ブルックナー5番 |  ヒマジンノ国

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すでに1ヵ月ぐらい前になりつつありますが、ミンコフスキ―のブルックナー交響曲5番の演奏の感想をまとめ直しながら、この交響曲のことを書いていきたいと思います。
 
直ぐに意見を書かなかったのは、色んな人と意見がバッティングするのが嫌だったからです。
 
さて、ブルックナーの曲は世界的に見て、人気があるといい切れるかは微妙かもしれません。米国ではどうでしょうかね?しかし、日本や本国のドイツでは人気があります。
 
 
↑、アントン・ブルックナー(1824-1896)。オーストリアの作曲家。マーラー同様10曲近い交響曲を作曲し、それらが有名です。
 
初めてクラシック音楽を聴く人が、あえてブルックナーを聴くと、なんだか曖昧に鳴る、ボワーンとした響きばかりで、いいたいことが良く分からないということがほとんどのようです。ただこれは、例えば日本人が、初めて「マーラー」を聴いても、あるいは「ワーグナー」を聴いても、似たようなことになるのかもしれません。
 
実際に学生時代、自分が人生で初めてマーラーの交響曲1番「巨人」(ハイティンクの録音)を聴いたとき、旋律が無駄に長く、捉えどころがないので、何をいっているのかさっぱり分かりませんでした。
 
今聴けば、第1楽章は朝霧に満ちた森の中、カッコーが鳴き、幾分かの神秘感が感じられます。そして楽章中間部、深い森の中で、耳を澄ますと、遠くからドーン、ドーンと聴こえてくる、何者かの巨大な足音・・・。そのような一種の物語性というか、絵画性のようなものを感じ取ることになります(あくまで個人的な感想です)。
 
そのように聴こえるのは、この交響曲に「巨人(TITAN)」という表題がついているからに他なりません(初版の後、マーラーはこの表題を取り下げている、だから実際はこの標題は無理されるべきかもしれません)。
 
ところが、先にも書いた、「特有の曖昧さ」のように、この「音楽の描写性(標題性)」は我々に難題をふりかけます。はたして音楽から感じ取る描写性は一体正しいのか否か?
 
米国の評論家ハロルド・ショーンバーグの言葉を引用します。
 
<どんな人でも自己流に音楽を聴く。あまり音楽に詳しくない人は一種の補助手段を必要とし、どんな音楽にも絵を「見る」傾向がある。プロは異なった聴き方をして、形式、(譜表の五線の)線、発展の仕方に神経を集中し、どんな音楽でも標題を完全に無視することが多い(アーノルド・シェーンベルグは、本質的に標題音楽であるシューベルトの歌曲を、長年にわたり歌詞をまったく無視して聴き、愛していたと告白した)。いずれにせよ、どんな音楽でも特に何者かを叙述することはできない。文学的内容を知らないまま、初めて「幻想交響曲」を聴く人は(リストの「前奏曲」、シュトラウスの「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ドビュッシーの「海」でも同じだが)、その標題を推定することができないだろう。せいぜいのところ、音楽はムードと感情しか表現できない。「幻想」の第3楽章がワルツであることを認識できないのは鈍い人であり、最終楽章が何者かを表現した、凶暴な喚き声であることがわからない人も同様である。>「大作曲家の生涯」から。邦訳、亀井旭、玉木裕)
 
ベルリオーズの「幻想交響曲」は、初版では各楽章に文学的な解説がついていました。それが取り除かれた今日でも、各楽章に一言「標題」がついています。この音楽はこのような「標題」がなければ、理解できぬ音楽であり、時にひどく絵画的でさえあります(マーラーやベルリオーズは1部に間違いなく、絵画的な思考で音楽を表現しているとしか思えない部分がある)。
 
本質的に、ショーンバーグにいうように、「せいぜいのところ、音楽はムードと感情しか表現できない」という事実は、半ば冗談でいえば、エマニュエル・カントのいうところの、「ア・プリオリ」であり、本来人間に備わっている「根本的な音楽的な衝動」こそが、あるべき音楽の定位置のように思えます。音楽が標題無しで理解されるには、このような人間本来に備わっている、「音楽的な衝動」のみで表現されなければなりません。
 
だからベルリオーズのように、「言葉」による「標題」が必要な音楽は、この「ア・プリオリ」から離れ、音楽の絶対性から離れるようには思われます。ところがこれは難しい問題で、そう簡単に結論を出せるものか否かは、微妙なところです。
 
「根源的な音楽的衝動」、はたして、音楽は元からこれだけが効果なのでしょうか?
 
