小説「15年目の終着駅」


作:安藤珍平


第17章 [出来事 -男①-]


この日、早坂は朝から慌てていた。

仕事は休みの日だったが、朝7時前には本社に到着し、正面玄関で佐治を待ち構えていた。

そわそわしながら、来る人来る人チェックしていると、やっと目当ての人物、佐冶勝男の姿を見つけた。

先に声をかけたのは佐治だった。

「おー、早坂じゃねぇか。どうした、こんな朝っぱらから?焼き肉屋にでも連れてって欲しいのか?」



「佐治さん。ちょっと大変な事になってます。」


「なんだ。どうした?キャバ嬢にでもふられたか?」


いつになく深刻な顔をした早坂は、黙ったまま佐治の腕を掴むと、そのまま足早に会議室へと連れて行き、佐治を押し込むなり、ドアを閉め切った。



「佐冶さん。かなりまずい事が起きてます。まずはこれを見てください。」

早坂は慌てた様子でノートパソコンを開いた。




佐治は怪訝な顔をしている。

「一体なんなんだ?こんな朝っぱらから」





パソコンが起動すると、動画投稿サイトを開き、再生タグをクリックした。



「これです。見て下さい。」


映像が流れ出す。








佐治は、自分の目を疑った。



優子が旦那に暴行されている映像だ。


「なんだ、これは?」



優子が東京に帰るきっかけとなった例の出来事。養殖場で元旦那が優子に暴行している映像だ。


続いて流れ出したのは、優子と元旦那とのベッドシーン。

裸や秘部はハッキリとは映っていないものの、、顔は、優子の事を知っている人ならばすぐに認識できる程鮮明だ。


「こいつはマズイな。」
佐冶は煙草に火をつけた。



「すでに、ネット上で氾濫しています。最も多いサイトでは7万レビューを越えています。」
早坂の顔は青ざめきっている。



「問題は、優子ちゃんの事を知ってる人間に見られ時だな、、、この映像の出処は一つしかないが、、それにしても一体なぜ、、」

佐冶が言葉を詰まらせた。




「それと、この映像、明らかにおかしな点があるんです。」


早坂は、もう一度再生タグをクリックした。

「ここです。見て下さい。」



佐治がパソコンを覗きこむ。

養殖場の前で暴行されているシーンだ。見れば見るほど痛々しい。


「佐冶さん、養殖場の前のあの道路、詳しく憶えてます?ここに僕のトラックが停まっていて、ここがフェンスで、この先が養殖場で、その先は海です。ほら、、変ですよね、、」


確かにおかしい。

「もう一度、見せてくれ。」

明らかにおかしい。この映像はアングル的にありえないのだ。道路にいる優子達をこの画角で撮るには、養殖場の水面あるいはその先の沖の方、海のど真ん中あたりから陸地に向けてカメラを構えないと、この角度での映像は撮れない。海の中から撮ったとでもいうのか?


「一体、どうゆう事だ?」



とにかく新潟に行って、何か手掛かりを探すしかない。佐冶と早坂はすぐに有休を申請した。


すぐにでも新潟に向かいたかったが、佐治はまず優子の父親にアポイントを取った。自分の娘の事だから、相当なショックを受ける事は容易に想像がついた。話すべきか否か一瞬悩んだ。だが、あの時、優子の父親もあの場所にいた為、父親が映っている映像も抑えられている可能性が高い。それに、父親の助けが必要になってくるケースも想定されたので、一刻も早く報告する事にした。



優子の父親はさすがに動揺していた。自分の娘の痛々しい映像をまのあたりにしているのだから、無理もない。


話しあった結果、
優子本人にはまだ話さない事にした。



佐冶がナイジェに尋ねた。「なー、ナイジェ、あの晩、玉子焼きを撒きに行った時、おまえさんかなり周囲を警戒してたよな。養殖場に何か不審な点は無かったか?」

「オレ視力2.9。海ノ先マデ見テタ。会長モイタカラ、イツモヨリ警戒シテタ。海何モナイ。人、カメラ、ナイ。養殖場の杭モ良ク見タ。不審ナ点ナカッタ。」

佐治が続ける。
「あのまっ暗闇だ。かなり強めのストロボでもたかない限り、これだけ鮮明な映像は撮れないだろ。杭の辺りや海の方で何か光ったりは記憶にないか?」


「光、ズット先ノ灯台ダケ。他ハ何モ無イ。マッ暗。」


「なるほどな。だが、事実、この映像が存在してるって事はだな、海から陸を向いてるカメラがどこかにあったて事だ。誰かが水の下に潜って水面からカメラだけ出してたってのは考えにくい。そんな動きがあったらナイジェが気づいただろう。可能性としてあるのは、杭にカメラが設置されてたって事だな。赤外線カメラ、いや、軍隊なんかが使う様な、かなり高性能の暗視カメラかなんかだろう。」

佐冶が続けた。

「厄介なのは、お父様が映ってる映像も抑えられてる可能性が高いって事だ。優子ちゃんを助けに行った時、それから、俺たち五人で玉子焼きを撒きに行った時。二回もあの場所に行っている。東京の大企業の会長が私有地のフェンスまたいで海老にタマゴ焼き配ってる映像なんざ、洒落にもなってない。」



父は言った。
「私の映像はかまわないが、優子が心配だ。これだけネットに氾濫していたら、今から全てに削除依頼を出してもイタチごっこにしかならんだろうし。」



「お父様、取り急ぎ新潟に向かいます。何か状況分かり次第、至急で連絡致します。」
佐治はすっと立ち上がると、足早に部屋を後にした。


佐冶と早坂、それからナイジェの三人で新潟に向かった。



早坂の運転技術は相当なものだ。
右へ左へと車をすり抜け、常時160キロで関越を北上している。予定よりもだいぶ早く着けそうだ。


車の中でも話し合いは続いた。



「もしかしたら、海老泥棒でもいるんすかね?その対策用に防犯カメラを設置してるのかも、、」


佐治が答える。
「それは変だろ。海老泥棒対策なら、隠しカメラなんか仕掛けるより、一目でそれと分かるくらいのデカデカしたやつ設置する方が、よっぽど抑止力になる。」

早坂が力なげに答える。
「それもそうっすね。」


あの場所に目立たない様に防犯カメラを設置するというのは、どうにも整合性がない。一体何の為に?

