小説「15年目の終着駅」



作:安藤珍平



第14章 [ 飛翔 ]


優子は、大事をとって新潟の病院に検査入院する事になった。

父は重要な会議があるらしく、翌朝東京に帰ったが秘書のナイジェリア人はずっと付き添っていてくれた。

ちゃんと名前を聞かなくてはと思い、尋ねてみたが「ナイジェ野郎ト呼ンデクダサイ。イチバン好キナ日本人ニ、ソウ呼バレテイル。」と言うので、ナイジェさんと呼ぶ事にした。

ナイジェさんはとても優しい人だった。毎日フルーツを買ってきてくれたり、優子の気持ちが暗くならない様に色んな楽しい話をしてくれた。

たくさんお話をしている中で、一つ大発見があった。なんと、ナイジェさんは佐冶勝夫と面識があるらしい。最初に聞いた時、思わず跳び上がってしまうほど驚いた。ナイジェさんが働いていた六本木のお店に佐冶君が客としてよく来ていたらしい。佐冶君の様々なエピソードを聞かせてもらい、おなかの底から笑った。佐冶君は話題に事欠かない人だ。ナイジェさんも佐冶君の事がよほど好きらしく、すごく嬉しそうに話す。2人の話題はもっぱら佐冶勝男の事だった。

ある時、ナイジェさんに「サジ、優子サンノコト トテモ アイシテル。サジ、トテモ イイヤツ。」と言われた。

「もう、ナイジェさんったら、、からわないで下さい。」と言ったが、ナイジェさんは真剣な目で「サジ、イイヤツ。優子サン、シアワセ ニナル」と、何度もくり返した。

「佐冶君って不思議と男の人から人気あるんだよな。なんでだろう?」と思った。

又、優子はこれまで何度も佐冶からアプローチされていたが、話半分に聞き流し、真に受けていなかった。どうせ色んな女性を口説いていると思っていたし、からかわれているだけだと思っていた。しかし、ナイジェさんの話だと、どうやら佐冶は優子がいない所でも、優子の事を好きだと盛んに言っているらしい。少し意外だった。



ある夜の10時頃、優子は佐冶に電話をかけてみた。

そわそわしながら呼び出し音を聞いていると、7コール目で佐冶は電話に出た。同窓会の日以来、やっと声が聞けたので嬉しくなった。

「もしもし佐冶君?もぅ、、、心配してたんだから!なんで、ずっと圏外だったの!ガラスの割れる音とかもしたし!ねぇ、、大丈夫だったの?」

いつもの変な甘え声で何か言ってくるんだろうな。そうだ。ナイジェさんのコトも話してみよう。

優子は瞬時にあれこれ考えながら、佐冶の言葉を待った。

が、意外な事に佐冶は冷静な口調だった。そういえば、この時間帯に佐冶と電話で話すと大抵は繁華街のガヤガヤした所にいて、声もよく聞きとれないのに、今日はやけに静かな場所にいる様だった。


佐冶が言った。

「優子ちゃん。

良かった。

とにかく元気そうな声が聞けて良かった。今、ちょっと運転中で急いでるから、また明日ね。ゆっくり眠りなね。」

すぐに電話を切られた。

佐冶が普通な感じで話すのを聞いたのは何年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない。「どうしたのかな?佐冶君の事だから、、また何かやらかして、忙しくしてるのかな?それとも、同窓会の時に私が佐冶君にだけメールしなかったと勘違いしてるみたいだから、もしかして私に怒ってるのかな?」
あれこれ考えたが、どうやっても理由は分からない。


少し悲しい気持ちで眠りについた。




翌朝、ナイジェさんがメロンを持ってお見舞いに来てくれた。ナイジェさんは今日の夕方に父が来る事を教えてくれた。退院が明後日に決まったので、父はそれまで新潟に泊まる事になったらしい。明後日には父の車で東京に帰る。新潟とはお別れだ。