元来音楽には「歌」の性質があり、時に「伴奏」になり得ます。
 
大作曲家のR・ワーグナーは自身を「詩人」と明言して、恥じることがありませんでした。彼は、歌劇は「台本」がメインであり、音楽が「サブ」であるという認識を持っていました。多分このような認識は、他のオペラでも同様に感得される得るものですが、結局、音楽にとってみると、「オペラ」ほど「標題性」がしっかりしたものは無いわけです。
 
 
↑、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)。巨大な歌劇の作曲家。19世紀前半の西洋音楽界の頂点がベートーヴェンだとしたら、後半はワーグナーだったといわれます。メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスがベートーヴェンの古典的書法をまねたのなら、ブルックナー、マーラー、R・シュトラウスはワーグナーの後期ロマン派の書法をまねまた、といえます。
 
ブルックナーはワーグナーを尊敬し、そこに自らの音楽を近づけようとしていました。故に、彼の音響のスタイルはワーグナーの音の響きに近づいていきます。
 
ワーグナーの歌劇を「セリフ」なしで、伴奏の音楽のみで聴いていても、その筋立ては理解できないでしょう。例えば、歌劇「ラインの黄金」において、川底で輝くラインの黄金は、まさしく「音楽によって光輝いている」ようにしか聴こえませんが、しかしそれはラインの乙女たちのセリフがあるからこそです。
 
ブルックナーの音楽は一面、そのようなワーグナーの音楽の音体験を「セリフ」無しで表現しており(音楽的な構造として)、その曖昧さが時に人に無理解を強いるのです。
 
従来の「ソナタ」形式の音楽による「主体的な感情の表現」がそこに行われているのではなく、ワーグナーの劇の背景になるような音楽で、いわば幾分かの客観性を持って、交響曲が描かれているということになります。
 
日本でブルックナー人気を広めた評論家の宇野功芳氏は、次のように述べています。
 
<ヨーロッパでも、フルトヴェングラーのワーグナーは神格化されているようだが、僕には少なからぬ疑問がある。それは彼のブルックナーを高く評価し得ないのと同じ理由によるものだ。クナッパーツブッシュにしても、マタチッチにしても、朝比奈隆にしても、ブルックナーをすばらしく演奏できる指揮者は、ワーグナーもまた見事である。ブルックナーとワーグナーでは一見何の共通点もないようだが、造形感覚と客観的で透明なひびきが似ているのであろう。ワーグナーにおいても、その造形はソナタ形式的ではなく、細部をじっくりと積み重ねてゆくやり方で進めるべきだし、色彩感はブルックナーよりもずっと官能的ではあるが、どこまでも透明感を失ってはならない。つまり人間味が出すぎてひびきを濁らせてはならないのである。
 
ブルックナーの場合と同様に、クナッパーッツブッシュのワーグナーを最高のものと考える僕にとって、フルトヴェングラーの演奏はあまりにもソナタ形式的であり、意志的、主観的、人間的でありすぎ、つけ加えられたドラマがありすぎる。したがって音楽自体が自然に息づかず、ワーグナーを聴くよりはフルトヴェングラーの音楽を聴く感じが強い。彼のブルックナーほどの抵抗はないしても、僕はもっと雄大なワーグナーの世界に浸りたいのである。>(宇野功芳著、フルトヴェングラーの全名演名盤から)
 
 
↑、上の記述は宇野功芳氏の書籍から、ワーグナーを演奏する際の、フルトヴェングラー論です。論述は演奏論の本質を突いていると思います。しかし、この評論家で問題になるのはこうした論理を、自分が好む演奏家とそうでない演奏家について、あてはめたり、あてはめなかったりで、恣意的にすぎるところかと思います。また、フルトヴェングラーの演奏した、ワーグナー、ブルックナーが名演か否かは、もっと多角的な議論が必要でしょう。ただ、情報量が多くなりすぎるので、ここでは止めます。一応、日本でブルックナーを薦めた、「張本人」という位置づけで、宇野氏の意見にある程度即して、ここでは進めています。
 