そして、何故、その映像を流出させたのか?


他の日のベッドシーンもある事から、映像に元旦那が関わっている事は間違いない。だが、何故それを流出させたのだろう?婦女暴行の決定的な証拠映像を故意に流出させるだろうか。





優子がこの映像の存在を知るのは時間の問題だ。

新潟に行って何か分かったところで、すでに映像が氾濫してしまっている事は、もはや、どうにもならない。
だが、それでも今できる事は新潟に急ぐ事以外、何も浮かばない。




新潟に着くと、近くのビジネスホテルにチェックインして夜が更けるのを待った。三人は深夜0時を回った頃に養殖場に侵入した。



用意していた暗視スコープで周辺をくまなく詮索したが、何も出てこない。海の中、杭の周辺あたりも目を凝らしたが、何も見つからなかった。


「ワカラナイ。アノ映像ドコカラ撮ッタ?何ノ為ニ撮ッタ?」


しばらく車で待機する事にした。

朝の太陽を待って、もう少し明るくなってから再び捜査を再開する事にした。

交代で見張りをしながら、一時間ずつ仮眠を取った。

佐治は運転席のシートを倒すと、ダッシュボードに足を放り投げ、煙草に火をつけた。

「明るくなってからの捜査でも何も出てこなかったら、、そん時は、元旦那を問い詰めに行くしかないな。」



佐冶は養殖場をぼんやりと眺めながら優子の事を考えていた。

「優子ちゃんがこれを知った時、どうなってしまうのだろうか。さすがに大きなショックを受けるだろう。何て声をかければ良いのだろうか。」


灯台の光だけが粛々と水面を照らし続けている。


何の変化も起きない目の前の景色を、ただぼんやりと眺め続けていた。




「ちっ」

煙草を切らした事に気づき、一旦、コンビニにでも行こうかと悩みはじめた時、





その時、突然、


養殖場の水面の一ヶ所から、ブクブクと何かが浮かび上がってきた。



全神経を目に集中させる。


水面から黒い影が浮かびあがってくる。








人だ。


水の中から、人の顔が浮かび上がっている。




「おい。起きろ。」

ナイジェと早坂はすぐに飛び起きると、佐治が指差す方に目をやった。




「なんだ、あれ?」

ナイジェと早坂が息を呑んだその時、佐治は勢いよく運転席のドアを蹴り開け、飛び出した。


「おい!」
対象に向かって声を張り上げる。



佐治の声に振り向いた海の中の人物は、水面をゆっくりと移動しながら近づいてきた。




水の中から、徐々に上半身が浮かび上がってくる。

上半身が裸の老人だ。
体には無数の海老が付着しいている。海老の甲殻にやられたのか体中にキリ傷やスリ傷がある。




慌てて追いかけてきた早坂が息を切らしながら言った。

「久保社長、つまり優子さんの元旦那の父親です。」




この老人、久保社長は、しばらく佐冶達をじっと見つめた後、ニヤリと笑い、陸にあがってきた。


水の中から全身を露わすと、なんと全裸だった。頭にはシュノーケルとゴーグル、足にはフィン。それ以外は何も身に纏っていない。体中に海老が付着している。そして、男性自身が いきり立っている。

異様な光景だ。



老人は、口に入っていた海老を吐き出すなり、小さな声で話し始めた。


「ほぅ。あの映像が出回り出してから2日。誰か来るとは思っていたが、随分と早かったな。」





「そんな格好で一体何してんだ?」
佐治が問いかける。


「おのれら、どこの誰だか知らんが、孤独な老人の楽しみを邪魔するでない。おまえらに話す事など何もない。」


佐治が語気を強める。
「おい、じいさん。いいから、答えろ。一体、何をしてるんだ?」


体に付着した海老がピクピクと動いている。

薄気味悪い光を放つ眼球が、佐治の目の奥をじっと覗きこむ。





「言っとるだろ。趣味じゃよ。趣味。分からんのか。」


「ふん、興ざめじゃ。」
老人の男性自身が萎んでゆく。


「おまえら女は好きか?わしは大好きじゃ。ただ、年を取るにつれ、だんだんと普通に抱くだけじゃ興奮しなくなってくる。何をやっても、どんなにいい女を抱いても満たされなくなる。そのうち、わしは辿り着いたんじゃ。究極の快楽に。いいか?教えてやろう。自分の体中にエサを塗りたくり、この養殖池に入るんじゃ。すると、かわいい海老達がわしの全身を愛撫してきよる。そうして、やっと、わしは満たされ、果てることが出来るんじゃ。これこそが今のわしを満たす、唯一の快楽じゃ。分かったか?分かったなら、出てゆけ小僧ども。これ以上、人の楽しみを邪魔するなら建造物侵入罪で警察に突き出すぞ。」



「いつ、水の中に入ったんだ!俺たちは6時間前からずっと見張っていたんだぞ!」
早坂が言った。



老人は、ふふっと不気味な笑みを浮かべながら、視線を早坂に移した。

「本社の社長室から養殖場の底まで地下トンネルを繋げておる。社長室でスーツを脱ぎ去り、膝下まで水に浸かる長い地下トンネルを歩いて養殖場に向かう時から快楽は始まるのじゃ。」