父の事を考えると胸が苦しくなった。父は、顔では平静を装っていたが、やはり相当ショックを受けただろう。父に申し訳ない気持ちだった。



テレビを見ながらナイジェさんと談笑していると、看護師がやって来て「久保さん。面会の方いらしてます。」と言われた。


「誰だろう?」

父は夕方着の予定だから、まだ早い。
ナイジェさんも首をかしげている。

「旦那の会社の人かな?それとも旦那の親族?まさか旦那本人って事はないよね・・・」

あたふたしていると、「コンコン」とノックの音がしてから、ゆっくりとドアが開いた。







「佐冶君!!!」

びっくりして心臓が止まるかと思った。

佐冶の横にいる男性にも見覚えがある、が、すぐには思い出せない。


佐冶も、驚きの顔でナイジェを見ている。「なんでナイジェ野郎がここに・・・」


優子もナイジェも、それから佐冶も、目を丸くしたまま固まっている。

佐冶と一緒に来た男性が口を開いた。

「ここではなんなので、一階の喫茶店にでも行きますか。」




喫茶店でそれぞれ自己紹介と何故ここにいるのかを説明し終えると、佐冶が呟いた。「奇遇な事もあるもんだ。」


優子は頭の中を整理していた。

「今、佐治君と一緒に私の目の前にいる男性は早坂さんで、あの夜、助けてくれたトラックドライバーさん。佐治君と同じ会社の人。しかも、あの時、早坂さんが持ってた木刀が佐冶君の物だったなんて。で、私と父があの場を去った後、早坂さんは旦那を自宅まで送ってくれて、しかも旦那をベッドに寝かすまで面倒を見てくれた、と。それで、その時に旦那がずっと私の名前を呼んでいたから、私の名前が印象に残っていて、で、えーっと、それから早坂さんは東京に帰って佐冶君と会って、、そこで佐冶君から私の写真を見せてもらって、同一人物だと確信した。そんなこんなで佐冶君は早坂さんと一緒に新潟まで来てくれた。」っていう事だったわけね。


「なるほど。ほんと奇遇な事もあるものね。」


佐冶が早坂に言った。「でかしたぞ、早坂。今回おまえは本当によくやってくれた。」

早坂は照れくさそうに鼻をこすっている。


優子が早坂に聞いた。「早坂さん。あの人は、あの後どんな様子だったんですか?」


早坂はピシッと襟をただし、
「自分が御自宅まで久保常務をお送りしました。常務は「優子ぉ。行かないでくれぇ。」と、うわ言の様にずっと呟いていました。顔を拭いてベッドに寝かせ、、その後の事はわかりません。ただ、どうやら常務は今日もしっり御出社されている様です。」

そう答えた後、あの日の事を思い出していたのか、早坂は少し悲しそうな顔をした。



話がひと段落した所で、優子の病室に戻り、それから長い時間4人で歓談していた。


夕方、父が新潟に到着したのでナイジェさんが駅まで迎えに行った。

父が病室に入ってくるなり、佐冶は直立不動で父の前に立ち、深々とお辞儀をしてから話し始めた。「お父さん。いえ、お父様。私は佐冶勝夫と申します。高校の入学式で一目見て以来、優子さんの事を好いております。優子さんに彼氏がいようが何だろうが、ずっと好きでした。これからも、優子さんが結婚してようが、一夫多妻制の国で第三夫人してようが、犯罪者になろうが、テロリストになろうが、国際指名手配犯になろうが、ニューハーフになろうが、わたしは優子さんを愛し続けます。幕末の志士、高杉晋作の言葉を引用し、私の気持ちを表現させて頂きます。三千世界の鴉を殺し、優子と昼寝がしてみたい。このくらい愛しております。お父様。佐冶勝夫をよろしくお願い致します。」

ナイジェは笑いを堪えている。
優子は頭を抱えている。
早坂は呆気に取られている。

父は口を開いた。

「うん。よろしく。」

一拍おいて、穏やかな口調で付け加えた。

「だが、君、もう少し考えなさい。
君は自分の事しか考えていない。相手の気持ちになってみれば分かるだろ?
今の状況で、相手にとって、言われてありがたい事、ありがたくない事。もっと考えなさい。」