ワーグナーの場合、人間の情念は劇で表現されるために、背景の音楽は各部の情景や状況などの表現に使えるわけです。しかしブルックナーの音楽については、セリフや劇の進行があるわけではないので、ワーグナー流の描写性で描ける、自然の情景や、この世の崇高さの表現に特化していきました。しかも、彼の音楽は「標題音楽」ではなく、「絶対音楽」として認識されています。
 
マーラーとブルックナーにおいては、その音楽の本質が中々解明されませんでした。よくいわれるように1960年代以降、その解明が進められてきたわけです。その際、ブルックナーの音楽の本質を知る場合、上のような宇野功芳氏の意見は非常に有益で、ブルックナーにおいては、ドイツの指揮者ギュンター・ヴァントが現れるぐらいまで、その理想形を、繰り返し追及されてきたように思います(ヴァントは当然宇野氏の論理などは知りませんが、彼らがブルックナーに抱いていた理想形はよく似ていた、と考えられます)。しかし、ヴァントのような高度な表現で追及されてしまうと、他の指揮者たちはもっと別の道筋を探そうとするのは、故無き事でもないと思います。
 
 
↑、ギュンター・ヴァントの演奏したブルックナー5番(1996)。近代的な精緻さと、古い時代の理想を融合した演奏で、ベルリン・フィルを使い、20世紀のブルックナー演奏のクライマックスともいえる素晴らしい演奏だと思います。
 
また、これも複雑な話になっていきますが、宇野功芳氏のような論述にある指揮者というのは、実は各自の生理的な嗜好がどうしても加味されてきます。フルトヴェングラーにクナッパーツブッシュのような指揮をしろといっても無理な話で、その逆も然りです。
 
そういう理屈でいえば、どうも生まれつきの資質によって、指揮者は或る程度「向き不向き」の作曲家があると思え、そうなってくると、演奏できる作曲家も限られてくることになります。こうなってくるといわゆる「クラッシック原理主義」とでもいえる状況になり、あの指揮者があの作曲家の演奏をするのはおかしいということにもなります。
 
そこに真っ向から対立するのが「楽譜を正確に演奏する」という考え方です。楽譜は専門を教育を受けた人物なら誰でも読めるわけで、誰かが勝手に占有できるものではないという考え方です。いくら大層なことをいっても、演奏できるならしてしまって何が文句がある、ということです。
 
「スコアがすべて」という意見をいったのは名指揮者のトスカニーニです。彼にいわせれば、上述のような演奏論など御託にすぎず、うんちくなど不要ということになります。
 
理屈で演奏を縛るとはどういうことか?ということになりますね。
 
ただ、そのような演奏論の対立を超えて、中々評価されてこなかった、「ブルックナー」や「マーラー」のような作曲家は、1度はどうしてもその作曲家や演奏家の内面的な演奏論などを利用して、理想的な演奏というものが行われないと、人々の理解は難しかったということになると思います。その点において、宇野氏の論理は擁護されうる部分があると思われます。
 
さて、前置きと能書きが長くなりすぎましたが、ミンコフスキのブルックナーの演奏は、非常に変わった、個性的で、新しい演奏であると思います。このような演奏ができるのも、今日ブルックナーのいい分を伝えようとしてきた過去の演奏家たちのお陰であり、市民権を得たからこそできる演奏だったように思います。
 
ミンコフスキは過去の演奏家の作ってきたブルックナー像に頓着することなく、独自の感性で演奏を繰り広げました。旧来の理想からいえば、そうではない、という演奏になると思います。
 
 
↑、過去記事です。実はこの日は片頭痛がひどく、体調が完全ではありませんでした。前から4列目で聴いていたせいもあって、大きな音に途中から耳も痛くなりました。体調万全だったら、また感想は違ったかもと思います。
 