「ふっ、なるほどな。」

しばらく黙って聞いていた佐冶が口を開いた。

佐治が続ける。

「おい、じぃさん 。もう、いい。いい加減、詭弁はよせ。」



言い終わるやいなや、佐冶は養殖場に近づくと、服を着たまま水の中に飛び込んだ。


水しぶきがあがる。





しばらく沈黙が流れた。


早坂とナイジェは、佐治の行動が理解出来ず、不安そうな顔でじっと水面を見まもっている。


老人は表情を一切変えず、その場に佇んでいる。




しばらくすると、佐冶が水面から顔を出した。



「やっぱりな。この養殖場全体が巨大なカモフラージュだったとはな。

だいたい玉子焼きで海老が上手くなるなんて詭弁もいいとこだ。

海老に目を向けさせといて、そのもっと下、海の底に、こんなえげつない秘密を隠していたとはな。」



早坂は全く理解できない。「どうゆうことっすか?」


「これだよ。」

佐冶の手には何やら甲殻類らしきモノが握られていた。海老によく似ているが、エビより色素が薄く、なんとも気味の悪い色をしている。



佐冶が続けた。
「シャコだよ。寿司屋なんかでよく食うシャコだ。知ってるか?海から水死体があがると、決まって体にはウジャウジャとシャコが付いてるんだ。シャコってのは死肉が好物だ。」



そこまで話すと、佐冶は老人を睨みつけてから吐き捨てた。

「この下衆野郎。」



「水の下には死体がたくさん転がってたよ。それも若い女性のばかりだ。
おい。じじい。おまえ相当、悪どい稼業に手を染めてやがるな。一体何をやってやがる?」





「知った所でどうする。おまえの様な小僧には何もできないぞ。うちの客は国内外の財政界のビップばかりじゃ。現役の閣僚も総理大臣経験者もおる。」


佐治が語気を強める。
「いいから答えろ!」



老人の顔は徐々に紅潮していく。

「教えてやろう、平民ども。あり余る程の金、それから地位を手にした人間はどうなると思う?想像もつかんだろ?

何をしても満たされんのじゃよ。高級車も、極上の女も、キャビアもフォアグラも、何でも手に入っちまう人生てのは実に悲しい。クエンティン・タランティーノのホステルって映画は見たことあるか?金持ちがオークションで好みの人間を買って、好きな様になぶり殺すじゃろ?カイジって漫画に出てくる妖怪みたいな金持ちどもを知ってるか?弱者がもがき苦しむ姿を見るのが快楽じゃろ?

大抵の金持ちはそうなる。さらに狂った奴になると、セックスしてる最中にいたぶりながら殺すんじゃ。奴らの言い分は、メスのカマキリは交尾の後にオスを食い殺す。これは異常でも何でもなく、一つの自然の摂理。という事らしい。うちの客はそんな連中ばかりじゃ。中には殺して死体になった女でしか勃起しない奴もおる。

そんな奴らにうちは楽しみを提供しておる。安全な楽しみだ。死体はうちが引き取る。」

老人は話を続ける。

「だが、それだけじゃない。それにも飽きてきた連中は、その次は何を求める様になったと思う?

わからんじゃろ?奴らはどうしたか?なんと、今度は若い女の死体に付いてるシャコが食いたいと言いだした。どうやら最高の美味らしい。最初に言い出したのは、なんと女性じゃよ。考えられるか?財界の大物、あらゆる富を持っている70代の老婦人が、自分より若く美しい女性の死体についてるシャコが食いたいと言い出した。それから、あっという間に広まった。今じゃうちのビップ限定の会員制寿司屋は、数ヶ月前から予約で一杯じゃ。シャコが一貫400万円じゃぞ。狂っておる。実に、狂っておる。
どうじゃ、おまえらも食いにくるか。来るなら席を用意してやるぞ。」




「優子さんの映像は何なんだ?何であんな映像があるんだ?」
早坂の声には怒りが滲んでいる。



「水の上にあるカメラは秘密を守るため。この養殖場の周辺、ありとあらゆる場所に高性能カメラを仕込んでおる。養殖場へ近づく者を徹底的に監視しておる。去年だったかな?地元紙の若い記者、侵入を試みた無謀な若者はすぐに抹消されたぞ。さて、ここでおまえらに一つ問題を出そう。カメラは水の下、海の底にも大量に仕掛けおる。さて、何の為だかわかるかな?」


沈黙したままの三人などお構いなしに、老人はますます顔を紅潮させ、目を見開き、嬉々としながら、しゃべり続ける。


「答は簡単。寿司屋での上映用じゃ。奴らは、今、自分が食ってるシャコがどんな女の死体についていたのか。それが見たいと申しよる。まさに狂気の沙汰。妖怪の類。とことん腐っておる。」




早坂が怒鳴る。
「ネットに流出させたのは何故だ?何の為に優子さんの映像を流出させた?」



「あれは息子が勝手にやった事じゃ、わしは知らん。余計な事しよって。
ここの映像は全て本社のIT室にデーターで飛ばしておる。役員なら誰でも入れる様になっておる。まったく、バカ息子には困ったものだ。昨晩、たっぷり拷問してやったよ。」