それを聞いて、佐冶が口を開こうとした時、優子が先に声を出した。

「お父さん、違うの。この人はいつもこうなの。」

ナイジェが続けた。「会長。サジ、イイヤツ。スゴク イイヤツ。」


父はニコッと笑った。

「そうですか。いや何も怒ってるわけではないよ。情熱的なのは良いことだ。

末の世において、道義を実践したならば、必ず、その時の人々から、極端と言われる。逆にいえば、世人から極端と言われないなら、それは、決して道義ではなく、迎合に過ぎない。

これは吉田松蔭の言葉ですが、きっと佐冶君は、極端な人って事なんだろうね。佐冶君には佐冶君なりの道義があるのだろう。」



佐冶が慌てた様子ですぐに話し始めた。

「いえ。滅相もございません。

幕末の志士 勝海舟の言葉ですが、、
機は感ずべきもので、言ふことのできず、伝達することの出来んもんです。。。
まさにこの言葉に尽きます。

いま話すべき事ではなかった。
いま、優子ちゃんへの私の気持ちをお父様に伝えるなんて・・・
私は全く機を感ずる事が出来ていなかった。」

2人の会話の意味がよく分からなかった。ナイジェさんは一所懸命メモを取っていた。


それから長時間、5人で歓談していた。
自然と話は弾んでいた。

父は、早坂さんにあの夜の事を何度も何度もお礼していた。


佐冶が父に尋ねた。
「一つだけ解せない事があります。一体どうやって、お父様は優子ちゃんが危機的状況だと分かったのですか。」

優子もこの事は気になっていた。

父が答えた。「立場上、私には敵も味方もいる。敵は外にも内にもいるわけだか、中にはよからぬ事を考える連中もいる。私は警戒を怠らない。家族に何かあってはならんからな。私は会社だけでなく家の中にも盗聴器の発見器をしかけておる。優子に仕掛けられた盗聴器の電波をナイジェはすぐに見つけたよ。」

父が話し終えると「なるほど、そうゆう事か。」と、皆深く頷いた。佐冶は尊敬の眼差しで父を見ていた。



午後9時になり面会時間が終了すると、男達は4人で飲みに行った。すっかり意気投合したらしい。


翌日は夕方まで誰ひとり優子の病室を訪れなかった。全員、ひどい二日酔いに苦しんでいたらしい。優子はしみじみと、なんだか男の人っていいな。と呟いていた。

夜中に佐冶からメールが入っていた。「優子ちゃ~ん。検査結果、全く異常無しで本当に良かった!今日は潰れるまで飲み明かします!お父様も絶好調なんでご心配なく!PS優子ちゃんのパジャマ姿最高だったです。ノーブラだけに、優子ちゃんの可愛らしい乳首が盛り上がってたでしゅ。東京帰る時、そのパジャマ売ってくれへん?

グッナイ。愛しのユウコピン

お父様に気に入られた佐冶勝夫より」


優子は相変わらずの佐冶のメールに苦笑いした。



2日後、退院して病院を出る時、優子は皆に言った。「お願い。1つだけ新潟を出る前にどうしてもやりたい事があるの。お願い。ね?」



皆は優子の言う通りにした。

まず、早坂が丸山物流の新潟ペンションを一室おさえた。

佐冶とナイジェはスーパーを何軒も回り、卵を買い占めた。

700個近い卵をペンションに運ぶと、優子はせっせと玉子焼きを作り始めた。

男達は首をかしげながら、黙って見守っていた。

佐冶がつまみ食いをして「うまい!」と言うと、優子は「ダメ!佐冶君のじゃないのよ!」と怒った。父とナイジェさんもつまみ食いを始めたので優子は全員を追い出した。

4時間後、優子は玉子焼きを作り終えると全員を部屋に入れ、エビの養殖場の話をした。

夜がふけるのを待ってから、5人は出発した。

出発の前、ナイジェさんと父が話しているのが聞こえた。「会長、ココデ待ッテイテ下サイ。会長、何カアッタラダメ。」「大丈夫だ。心配いらないよ。私も行くよ。」父は嬉しそうな顔をしていた。

