最近では、コーダを取りまく周囲の方々にも、コーダに関していろいろと話を聞いたりしている。
じっくり話を聞くと、コーダに対するちょっとした違和感をおぼえ続けてきた人もいることが、わかる。
ある看護師の語りでは。
「ある日、聞こえない女性の方が入院してこられて。ご主人も聞こえなかったんです。
そのご夫婦への説明は、確か小学校5,6年生くらいのお子さんが通訳してくれたことを覚えています。」
おー。小学生コーダちゃん。がんばったね![]()
看護師の方の話は続く。
「で、最初は、さすが聞こえないご両親のもとで、すくすくと優しい子に育ったんだね、すてきだねって思ったんです。」
「だけど、来る日も来る日も、その子が通訳をするんです。
さすがに負担だろうと思って、こっちは親に向かって、ゆっくり、筆談もしたりしながら話すようにしてみても、答えるのはやっぱりその小学生の子どもなんです。
なんか、これでいいのかな、というモヤモヤした気持ちは、今でも覚えています。」
たぶん。
その小学生コーダは、優しい気持ちとかではなくて。
通訳をやるかやらないかの二択で。
たぶん、そこに困っている親がいるから、通訳するしかない方を選択しただけであって。
それは、熟考した選択ではなくて。
小さな頃から、なんというか、もう染み付いたやり方であって。
親からも、「通訳して」と言われないまでも、できることなら通訳してほしいという、最後の頼み綱的なオーラを敏感に感じ取るわけで。
通訳しないという選択肢もあるけれども。
そうしたときには、「親不孝」というレッテルが貼られることも、小学生なりに感じ取る。
これは苦しい。
そしておとなになってから、「親を助けないことは親不孝だと思い、全ての責任を自分で背負い込もうとして、ときにいろんなものを犠牲にしたりもする」タイプのコーダになっていくことも。
このことは、以前に書いた、こちらを。