一昨日、俳優の三浦春馬さんが亡くなった。自殺だった。
そこまで彼の熱狂的ファンではなかったが、ダンスやサーフィンをしているのを知り、親近感を持っていた。
彼が自ら命を絶たなきゃいけないような辛い現実があったことも悲しいし、自分自身 、大切な人の自殺を経験しているから周りの人の強い後悔も痛いほどに分かる 。
もうだめだと思った時、ちょうどかけられた言葉で人は自殺するし、ちょうどかけられた言葉で自殺は止めることができる 。どちらにも転ぶことができる 。
でも一時的に止めることは出来ても、その後も辛い現実と向き合わななくてはいけないのは止められた側 。
そこを救い続けられるのか 。
手を差し伸べ続けられるのか 。
死よりも苦しいと感じた世の中で
生きることを支えるのは安易ではない 。
" 生きていてほしい " と強く願うのは
残される側のエゴなのかもしれない 。
身近な人の突然の死ってだけでとても辛いのに、それが自ら命を絶ったということは本当に受け入れがたく、悲しく、苦しい後悔の日々が続く 。
事故とも違う 。殺人とも違う 。
誰のことも責められない 。
唯一、攻めることができるのは救いの手を差し伸べられなかった自分 。
だからこそ残された人は苦しむ 。
こういうことがある度に深く考え、
また辛くなる 。これからもずっと 。
*
みなさんは「死にたい」と思ったことありますか?
ぼくはあります。
自分の中に、止まった時間がある。
生きることに必死だったけど、どこにも向かえず、どこにもつながっていなかった時間。もがいたけど、振り返ると少しも動いてなかった時間。
希望はなかったけど、絶望しないように必死だったときの、記録と記憶。
***
18年前のその日、東海道本線の電車に乗っていた。当時通っていた病院の帰りか、なんでもない散歩の帰りか、よく覚えていないけど、珍しく外出した日だった。
そのころは、もうずっと自分の気持ちがわからなくなっていた。
朝起きたときの気持ち
ご飯を食べるときの気持ち
目の前で叔母が泣いているときの気持ち
会社を辞めることを決めたときの気持ち
うれしいとか楽しいとか悲しいとかつらいとか、なにもわからなかった。自分の内側にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚があり、あらゆるものが穴を通り抜けて消えていった。
*
髪はボサボサ、肌は青白く、目はうつろで、生気のない顔が、電車の窓に映っていた。その顔の口が動くことはなかったけど、たくさんのことを問われていた。
おまえはなにものなのか
これからどこにいくのか
これからなにをするのか
電車は次の駅に向かっていたけど、自分はどこにも向かっていなかった。駅と駅はつながっていたけど、自分はどこにもつながっていなかった。
*
駅のホームを歩いて、階段を上がると、すぐに息が切れた。ほとんど体を動かさない毎日を過ごしていた自分の体は、ボロボロだった。
たぶん、何かに向かい、何かとつながらなければいけないと思っていた。
きらきらとした未来が描けていて、具体的な目標と行動がリストになっていて、自分の強みと弱みを理解して、やるべきこととやるべきではないことを知っている状態。
自己啓発本に書いてありそうな理想に憧れていたけど、自分の目は現実のどこもみていなかった。
だからおいしいご飯をたべても、目の前で大切な人が泣いても、美しい景色をみても、何も感じられなかった。
気持ちを感じられない時間は、人として生きられない時間だった。自分にとっての本当の絶望は、希望を失うことではなく、絶望したことに気づけないことだった。
*
太陽の光がまぶしくて、日向より日陰を歩いた。暑くないのに汗が出てきて、人目がなければ道端に座り込んでいた。空腹かどうかわからないから、時間を決めて食べ物を押し込んでいた。
記憶の彼方に消えゆく儚いことばかりの日常の中、はっきりしない意識の中に、「このままではいけない」というかすかな焦りがあった。
気持ちはわからなかったけど、感受性をなくさないようにしていた。前には進めなかったけど、道を踏み外さないようにしていた。何もできなかったけど、何もしないことをしていた。
何も感じられなかったけど、必死に生きた時間だった。
*
一日の大半を家の廊下にすわって過ごした。ひんやりした床を感じながら、目の前のクローゼットの扉をみていた。部屋の扉はあけていたけど、自分の心はどこにもつながっていなかった。
つながりをなくした自分に気づけることは、ほとんどなかった。気持ちをなくすことが自分をなくすことだということを、体は理解していた。