養殖場の金網を乗り越える時、父は「金網を乗り越えるなんて、小学生以来だな、、ちょっとワクワクしてきたよ」と言った。早坂さんと佐冶君は「隊長!こちら異常無しです!」「よし!正面突破だ!」などと、軍隊のマネをして はしゃいでいた。ナイジェさんは父が参加している事をとても心配していたので、終始、真剣な顔つきで周囲に人がいないか警戒していた。

無事に目的地に辿り着くと、卵700個分の玉子焼きを養殖場に次々と投げ込んだ。

優子が言った。「奪い合いとか、殺し合いとか、よくないと思う。それが自然の摂理だとしても、それが品質管理の秘訣だとしても、、やっぱり私はみんなが幸せなのがいい。軽はずみな優しさは、よくないと分かってる。ただの自己満足だって事もわかってる。でも、一度でいいから、エビが皆でお腹いっぱいになってるところを見たかったの。エビさん、ぬか喜びさせてゴメンなさい。今日だけです。」


男達は、ただ頷くだけだった。


養殖場中のエビが、音をたてて跳ね上がっていた。月夜に照らされ、水飛沫がキラキラ輝いていた。エビは喜んでいるのだろうか?それとも人間の気まぐれに怒っているのだろうか?いや、ただ単純に目の前の餌に喰らいついてるだけだろう。だが、あまりにも幻想的なこの光景は、まるで、今日で新潟を去る優子をエビ達が盛大に祝福しているかの様に見えた。


佐冶と早坂は目に涙を浮かべていた。

「先輩。俺ら、なんでエビ見て泣いてんすかね?」

「さぁな。俺にも分からんよ。」


ナイジェさんが言った。

「エビ。優子サンニ、アリガトウ、言ッテル。」





翌日のお昼に新潟を出発した。

東京へ帰る車の中で、父が優子に語りかけた。「私はね、お前たち子ども達が幸せでいてくれる事が、何よりの願いなんだ。特に娘2人は尚更だ。優子。世間体とか恥とか外聞とか気にしなくていいんだよ。結婚生活が上手くいかないなら離婚すればいいだけだ。優子。自分の幸せだけを考えない。」



窓の外の流れる景色を見ながら、できるだけ静かに泣いた。




日本橋に着いたのは夜中だった。街並みがきらきらと光って見えた。
小説「15年目の終着駅」


作:安藤珍平


第13章[因果律]


月曜日の早朝、優子は東京駅から始発の新幹線に乗った。
外は雲っていた。新潟に近づくにつれ空模様は悪くなっていき、次第に雨が降りだした。

今日、月曜日は休みをもらっていたので部屋でゆっくりと過ごした。特にやる事もなかったので、ぼんやり空を眺めていた。夕方には大雨になっていた。

旦那の帰りを待っていたが、この日は深夜になっても帰宅しなかった。一人で先に寝ることにした。

翌朝4時にエビの餌やりに出発する時も旦那はまだ帰っていなかった。

久しぶりの仕事だったが、全然疲れなかった。東京で英気を養ったからだろう。いつもより頑張れた。

仕事中、何度も佐冶の事が頭をよぎった。「無事、東京に帰っているのだろうか?」電話かメールをしようと思ったが、旦那にバレたら大変なので我慢した。

仕事を終えるとまっすぐ家に帰り、旦那の帰宅を待った。深夜0時を過ぎてもまだ帰ってこない。徐々に不安になってきた。何か嫌な胸騒ぎがする。1時半を少し回った頃、ドアに鍵が差し込まれる音が聞こえた。旦那が帰ってきたのだ。