佐冶達は車に向かった。これ以上、何も話す気がしなかった。怒りを通り越して殴る気すらおきなかった。

車に向かうと、あたり一面を警備員達が取り囲んでいた。中には警官もいる。どうやら地元警察も買収されているらしい。


佐冶が怒鳴り声をあげた。

「どけ!」

「おまえら そこをどけ!」



警備員が佐冶達を取り押さえに近づいてきた時、老人が声をあげた。

「よい。行かせてやれ。」

「何もできやせん。わしらが危害を被る事はない。」


老人は、佐治に近づいた。
「それより、おまえら、これを持ってゆくがよい。」


佐治の目の前にスチール製のバッグが置かれた。


「ひとり一千万。計三千万だ。これで寿司でも食って東京に帰るがよい。そうそう、シャコを頼むのを忘れずにな。」





佐冶はバッグを掴み取るとナイジェに手渡した。

ナイジェはバッグを受け取ると、声にならない雄叫びをあげながら、力いっぱいに海に投げ込んだ。


薄明かりの海に、札束がひらひら舞っている。


ナイジェは空を見上げ、涙をこぼしながら手を合わせた。

「Dieu.Veuillez sauver l'âme de gens qui dorment au fond de la mer.Et s'il vous plaît pardonne l'infraction du pauvre homme qu'il y a ici.Amen」



ナイジェリアの公用語は英語だが、ナイジェはフランス語圏のどこかの国で産まれたのだろう。


「神よ 海の底に眠る者達の御霊を救いたまえ。また、ここにいる哀れな男の罪をも許したまえ。アーメン。」







三人は後ろを振り返らず、車に向かった。


早坂が目に涙を浮かべながら呟いた。
「あんな奴 殴るまでもない。」


車に乗り込み、キーを差しこみながら佐冶が答える。

「同感だ。その通りだよ、早坂。殴る価値もない。だがな、だがな、」


佐冶は運転席のドアを蹴り開けた。


車を飛び出す。


一直線に駆けてゆく。




老人の顔面に佐冶のこぶしがめり込んだ。


警備員達が駆け寄ってくる。


佐冶は警備員達を見渡すと怒鳴り声をあげた。

「おまえらもおまえらだ!自分が何やってんのか、よく考えてみろ!」

「どけ!」

「どけよ!」

警備員達は立ち尽くしている。



背中の後ろから何やら老人の奇声が聞こえていたが、一切振り返らずに車に戻った。





エンジンをかけると前をみた。



「次の目的地、元旦那だ。」
小説「15年目の終着駅」


作:安藤珍平


第16章 [ 出来事 -女- ]



東京で暮らす様になってから、優子の日々は平穏に過ぎていた。

正式な離婚の手続きは進んでいないものの、旦那と別々に暮らす事になり「やっと苦しみから解放された」というホッとした気持ちで毎日を過ごしていた。

まるで、長年閉じ込められていた薄暗い牢屋から解放され、太陽の真下にある平和な公園でゆっくりと紅茶の香りを楽しんでいる様な気持ち。あるいは、エベレストで遭難した人が数週間経ってから救助され、久しぶりに暖かい部屋でふかふかの布団にくるまっている時の様な気持ち。心の安らぎに満ちた日々だった。

インテリアショップでの仕事、友達との会話、両親との食事、それから佐治とのメールのやり取りなど、あたりまえに過ぎ去る平凡な毎日が心地よかった。

別れた旦那の事を思い出し気分が憂鬱になる事もあったが、近くに友達や両親のいる東京では、以前の様に塞ぎこむ事もなく、精神状態も安定していた。

優子は新たな一歩を踏み出そうとしていた。





そんなある朝の出来事だった。



優子は大学病院の待合室のソファーで呆然としていた。

先ほど医者から言われた言葉を自分の中で消化する事が出来ない。

ここ最近、ちょっとした吐き気や腹痛に悩まされていたので、この日は朝から大学病院に来ていたのだ。

つい30分ほど前の医者との会話を頭の中で反復する。



「妊娠してますね。」


耳を疑った。


もう一度聞きなおしたが、


「確かに妊娠しています。4ヶ月です。」先生はハッキリと言い切った。





妊娠四か月、、、 逆算してみると、最後に旦那と寝た時と一致する。



色んな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡る。


自分の中に小さな生命が宿っていると思うと素直に嬉しい気もする。


ただ、この赤ちゃんの父親の事を考えると複雑な気持ちになる。

父親は、、、出来れば、思い出したくない人、、、、、、元旦那、、


お父さんになんて話そう?
佐治君に相談したい
佐治君は何て言うだろう?
お父さんは、、、
佐治君は、、、

自分の頭の中に次々と言葉が浮かんできては打ち消し、打ち消しては浮かんでくる。パニックになりそうだ。

身体が熱くなり、額からこめかみへと汗が流れる。


頭が割れる様に痛い。

会社に電話をして、体調不良という事で休みをもらった。


家に帰る途中で本屋に立ち寄った。「はじめての妊娠」「Howto出産」「胎児の人権」
堕胎に関する法律関係の本や、キリスト教やイスラム教などの中絶に関する教えの記述がある本など、妊娠出産に関するありとあらゆる本を買いあさった。

家に帰ると、倒れこむ様にベッドに横になり、片っ端から本のページをめくった。


様々な感情が全身を駆けまわり、頭の中で様々な考えが堂々巡りしている。

色々と考えている様で、何を考えているのか自分でもよく分からない。


時間だけが過ぎていく。


長い時間が経った後、


優子は、嗚咽しながら呟いた。


「私は元旦那を憎んでいる。」

あたかも、自分自身に問いかけているかの様な呟きだ。

「この子を産んで愛せるの?」


それは悲鳴にも似た、か細い声だった。


静まり返った部屋に、時を刻む時計の針の音だけが虚しく空気を震わせる。


疲れ果てたのか、いつのまにか眠りについていた。眠りについた優子の両の手は自身の下腹部あたりを撫でていた。その手は優しく慈愛に満ちていた。おそらく女性が生来持つ本能、母性がそうさせたのであろう。



