ばかりではない。 賢く振舞う人だっている。 だが、それは極めて稀である。 事実、このバス停の件で並んでいた15人ほどの人間のうち、水しぶきを事前に避けていたのは日本人のBさんだけだったというのだから。
どうしてこんなにも状況判断力が鈍いのか。
それはスペイン人の教育方針にあると、Bさんと俺は考えている。
たとえば子供が道路を走って転んで泣いた時、日本人なら「こんな所で走っているから転んだんでしょ」「自分が悪いんだから泣かないの」なんて、あえて厳しく接しているのを目にする。 物心付くまでは理解できない説教だが、それが繰り返される事によって潜在的に、失敗の原因を咎められるという恐怖心が根付き、自ら失敗の原因を分析するようになる。 その結果が「賢い日本人」。
スペイン人の多くは、子供が転んで泣いたら「おお、かわいそうな私の愛しい子!!」とキスしまくり、痛い所が無いかを探るだけ。 子供が転んで泣く度にこれの繰り返し。 これによって子供が学ぶのは、騒げばママが慰めてくれるという事。 辛い事や悲しい事があれば、騒げばいい。 言葉が話せるようになったら、声を大にしてそれを訴えればいい。
こんな教育を受けているから、原因究明という根本解決の概念が根付いておらず、何か起きればすぐに騒ぎ、「かわいそうなのは私なのよ!(つまり悪いのはあの人なのよ)」という主張をしてしまう。
海外生活をしている人の「外国人と口論になった話」を聞くと、その原因がどうであれ、大体相手の外国人は「私は悪くない、あなたが悪い」という主張を崩さないパターンだ。 稀に非を認めたとしても、そこには必ず言い訳や責任転嫁がある。 問題の根本を解決しようという意志は始めから無く、「私が悪くないという事をどう主張するか」しか考えていないように思える。
こっちへ来る前、幾人かの友人から「あいつらは結局、自分の事しか考えていない」なんてよく聞かされていたが、初めの頃は「そんな事ないじゃん」なんて思っていた。 困った時にはさっと手を貸してくれるし、見返りを求めず親切にしてくれる。 もちろんそれは事実であって、(俺の周りの)スペイン人の良い所だと思う。
だが、何かトラブルがあった時、彼らは普段どんなに親切であっても、手のひらを返したように責任を押し付けてくる。 自分の非を認めず、相手の非ばかりを叩く。 相手がどうしようもない状況で生じたトラブルであっても、そんな相手の都合はお構いなし。 自分さえ良ければそれでいい。
スペイン人同士のトラブルでは、両者共に一歩も譲らないので、最終的には「とにかく私はこうだから!!!」と最後にお互い言い放ち、何も解決しないまま終幕。 その後は、時と場合にもよるが、何事も無かったかのようにケロッと忘れて(本当に忘れる)今まで通りに振舞う。 友人・夫婦・恋人・親子、ありとあらゆる人間関係でこうなのだから、本当に驚かされる。
という事で、日本人の気配りや状況判断能力というのは、日本の財産なんだとしみじみ感じさせられる今日この頃。 ついでに責任感というのも、日本人の持つ素晴らしい感性だと思っている。
たとえ「窮屈な日本人」と笑われても、同じ過ちを何度も繰り返すよりはマシだと思っているから、俺は日本人のこの感性を大切にして生きたい。
もう言ってしまうよ、馬鹿と。
旦那ママが、あれだけ叱ったにも関わらず、再びお金を借りに来た。
しかも今回は俺に内緒で、こそこそと旦那に相談したらしい。
そして旦那も馬鹿だから、ママに言われるがままお金を渡した。
たったの30ユーロが足りなくなるって、一体どういう事だ?