玄関まで迎えに出ると、旦那は後ろを向いてしゃがみこみ、靴を脱いでいるところだった。

旦那の背中に話かけた。

「おかえりなさいませ。私も昨日東京から戻りました。」


旦那は振り向くなり、いきなり殴りかかってきた。

「この淫乱女!」

続けて背中を蹴られた。

「なにがショートヘアかわいいだ!?色んな男に色目使いやがって!ふざくんな!」

旦那は優子のハンドバッグを掴み取ると、逆さにひっくり返した。

ハンドバッグの中身が全部こぼれ落ちると、その中からPHSを掴み取り、壁に打ちつけだした。ケースが外れ落ちると中から何やら精密そうな機械が出てきた。

優子は状況を理解した。東京に行く前に緊急事態用にと旦那から渡されたPHSの中身は盗聴器だったのだ。

旦那は機械を操作をしながら「聞かせてやろう。」と言った。


PHSという殻を脱ぎ捨てた盗聴器から、音声が聞こえてくる。

「お願い。10秒だけ優子ちゃんの匂い嗅がせて!あ~ん。最高にエッチな香りだよぉ」

同窓会中に佐冶のモノマネをしているアキラ君の声だ。

ただの悪ふざけだ。



だが、一切の弁明をあきらめた。


下を向いて黙っていると、PHSが顔面に飛んできて鼻を直撃した。鼻血が出た。

「感じたのか?おい?どうなんだよ?おい!居酒屋で皆が見てる前で陵辱されて、それでおまえは興奮してたのかよ!この淫乱が!」旦那の声は怒りで震えていた。

旦那は優子のパジャマを両手で掴むと、左右に引きちぎった。

たわわな乳房が露わになる。

もう一発殴られそうになった時、外に飛び出した。


懸命に走った。


旦那は鬼の形相で追いかけてくる。


養殖場まで走り、停まっていたトラックの影に隠れた。


旦那はすぐに追いつき、優子の前に立ちはだかった。恐怖に怯えうずくまっていた優子を抱えあげると、両手で優子の首を締め出した。


旦那は泣き出しそうな声で言った。

「こんなに好きなのに、、、こんなに愛してるのに、、、どうして分かってくれないんだい?」

優子は瞬時に思った。ここで死ぬかもしれない。だが、もはや抵抗する力もなく、なすがまま、、、これが自分の運命だとあきらめ、体の力を抜いた。




その時、トラックの運転席から人が降りてきた。


「おい!何やってんだ?」



旦那はトラックから出てきた男を睨みつけ「なんだおまえ?うちの出入りの業者か?」と、凄みのある声で問いかけた。

男は言った。
「海老の配送を担当している村上物流の早坂です。何してるんですか?今すぐ、その手を離しなさい。」

旦那は眉間に皺をよせながら言った。
「おまえ誰に口聞いてんのかわかってんのか?おまえんとこの発注、全部飛ばすぞ。」

早坂は一瞬ひるんだ。久保常務からの発注を失ったら、確かに会社的には大打撃だ。


動揺している早坂を見つめ、旦那はニヤッと笑った。



早坂は慌ててトラックに乗り込んでしまった。



早坂の背中に旦那が声をかける。

「おまえは今晩何も見ていないし、ここで俺と会ってもいない。いいな?」



旦那が勝ち誇った顔で、村上物流のトラックを眺めていると、


なんと、

運転席から再び早坂が飛び出してきた。


手には木刀を持っている。

早坂は手に握った木刀を見ながら、昨日の事を思い出していた。

昨日の昼、早坂は、日曜日に日本平サービスエリアで知り合った本社社員の佐冶勝夫に焼き肉をご馳走になっていた。その時、佐冶から「おい、早坂。この木刀をおまえのトラックで預かってくれないか。俺の大事な刀だが、部長のヤローが会社に置くなと言ってきやがった。いいか?武士が命の次に大切な刀を他人に渡すって事の意味がわかるか?俺はおまえをかっているって事だ。」と言われ、渡された木刀だった。よく意味がわからなかったが、護身用にと思いトラックに積んでいた。