しばらくして目が覚めた。

起きた直後はいくぶん気持ちも落ちついていたが、すぐに心臓がドクッドクッと鳴りはじめ、次第に様々な感情が灼熱のマグマの様に襲いかかってくる。まれに喜びの様な感覚もあるものの、ほとんどは不安や恐れ、絶望といった負の感情だった。


ペットボトルのボルビックに口をつけると、堕胎、中絶に関する法律の本を読みはじめた。



今の日本の法律、母体保護法では21週6日までは中絶が可能らしい。

何冊も何冊もひたすらページをめくり続ける。



それから何時間たっただろうか。


優子はふと顔を上げ、しばらく天井を見つめてから立ちあがると、ふらふらとテラスへと向かった。


窓を開けると、深夜の静寂。
月明かりが幻想的に美しくも見え、深い底なし沼のごとき暗黒の入り口にも見える。


優子は、ふと、何かに吹っ切れたかの様な表情をしていた。


何かを悟ったかの様な眼差しで、呟いた。

「わかった、、わたし、、、わかった、」



ぼんやりと空に浮かぶ三日月は、雲で霞んでいる。



部屋の方を振り返り、床に山積みになっている本の山を一瞥した。


言葉を続ける。


わかった、、、わたし、、
中絶は法律的にどうとか調べたり、、胎児の人権、、キリスト教の教えなんかを調べたり、お父さんはどう思うか考えたり、、産まれてくる子は幸せなのかと考えたり、、、、

でも、そんなの全部、、言い訳よ、、、


結局、私は心の奥底では自分の事しか考えてなかった、、、、、






好きな人が出来た時、子連れだと嫌われないだろうか


いつか好きな人が出来た時、この子がいると、再婚できなくなるのではないか





嫌いな人の子供を本当に愛せるのか




結局、自分の事だけだ、、

全部独りよがり、、
自分可愛さ、

自分の事しか考えてない、、


最低だ、



本を買いあさったのだって、自分を納得させる材料を探してただけ、、、罪悪感を紛らわすための、、、何か都合の良い辻褄合わせ、、、、中絶の正統性を探そうとしてただけなのよ、、、


お父さんを悲しませたくない。とか考えるのだって、、ただの言い訳よ、、だって、お父さんの気持ちを考えたりとか世間体とか気にしなくいい。ってお父さんが言ってくれたの私、、憶えてるじゃない、、



泣き崩れた。


全身の震えがとまらない。


もっと、、強くならなきゃダメ、、、こんな弱くちゃダメ、、、

自分の事ばっかり考えてる、、
いつも自分への言い訳ばかり探して、、、なんて最低な女なのだろう、、、


養殖場に卵700コを投げ込んだ時、強くなろうと誓ったじゃない、



だめ、このままじゃ、


佐冶君みたいに強くならないと、、




全身をか弱く震わせ、嗚咽しながら、自分の弱さと向きあおうとしている。


と、同時に、
今まで心の奥底に隠していた自分の気持ちに向きあおうとしている。ずっと気づかないフリをしていた気持ち。本当の自分の気持ち。




佐冶の事が好きだ。



いつか佐冶君と結ばれたいと思っている。




元旦那の子供を産んだら、佐治に嫌われないだろうか。

佐治は遠くに行ってしまわないだろうか。


弱い自分は、、そんな事を考えていた、、


いま、確かに自分のお腹の中にいる命より、自分の恋愛を優先させる。
最低な女だ、、、自分を呪った。




涙がとまらない。



佐冶の顔が浮かび続けている。



苦しい。




自分勝手かも知れないが、
佐冶の笑顔を想像しているだけで何とも言えぬ安堵感に包まれてくる。



涙がこぼれ落ちる。




「助けてよ。佐冶君。佐冶君なら連れ出してくれるよね?」




心の奥底から佐冶を求める感情が次から次へと湧き出てくる。


心臓がドックンドックン鼓動している。




佐治君。


佐治君。




そのまま、深い眠りについた。





翌朝、目が覚めたのは、お昼の11時過ぎだった。



一晩泣いて、自分の弱さと向き合った。意思が固まった気がした。弱い自分とサヨナラする決心がついた気がした。

乗り越えられる気がした。



ふと、本棚に向かうと、佐冶からプレゼントされた幕末本を取り出した。
ずっと、置きっぱなしで今まで一度も開いた事が無かった本だ。



何カ所か蛍光ペンが引かれている。
佐治が好きな言葉なのだろう。



・小人が恥じるのは自分の外面である、君子が恥じるのは自分の内面である(吉田松陰)

・事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず(西郷隆盛)

・私心さえ除き去るなら、進むもよし、引くもよし、出るもよし、出ざるもよし(吉田松陰)





弱い自分の内面を恥じよう、、
正道をいこう、、、



私心さえ除き去るなら、、、





心は固まった。








この子を産み、育て上げる。






明日にでも、
父と、、それから佐冶君に報告しよう。





窓から優しい風が流れこみ、晴れ渡った空から、あたたかい日光が差し込んでいた。






小説「15年目の終着駅」



作:安藤珍平



第15章[現在]



春の風が気持ちいい。

仕事の帰り道、いつものコンビニで缶チュウハイを2缶とサラダとヨーグルトを買って優子はマンションに帰ってきた。

ニュース番組をぼんやり見ながら酒を飲む。33歳。離婚歴あり。広尾のインテリアショップ勤務。日本橋の名家に3人姉弟の次女として産まれる。笑顔の似合う明るく清楚な美貌。学生時代の友達からは口々に「優子は年とるたびにカワイくなってくよな~」と言われる。正直、仕事なんてしなくても贅沢に生活出来るだけのお金が実家にはある。定期的に色んなタイプの男から口説かれる。皆から羨ましがられる存在である。