痛みや恐怖もなくなっていたあのときなら、線路に飛び込めたと思う。ベランダから飛び降りれたと思う。誰かを傷つけられたと思う。自分が何もしなかったことに深い理由はなく、本当にたまたまだった。
人としての生きることを終えられる透明な回転扉が、いつも自分のすぐそばにあることに気づいた。
*
目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
無意味でもあり 素敵でもある 回転ドアうっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
茨木のり子 | 行方不明の時間
よく磨かれたガラスでつくられたそれは、目を凝らさないと気づけない。それに気づける人は少なく、気づいても忘れたがってしまう。
どこを押しても軽やかに回るそれは、誰かに押されることを待っている。手を触れてしまったすべての人を静かに飲み込むそれには恐ろしさを超える美しさがある。
誰の近くにもそれは静かに佇んでいる。小さな子ども、生き生きとした青年、壮年を謳歌する紳士淑女、その誰の近くにも平等に佇んでいる。音を吸い込んでしまっているのか、周囲には無音が広がっている。
それに触れた人は、帰ってくることはない。扉の奥の世界に劇的さはなく、ひっそりとした精神的な旅路が続く。
*
透明な回転扉は、いまもすぐそばにある。
この先、自分が透明な回転扉を押さない保証はどこにもない。扉をみつけてしまった人は、それからずっと扉とともに人生を歩むことになる。
ただ透明な回転扉がすぐそばにあっても、共存することはできる。本来あるそれを自覚しただけで、押してしまうまでには大きな距離がある。
誰でもどんな時でも気づいてしまう
平穏な日々が続けばその存在は薄れていく
ふとした不調をきっかけに思い出すことがある
人の未来のすべてを奪う絶望は、自覚できないことが多い。それは音も気配もなくすべてを吸い込む透明な回転扉のようなものだから。
*
希望を失ったり絶望を感じたりして、透明な回転扉をみたならば、押さないように気をつけられる。本当に怖いのは無自覚に触れてしまうことであり、間違って押してしまうことだ。
間違えるときはきっと一瞬で、確実に防ぐ方法はたぶんない。ちっぽけな自分にできることは、いつも誰かとのつながりを保つこと、自分を過信せず弱ったときに備えることくらい。
無限に続くように思える日々は、大きな流れや偶然の前では儚くて切ないものだということを忘れてはいけない。ケアしすぎてもしすぎることはなく、困難に備えて足りることなどない。
いつでも誰でも、間違えてしまうことがある。
*
たぶんきっとこれからずっと、自分の中には止まった時間がある。透明な回転扉は自分のすぐそばにある。
気づく前と後では、世界が違ってみえてしまう。その感覚は誰にも共有できないかもしれない。毎日が無意味で無目的に思えるかもしれない。
ただその無意味で無目的に思える日々も、積み重なって連なると、自分なりの意味や目的を帯びてくる。人の一生の不思議さが、そこにある。
だからどうか、つらく困難だった日々を消さないでほしい。無意味で無目的な止まった時間を過ごす自分を許してあげてほしい。
だからどうか、道を踏み外さないでほしい。いつもそばにある透明な回転扉を間違って押さないように注意してほしい。
***
前向きに語りたくなかった。読んで気持ちよくなってほしくもなかった。安易に希望を語る愚かさを知っている。絶望を語るほどの力も経験もないことも知っている。
それでも、この文章を届けたい人がいる。
一人目は、昔の自分。つながりと気持ちを失った経験と時間は、いまの自分の糧になっているよ。深い傷は他人の理解する姿勢をつくる一助になっているよ。当時の無意味で無目的な時間は、いまの自分をつくる大切な時間になっているよ。
二人目は、いま困難を抱えている君。希望を失ってもいいから、どうか絶望しないでほしい。前なんて向かずにその場にうずくまってもいいから、道を踏み外さないでほしい。怖くても悲しくても時間が解決することはたくさんあるから、どうか透明な回転扉を押さないでほしい。
*
無理だと思いながらも本音の本音は 、この世がもっと他人を認められる優しい世の中になってほしい 。自殺なんてこの世からなくなるほど 、誰もが生きることに希望を持てる世の中であってほしい 。
せめてぼくは傷つける言葉より
誰かを救える言葉を放って生きよう 。

三浦春馬さんのご冥福をお祈りいたします。