旦那はちらりと木刀を見たがフフッと鼻で笑い、すぐに優子に向きなおり、ブラジャーを両手で掴み、引きちぎった。


早坂は木刀を握りしめながら、小さく力強い声で何やら話しだした。

「幕末の志士 佐冶勝夫は言った。廃刀令で刀を失っても、武士は武士だ。武士の心は死なん。久保常務。ここであなたを見過ごすわけにはいかないんだ。」

優子は薄れゆく意識の中で佐冶の声が聞こえた気がした。「佐冶くん!そこに佐冶君がいるのね!」


早坂は木刀を握りなおし、飛びかかろうとした。



その時、突如、早坂と旦那の間に黒のレクサスが走りこんできて、急停車した。


後部座席のドアが空き、人が降りてきた。


「お、お父さん!」
優子が声をあげた。


運転席から父の秘書兼運転手のナイジェリア人が降りてきて、優子を保護しようと近づいてきた。

父はナイジェリア人を制し、自ら優子を抱き抱えた。


優子が口をひらいた。「なんでお父さんがここに?」

父は優しく微笑んだ。
「この前実家に帰ってきた時、優子が無理して笑ってたからだよ。」

「どうゆう事?」優子が聞いた。

「優子は無理して笑顔を作るとき、下唇が震える癖があるんだよ。小さい時からずっとそうだ。ただ、あんなに震えてるのは初めて見た。これは、ただ事じゃない。何かとんでもない目にあっていると直感でわかったよ。」


父は続けて言った。


「優子。さぁ。帰ろう。」



父は旦那には何も言わず、数秒間見つめただけだった。



旦那は崩れ落ちる様にその場にしゃがみ込み、下を向いたままだった。


父がもう一度言った。


「優子。さぁ帰ろう。」


優子は父の腕の中で意識を失った。


小説「15年目の終着駅」


作:安藤珍平


第十二章[実家]


東京最後の日曜日を優子は実家で過ごしていた。明日の午前中の新幹線で新潟へ帰る。両親と姉と弟、親戚らも交え実家で夕食会をした。父の会社の人も何人かいたので賑やかだった。1人だけ初めて会う人がいたので紹介してもらった。彼は父が最近採用したナイジェリア人で、父の秘書兼運転手だそうだ。頼もしい体格には不釣り合いな大きく可愛らしい目をした優しそうな人だった。

賑やかな夕食会だった。

とてもつらかった。家族の暖かさに涙が出そうになるのを必死でこらえた。

それでもどうにか自宅にいる間中ずっと最高の笑顔で振る舞えた。親戚のおじさんから「3人の姉弟の中でも優子ちゃんの笑顔は飛びっきりだね。子供の頃からいつもニコニコしてたもんね。」と言われた。大丈夫。ちゃんと隠せてる。家族を心配させてはいけない。

しばらくすると父が隣に座ってきて穏やかな笑顔で言った。「優子、乾杯しよう。新潟の話を聞かせおくれ。」父の顔は皺が少し増えていた。


「だめ。」心の中で言った。


父の笑顔見てると泣きたくなる。


「私は少し疲れたので、先に寝ます。お父さん、またお正月にでも、ゆっくり飲もうね。」と行って自分の部屋に帰った。


ドアを閉め、一人きりになると、涙が溢れ出てきた。

「駄目。絶対 離婚なんて出来ない。家族が悲しむ顔は見たくない。」

ここ最近、離婚という二文字をよく意識する様になっていた。心身ともに限界に近づいていたのだろう。

機会があれば今回の帰省中に、旦那との事を話してみようかとも思っていたが、両親の笑顔を見ていると、とてもじゃないがそんな事は話せなかった。65才になった両親に余計な心配や気苦労をさせてはいけないと思った。もう若くはない両親には穏やかな日々を過ごして欲しい。離婚など考えてはいけないと強く思った。

電気を消しベッドに入り、しばらく泣いていた。


ドアの外からノックがあった。



「優子、優子。」と呼ばれた。

父だ。


「まずい。泣き声が聞かれたのかな。」

必死に息を殺してジッとした。




「もう寝ちゃったかな。」

そう言って、父が離れていく足音が聞こえた。

それからは音を出さずに泣いた。

こうゆう悲しい時に佐冶がメールでもくれたら、いくらか気持ちが落ちつくだろうと思った。佐冶のくだらなくて、どうしようもないメールも時と場合によっては貴重なものになると実感した。

ふと昨夜の事が気になったので、佐冶に電話してみた。もう日曜日の夜だというのに、まだ圏外のままだった。

泣きながら色々と考え事をしていたら、いつのまにか寝てしまっていた。


翌朝、皆が起きる前に始発で新潟に帰った。