ただ、当の優子本人は自分と自分の人生に切なさと、やるせなさ、寂しさを感じていた。

仕事をしてるのも気を紛らわす為だし、代々木で一人暮らししてるのも何となく実家にいるより気が楽だから、、

そんなに好きじゃなかったお酒も最近では毎晩飲む様になってしまった。

年間の離婚件数は26万件を越え、三組に一組が離婚すると言われてる今の時代。バツイチだなんて、たいした問題でも何ともない。

ただ、もともと真面目で繊細な性格の優子は、自分がバツイチという事に敏感になっていた。

また、あの離婚以来、ちょっとした男性不信にもなっており、明るく前向きな恋愛も出来ず、自己嫌悪で憂鬱な毎日に、自然と酒の量も増えていった。

「私って駄目な女よね。」ため息まじりに呟いた。

うっすらと目に涙を溜めながら2缶目の缶チュウハイをあけた。


すると

プルル プルル プルルと携帯が鳴った。

高校の同級生の佐冶からのメールだった。

「優子ちゃーん。今、優子ちゃん家の近くにいるんだけど、軽く飲みに行かへん?優子ちゃんのコト考えてたら、気がついたら優子ちゃん家の前まで来ちゃってた。遊んで!遊んで!バブー。バブー。ぼくちん、大きい赤ちゃんでしゅ。1人じゃ歩けないよぉ。ここはどこ?えーん。えーん。」


ちょうど、家にある酒を全部飲みきってしまい、コンビニに行こうかと悩んでいた時だったので、優子は佐冶と飲みに行く事にした。





代々木に引越してからは、優子とよく飲みに行く関係になっていた。


優子にとっての佐冶は、全く気を使わなくてよい存在。言いたい事は何でも言えるし、ラーメン屋で替玉を頼んだり居酒屋であぐらをかいたりもできる。おそらく、佐冶が全く遠慮無しに優子に接してくるので、優子も佐冶の前では素の自分を出せる様になってしまったのだろう。

佐冶が新潟の病院に駆けつけてくれた頃からニ人の距離は徐々に縮まっていった。高校で知りあってから十数年の付き合いになるが、今までは佐冶の良い部分を全く知らず、表面的な部分だけを見ていたのだな。と実感する様になっていた。新潟で佐冶の優しさや真摯な人間性に触れて以来、自然に惹かれていった。ちょっとした人間不信だった事から人と会う事すら極力避けていたのに、佐治だけは違った。数少ない信頼できる存在、特別な存在だった。

といっても、二人きりで飲む様になったのは、ごく最近の事だ。

佐冶といえば、父親がいる前でもセクハラぎりぎりの容赦無いアプローチをしてくる様な男なので、二人きりで会うのはしばらく避けていた。

優子と佐冶と早坂、それから父親とナイジェを入れた五人で飲む事が多かった。場所は決まって六本木のサルサバー。ナイジェが昔働いていた店だ。

佐冶はその店で女性によくモテた。どうやら、外国人目線だとかなり魅力的な男性に見えるらしい。ある時など、お店にいる間中ずっとイタリア人女性に言い寄られていた。それもすごくセクシーな美人。彼女の愚痴を聞いた事がある。「私、しょっちゅう勝男を個室に連れ出して、ありったけセクシーに迫ってるのに、あの人ったら全く乗ってこないの。キスすらさせてくれないわ。フロアでは勝男の方からハグしてきたりするくせのに、2人きりになるとからっきし!私の魅力が足りないの?それとも、もしかしてあの人、いま日本で流行の草食系男子ってやつ?」
それに対して優子は「わからないけど、たぶん草食系ではないと思いますよ。」と答えた。

音楽が好きで今でもバンドを組んでいる優子の父もサルサバーがたいそう気に入ったらしく、2週間に1度くらいのペースで通っていた。65才になる父が楽しそうに遊んでいる姿を見るのは、とても気分が良かった。

一度、やむをえず、カラオケで佐治と2人きりで朝まで過ごした事がある。その時、意外な事に佐冶はとても紳士的だった。口説かれたり言い寄られたり、セクハラされたりを少しだけ警戒していたが、そういった事は一切無かった。意外な事に、どうやら佐治は女性と二人きりの時は紳士らしい。

二人きりでよく会う様になったのは、その日以降だ。

その日も最初から二人で会っていたわけではない。佐治の会社の後輩フジモン主催の飲み会で10人くらいでカラオケをしていた。

佐治は音楽にほとんど興味が無いらしく、二曲しか好きな歌がないらしい。

一つは青山テルマ フューチャリングSoulja「ここにいるよ」。

皆の前でデュェットさせられた時は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。佐治はラップの部分を感情を込めながら本気で歌う。しかも、歌詞を優子の名前に変えたりしながら。

「Baby boy 勝男はここにいるよ どこもいかずに待ってるよ。」

「優子のこと待ってるよ~」


あたかもステージ上にいるミュージシャンにでもなったかの様に、本気で曲に入り込んで歌いあげるので、みんな苦笑していた。本当に恥ずかしかった。

もう一曲はGLAYの「HOWEVER」。目を細め、手の角度までマネしながら歌う。佐治がイントロの「やわらかな風が吹く~この場所で~」まで歌うと誰かに消されてしまう。佐治は「何すんねん!」と言って、あきらめずに何度も何度も入れ直すが、毎回同じ所で消されてしまう。そのやりとりに、みんな大爆笑していた。