毎月決められた範囲で出費を抑えなきゃならんのは分かっているのに、それでも周りに流され、欲に流され、ヘラヘラと散財した結果がこれだろう。 いい歳してみっともない。
ビンゴで300ユーロも浪費する余裕があって、薬を買うお金が無いと泣き付かれても、俺は全く同情しない。 俺はそのビンゴで散財したのと同じ300ユーロを稼ぐ為に、睡眠を削り解熱剤を飲んで仕事しているんだ。 旦那パパからの仕送りで暮らしている身分で浪費して、挙句の果てに息子へお金を借りに来る人間を心底軽蔑する。
「薬を買うお金が無いんだから仕方が無いだろ」
そう言う旦那は本当にマヌケだ。
薬を買うお金が無いのではなく、薬を買うお金をギャンブルで使い果たしてしまっただけではないか。 少し考えれば分かるだろう? 薬を買わなきゃならない事は分かっているのだから、その分は確保しておかなきゃならないという事くらい。 しかも、命に関わる薬なのだから、俺ならひと月分だけでなく、数か月分は買えるだけのお金を常に確保しておく。 死にたくないから。
どうせママの頭の中では、「命に関わる大事な薬だから、それを買うお金くらい息子が工面してくれる」という甘えがあるのだろう。 でなきゃ、こんなに大切なお金をギャンブルで使い果たしたりしない。
キツイ言い方にはなるが、痛い目に遭えばいいんだよ。
薬が無いとどうなるかを身体に叩き込むしか無いんだよ。
飢えの苦しみを知っているから、生きるのに必要な食料は大量に買い貯めているわけだし。 それと同じように、病苦と薬の重要性を身体で覚えれば、もう少し賢く振舞うだろうよ。 こうでもしなきゃ分からないんだよ、馬鹿だから。
「あなただって、クリスマスプレゼントを買うお金が無いって言っても、iPhoneは買ってるじゃない」なんてね、君にだけは言われたかないわ。 俺は仕事に必要なんだよ、出先でも日本語メールを表示できる携帯が。 同じ次元で考えてもらっちゃ困る。
自己啓発本のようなタイトルになったがドンマイ。
俺の周りには、料理好きな人や調理師が多いけど、同じくらいに「料理下手」も多い。 特に、日本にいる俺と同じくらいの歳の女友達は、ほとんどが料理苦手。 格好だけ真似てル・クルーゼの鍋やお洒落な食器は揃えているけど、作る料理はインスタントラーメンやパスタ(もちろんソースはレトルト)とか、そんな感じ。
今、高校生のマヨチンが頑張って料理を勉強している。
ちゃんと自分で作り、味を見て、自己採点までしている。
まだ上手じゃないと言っていても、悪かった所を確認し、次の課題を自分で用意し、「料理は楽しい」なんて言っている。 これってとても良い事だと思う。 勉強とはこういう事だから。
こういう姿勢があれば、今がどんなに下手でも、5年後や10年後には同年代の女性との間に歴然な差が生まれる。 社会に出てからは料理に時間を割く余裕も無くなるし、一人暮らしで自活していれば、外食で済ませる事が多くなりがちだから、そこで初めて「私って料理下手!」と感じても、わざわざ勉強しようと奮い立つ人は少ない。 食べれるレベルならそれでいいや、みたいな。
一人分の食材を揃えて料理をしても、外食の方が安く上がるご時勢。 まして外食の方が美味しかったりすれば、自分で料理をするメリットすら無くなり、ますます料理から離れてしまう。 一度離れてしまうと、それに関するあらゆる情報を無意識のうちにシャットアウトしてしまうから、料理への関心は失せ、知識も何も身に付かないまま過ぎてゆく。
その結果、「米の研ぎ方が分からない」 「野菜の茹で加減が分からない」 「肉の焼き加減が分からない」 「調味料の使い方が分からない」……といった、「料理下手」になってしまう。
なにも、完璧に美味しい料理を作れる必要は無い。
まぁ、作れるに越した事は無いが、食への興味・関心を絶やさず持ち続ける人は、少なからず食への敬意を持っている。 人の作った料理に「どうやって調理したのか?」と興味を抱いたり、「ここはこうしたら美味しくなるのか」と新たな知識を培いながら、人の手の掛かった料理を食すようになる。
これが常となれば、料理の腕や勘も上達する一方で、気付けば「料理上手」になっている。 料理学校に通わずとも、人を喜ばせる美味しい味を作り出す基本を手探りで習得する。 家庭で料理を振舞うくらいなら、このレベルで十分。 十分過ぎると思う。
なので、食べる事が好きな人には、自分で作るのも好きな人が多い。
食への情熱無しに知識と技術だけで作られた料理は、味は調っていても感動が無いのだが、食を愛する人の料理にはガッツリ胃袋を掴まれたりする。 それはやはり、日々感じ取った些細な情報が料理に活きているからだからだろう。 そこには食べる人への配慮や思い遣りもあって、心から有難く食す料理となる。
マヨチンには、是非このまま料理を続けて欲しい。
包丁を使わずハサミで調理をする人が増えている昨今、わずか高校生の日本人の女の子がキッチンに立っているなんて、やっぱ日本を遠く離れていても、同じ日本人女性として誇りに思うわけだ。