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今朝掃除をしているときに

祈りは苦しそうにやることじゃない

と頭に浮かんできました。

(掃除中に浮かぶことが多いな😅)


実は掃除中に

広島市の平和記念公園で起こった出来事を

思い出していました。



平和記念公園で風景の写真を撮っていると

背後から声をかけられました。


振り向くとそこには

ひとりの男性が立っていました。


わたしは

写真撮ってほしいのかな?と思って

男性の顔をみると


目線が合わず、

生気を感じられない瞳をしたその男性は

「あなたの為に祈らせてもらえませんか?」

と言いました。


暗い瞳と近すぎるおかしな距離感に

一瞬で無理!!と思いました🙅‍♀️


わたしは

「いえ!結構でっす!!💨」と言って

その場を去ろうとしました、が

その男性がなおも食い下がってきたので

もう一度はっきりと


結構です!!!プンプン


と言って少し先で風景の写真を撮っていた

夫のもとに行きました😅



他人の為に祈ろうとする行為は

とても素晴らしく尊いことだと思います。


だけどわたしにはその男性が

誰かの幸せを祈ってあげたという満足感で

自分が苦しさから救われたい

とみえてしまいました。




わたしが祈るときのイメージは

うまくいえないですが、


わたし自身が

お日様の暖かい木漏れ日のなかに居て

(木漏れ日がある場所が好きなので)

わたしの細胞ひとつひとつが

その温かさを感じて幸せを感じている気持ちを

祈りによって送る、そんなイメージ

ただそれだけです。


祈りって

祈られた対象が

その祈りのエネルギーを受けるものだと思います。

そこに自分のエゴ

こうなって欲しいという願いはいらない。


自分のエゴや願いが入った時点で

それはもう祈りではない、とわたしは思います。


もし誰かのために祈るとしたら

わたしは幸せだから

その幸せを少しおすそ分けします

くらいで良いんじゃないでしょうか爆笑



急遽広島に泊まることになり

たまたまホテルから近かったと理由だけで

平和記念公園を訪れることになり

そこで男性に声をかけられたことは

祈りについて改めて自分の考えを認識する

良い機会になりました。


起こることには全て意味が有る、

最後まで読んで頂きありがとうございます。