その会がお開きになりカラオケを出た時、佐冶だけが一人物足りなそうな顔をしていたので、少し可哀想になり二人だけで店に戻る事にした。優子自身も人が大勢いる飲み会で少し気疲れしていたので、佐冶の様な気心知れた人とゆっくり飲み直したいと思っていた。

佐冶は、朝5時半の閉店まで同じ二曲だけを何十回もくりかえし歌っていた。

イントロが流れ出すと毎回セリフを入れていた。「高校の頃、好きな人と付き合えなかった時、毎晩聞いてた曲です。聞いて下さい。HOWEVER」といった具合に毎回何かしらセリフを入れる。

ダミ声で音痴だけど、感情を込めて本気で歌う姿が少しカッコ良くみえた。

大勢のギャラリーがいた時は恥ずかしかったけど、二人きりでの青山テルマのデュエットは楽しかった。


その日以降、何回も二人で遊んだが佐冶はいつも紳士的だった。佐冶から恋愛の話や男女の話をしてくる事は無く、気を使ってくれていたのか元旦那の話なども一切無かった。その日にあった事や最近のニュースの話、それから幕末の話ばかりしていた。優子は本音では恋愛の話なんかもしてみたかった。佐冶の恋愛観に興味があったし、自分の離婚の話なんかもしてみて佐冶の意見を聞いてみたいと思っていた。だが、自分からそういった話題を持ち出すのは気が引けた。





佐冶からのメールを見ると、優子はすぐに準備をして家を出た。この日、二人は代々木上原のカフェで飲む事にした。


10時頃に店に入り、たわいもない話をしていると、あっという間に時間が過ぎていた。


「佐冶君の終電何時?相模原まででしょ?そろそろだよね?」

「大丈夫だよ。週に三、四回通っているスーパー銭湯が小田急線の祖師ヶ谷大蔵にあるんだ。相模原まで帰らないから終電なんて大丈夫だよ。」


佐冶の行動はいつも自由気ままだ。
「もし自分が男に産まれてて、佐冶君の友人だったとしたら、今ごろ人生すごく楽しいんだろうな。」優子はしみじみと思った。


11時を過ぎた頃、若い女の子グループが横の席に座った。

茶髪に短いスカート。目の下に濃いめのラインを引いている。一目でそれとわかる水商売風の女性達だ。

女性達はチラチラとこちらを見てくる。優子はこういった女性達があまり得意ではなかったので、なるべく目を合わせない様にしていた。席と席の距離が近かったので落ち着かなかった。

すると、女性の一人が声をかけてきた。「佐冶さん?」
もう一人の女性も言った。「あら、佐冶さんじゃない?久しぶり。」


女性達は優子をマジマジと見つめてくる。自分に集まってくる好奇の視線に辟易しながら「話しかけてこないで欲しい」と念じていた。



「わかったぁ。ねぇ。あなた、もしかして優子さん??」


気が重くなった。



「はい。そうです。」
少し間が空いてから、小さな声で返事した。


すると、女性達は口々に「やっぱりぃ!」「写メよりキレイじゃん!」「あれ?こんな時間にデートしてるって事はもしや?」「良かったね!佐冶さん!」などと騒ぎだした。


佐冶はしばらく黙ったまま下を向いていたが、ふと口を開いた。


「優子ちゃん。この子らは売春婦だ。」


「え!?」

優子は今までこういったタイプの女性と接した事がなかったので動揺した。どうリアクションしたらよいのか分からなかい。



女性達は、話す相手を完全に優子一人にロックオンした。

「優子さん、あんた幸せものよ。佐冶さんね、お店に来ても何もしないの。ナンバー1の子のオッパイが目の前にあっても指一本触れないでお酒飲んでばっかり。こっちが恥ずかしくなるわよ。」

「そうそう、私一回聞いた事があるの。あんた何しに来てんの?って。そしたらさ、、俺は営業課のサラリーマンだ。付き合いってもんがある。お得意様が行きたいって言えば、断るわけにはいかないんだよ。いいか?綺麗、汚い、じゃないんだ。仕事ってのはそうゆうもんだ。
とかカッコつけながら言うの。まぢウケる!ってか、うぜー」

「私なんて、この前、欲求不満がムラムラしてて佐冶さんラブホに誘ったら断られたからね!まぢウケるっしょ!」

「ウケる!あとさ、佐冶さんと言えば話がクソつまんなくない?」

佐冶のモノマネを始めた。
「おまえら何才だ?いいか、幕末の志士、坂本龍馬は16才の時~~。」

「はっはっは。マヂ似てる。うける。幕末話、意味わかんねぇ」

「あとはだいたい優子の話してるか、優子にメール打ってるよね。優子ちゃんからの返信こい!こい!とか言いながら、なにあれ?オマジナイ?」

「きゃははは。知ってる!あのオマジナイまぢキモい。」


女性達は徐々にエスカレートしてきている。

「しかも、優子さん、この人ね。あれ?ねー、佐冶さん、あれ言っていい?」

佐冶がうんざりした口調で言った。

「うるせーぞ。小娘ども。いい加減にしろ。」

女性達は嫌がる佐冶を見て、ますますテンションが上がってしまった様子だ。

「なんで?いいじゃん!言ってもいいでしょ?」「そだよ!言いなよ!」「優子さん!この人の秘密教えてあげるよ!」



佐冶が口を挟んだ。
「もういい。黙れ。自分で言う。」



佐冶は目線を下に落とし、唇を噛みなから言った。

「あー、そうさ。俺は童貞だ。キスすらしたことない。なんか文句あっか?」


女性達がさらに騒ぎ出した。

「きゃっはっは。チェリーボーイ佐冶勝夫!」

「俺の体は優子ちゃんだけのモノだ!とか言ってたよ!」

「幕末の志士の高田馬場は、俺は日本一の女を抱く!と言って上京してきた。俺にとっての日本一は優子だ!それまで俺はバージンを守る!とか何とか言ってんの!意味わかんねぇ!佐冶さん、キリシタン?きゃはは。きもすぎる!」