ツイッター上からいくつか意見を拝借します。
 
 
↑、旧来の原理的なブルックナー演奏からは離れた演奏だったことを、物語っています。それができたのも多くの人が、ブルックナーを理解できるようになったからです。ですので市民権を得てきている、という話になるのだと思います。今後も変わった演奏は増えるかもしれません。
 
 
↑、オールド・スタイルにブルックナーの理想を求めている人には、満足のいく出来ではなかったということになります。
 
 
↑、やはりバロック風というか。しつこくなく、重量級の演奏でしたが、躍動感はまさにロマン派以前の感じがしました。そのような性格を示しながらも、第1楽章から第3楽章までは平均的な演奏だったと思います。
 
 
↑、ブルックナーの第5のフィナーレは3つの主題からなり、フーガ形式の第1主題と爆発的な第3主題は強烈な威力を示します。それ故、本来その音の造形は主題の性格によって、巨大に揺れて、壮大な迫力を生みます。しかし、ミンコフスキはそんな「本来あるべき」みたいな考えを捨てて、異常な速さでフィナーレを演奏しました。そのせいで、音楽はひどく直線的になり、各主題もその流れの中に埋没してきます。そのあり方は、まさにベートヴェンの音楽のようです。特にフィナーレはベートーヴェンの第9のように、1楽章と2楽章の主題の回想から入ります。この辺を聴いていると、自分も同じようにベートーヴェンのことを思い出しました。
 
つまりミンコフスキはロマン派のブルックナー像を捨てて、非常に古典的な造形の中に、無理やりブルックナーの造形を解かし込んだ形になりました。
 
そしてフィナーレであれだけの効果をあげると、これはそれなりの評価が出て当然ですし、成功したといって良いと思います。
 
ただこの演奏が録音されて、歴史的な他の録音と比較されれば、まさに「異端」と感じられるのも事実ではないかと思いますね。
 
 
↑、ゲオルク・ティントナーとスクロヴァチェフスキによる全集。ブルックナーの演奏はカラヤンやアバドというような中央楽団の指揮者の演奏よりも、地方の、頑固な職人指揮者の方が、その本質を露にすることが多かったと思います。
 
ブルックナー交響曲5番。改訂癖のブルックナーにとっては、ほとんど改訂を施していない曲の1つです。後期の7・8・9番に匹敵するスケール感があり、後期程の流れの良さはないものの、力強さはこれらをしのぎます。
 
ブルックナーの曲に感じられる、自然崇拝とはやや異なった印象を見せる曲でもあり、第1楽章の導入部の鋭い音の柱の羅列は、彼の信じた神への、憧れと、絶対的信仰、そして帰依を思わせるものがあります。  
 
ブルックナーの頑固な人柄を思わせるような、ゴツゴツした威容を持つ曲ですが、ラストのこの世への賛歌は、聴き手に圧倒的な感動を呼びます。シベリウスが涙を流すほど感動したのも頷けます。
 
 
フランツ・コンヴィチュニーによる「ブルックナー5番」(1961)。
 
825275ー825276。旧東ドイツ、エテルナのレコード。
 
 

そこまで「原理的」なブルックナーとはいえませんが、オールド・スタイルの、中々に充実した演奏だと思います。特にライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の熟した音の魅力などは素晴らしいです。

 
コンヴィチュニーの演奏は土台がしっかりと安定し、豊かな音楽性で、よどみない演奏を繰り広げます。
 
 
↑、第1楽章の初めのみ、音を入れます。ブルックナーはこの交響曲で、初めて導入部を選択しました。おずおずと何者かに近づくと、そこには巨大な音の柱がそそり立ちます。文学的な見方をすれば、そこには1種の神秘主義か、幻想的なイメージが湧くとさえいえます。
 
 
↑、壮大な音の柱が繰り返しそそり立った後、初めて第1主題に入ります。ワーグナーの音楽も突如として、強音部になることがありますが、ブルックナーの方がやや突飛な感じが多いように思います。ワーグナーは巨音部になる前に、段取りを踏むことが多いですね。角が立つ音楽が多いこと、この辺はブルックナーらしい音楽かと思います。
 
 
↑、第1主題の終わりまで。