佐冶が、うんざりしながら言った。
「なんだ、高田馬場って。それを言うなら、高杉晋作だろ。
おまえら、いい加減にしろ。」


佐冶は不機嫌そうに下を向いている。優子はどうしていいか分からず下を向いている。

空気が重たい。


女性達は散々騒いだ後、「新宿二丁目遊びに行くから、じゃね」と言って、会計を始めた。

女性達は、あまりにも暗く落ち込んでいる佐冶に「ほんとゴメン。やばかった?」と声をかけていたが、佐冶は「うるせー。小娘ども。ちょっとは考えろ。」とそっぽを向いた。

帰り際に「優子さん、でもあんた幸せ者だよ。こんないい奴いないよ。」
と真剣な顔で言われた。これは本音で言ってると感じられた。



女性達が出て行った後も、空気は重いままだった。


優子は男性特有の感覚はよく分からなかったが、童貞が恥ずかしい事とは思わなかった。ただ、ここまで落ち込んでいる佐冶を見るのは始めてだったので、何か声をかけたかったが、どんな言葉が適切か分からなかった。

長い事、沈黙が続いた。

優子が先に声をかけた。
「ねぇ。佐冶君・・・」


佐冶がボソボソと話しだした。
「優子ちゃん、、アキラとか早坂には内緒にしてくんない?豪快な男プレイボーイ佐冶勝夫の名に傷がつく。ぼくちん、恥ずかしいよぉ。バブー、バブー。お願いでちゅ。」

体をクネクネさせながら、いじけた子供の真似をしている佐冶にイラッときた。


「ねぇ。佐冶君!男性の事はよくわかんないけど、、、それってそんなに恥ずかしい事なの?私は、むしろ、、さっきの話を聞いて、佐冶君って純粋なんだなって、、すごい好感持ったよ!!そんなことでクヨクヨするなんて、、なんか佐冶君らしくないと思う!」

優子にしては珍しく、力強く大きな声だった。



佐冶はまだ体をクネクネさせている。

「うるせぇ~。うるへぇ~。いいじゃん。いいじゃん。男には男の事情があるんだよ~。うぇ~。酒がたんねぇ。」


佐冶の内面奥深くを覗けた気がした。決して人には見せない心の奥、佐冶という人間の本質はすごく純情なのだろうと感じた。


最近、優子の中で佐冶のイメージがどんどん変わってゆく。本能丸出しで女にだらしない男だと思っていた。十年以上の付き合いなのに、まだまだ知らない面がたくさんある。

佐冶が実は女性経験が無いという事は長年の男友達も知らない一面だろう。もしかしたら、その話をしても誰も信じないかもしれない。

知れば知るほど、佐冶勝男が分からなくなる。知れば知るほど、好感度が増してゆく。




しばらく佐冶勝男を見つめていた。



気付くと深夜2時を回っていたので解散した。



その夜、二人は何回かメールのやりとりをした。


「世の中の人は何ともいわば言え、我がなす事は我のみぞ知る。

優子ちゃん。今日は取り乱してごめんなチャイナ。」


「なに、それ?誰かの言葉?」


「これは龍馬の言葉だお。まだ10代の頃、尊王攘夷派だった頃に言ったらしいんよ。龍馬は、この時から自分の中に、大きな目標がしっかりあったんだと思うよ!天下の偉業ってヤツですよ。人に何と批判されようともブレへんぞ!ってヤツですよ。だから、ぼくちんも人に何と言われようとブレずに、めげずに頑張ります!」


「そーだよ、他の人から何って言われても別にいいじゃん!シャキッとしなよ!さっきも言ったけど、私は好感度アップだったよ!



「いぇ~い!優子ちゃんの好感度アップなら超うれしい!うれ乳首!」


「ねー、佐冶君って一体何者なの?
ずっと、いいかげんなダメ人間かと思ってたけど、実は、すごくいい人なの?」

「オレ、イイ奴。優子チャン、 ダイスキ。」


「何それ?(笑) ナイジェさんのマネ?

ねー、佐冶君って何がやりたいの?なんか目標とかあるの?」


「目標アル。天下ノ偉業。オレ、ガンバル。ポポ、オマエ好き。
ねー、優子ちゃん、ナイジェってドラゴンボールのポポに似てない?」

「ごめん、ドラゴンボール分かんないや。ねー、天下の偉業って何?どんな目標?」

「今ハ言エナイ。機ガ熟シテナイ。」


「なに?気になる。それって、なんか世の中を良くしたいみたいな、龍馬みたいな目標があるって事?」


「違うよ。そんなんじゃない。教えなーい。だが、僕にとっての天下の偉業は一つじゃ。」

「うーん。気になる。。。今度、教えて!」

「うん。今度ね。
でも、優子ちゃん鈍感やね。。分かるっしょ?俺にとっての天下の偉業は1つじゃよ!

まー、それはさておき、オイドンは今かなり幸せでゴワス。今で充分幸せでゴワス。だって優子ちゃんが毎日平和に暮らしてて、メールすぐ返信くれるし、デートもしてくれる様になって、、おいどんは今すでに、最高に満足ですたい。」


優子は返信メール画面に文章を作っては消し、作っては消しを繰り返した。
しっくりくる文章ができない。



「今日はありがとう[絵文字]
じゃ!また、今度ね![絵文字]」



結局、シンプルな文章のメールを送った。絵文字もハートとかではなく、極力シンプルなものにした。




優子の中で佐冶の存在が日増しに大きくなっていく。