オロシア |  ヒマジンノ国

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ロシアがウクライナに侵攻とのこと。

 

自分はこの辺りの情報はほとんど調べていないので、何が起こっているのかははっきりとは分かりません。

 

ウクライナがDSの拠点の1つであり、西側諸国がロシアを挑発したせいだといっている方たちがいます。こういう方たちは、ロシアの侵攻を、肯定的に見てる人が多いように思います。また、反対に、ナショナリストたちはロシアの侵攻を非難し、日本の現状と重ね合わせる方が多いように思います。

 

前者によると、2014年のウクライナにおけるクーデター(他方で市民デモ、との報道も)は、米・英・仏などのグローバル勢力によって画策されたものとしています。JFK・jrのテレグラムには、ウクライナに西側の生物兵器の工場がある、などと語っており、現状NATOには加盟してないとはいえ、ウクライナがグローバル勢力による対ロシア最前線となっていた、ということのようです。

 

 

↑、プーチンを糾弾する西側ですが、彼らも何かしらの悪だくみを考えていた可能性があります。

 

 

↑、わざわざ過去の記事を改造、捏造してまでプーチンやロシアを悪者にしたいというのは、糾弾する側も後ろめたいことがあると考えられます。過去記事の人物の背景を置き換えてさえいます。こういうのは論外でしょう。

 

しかし上の事実が本当だとしても、他国の人間が武力で国内に雪崩入り、実効支配するというのは、一般市民にしてみると納得いくとも思えません(一部ロシアの侵攻を喜んでいる、というような話もありますが、民間人に死者が出ているのも事実のようです)。こういうやり方をそのまま「良し」としていいのかは、議論あるところだと思います。本邦のナショナリストたちはウクライナ問題を台湾問題にダブらせて考えているようです。

 

ロシアに対する予言的な内容としては「日月神示」があります。古い神示なので、内容のまま理解してよいか分からないところがありますが、引用してみます。

 

「おろしあにあがりておりた極悪の悪神、愈々神の国に攻めて来るぞ。北に気をつけと、北が愈々のキリギリざと執念(くどう)気をつけてありた事近ふなりたぞ。神に縁深い者には、深いだけに見せしめあるのざぞ。国国もその通りざぞ、神には依怙無いのざぞ。ろしあの悪神の御活動と申すものは神々様にもこれは到底かなわんと思う様に激しき御力ぞ。臣民と云うものは神の言葉は会得らんから悪神の事に御とつけるのは会得ならんと申すであろが、御とは力一杯の事、精一杯の事を申すのであるぞ。何処から攻めて来ても神の国には悪神には分からん仕組致してあるから、心配ないのざぞ、愈々と成りた時には神が真の神力出して、天地ゆすぶってトコトン降参ざと申す処までギュウギュウと締めつけて万劫末代、いふ事聞きますと改心する処までゆすぶるから、神の国、神の臣民心配いたすでないぞ、心大きく御用して呉れよ、何処に居ても御用してゐる臣民助けてやるぞ。」

 

この予言は日本のことをいっています。

 

最近は悪い予言は外れる傾向があるので、あまり心配しても意味のない内容かもしれません。人の考えや、動向によって、予言の内容は変化していきます。今回は、一応、載せてみました。

 

現在「悪の根」は断たれているといいます。悪の表れがあるのなら、その「残像」でしかないと思います。しかし、プーチンがDS退治に動いているという人たちは、トランプ同様、ロシアは正義ということになるのでしょう。このように立場によって、物事は「見え方」が変わる、ということになります。例えば、今の岸田内閣は結局DS側ということになりますから、同様にロシアが北海道に攻め入っても「正義」ということになる、ということでしょうか。裏の裏は表。昔はユダヤと戦うヒトラーも、日本では英雄といわれていました。

 

オロシア(江戸時代や明治時代はロシアをオロシアと呼びました、ラ行が言葉の頭にくるのを嫌がったからだといわれています)の動きは「日月神示」などを読んできてみる人にとっては、ちょっとした注目要素ではありました。

 

続編となる、「大日月地神示」(2018年出版)には次のようにあります。「や」の巻の結部です。

 

「オロシアもそろそろ大きく動くぞ。覚悟いたせよ。食う物貯えよ。無くなってゆくぞ。自分らで産めよ。皆で作れよ。まだまだ雨も風も吹くから、食う物作りなされ。一から二、三と踏み始めが肝心じゃ。生きていること、喜べよ。生かされておるのは、生きてお役いたすことであるゆえぞ。己、お役に励めよ。」

 

本が出版されてから4年ほどですが、今回の侵攻が上の記述に当たるのではないかと、自分は思っています。

 

本質的に「起こっている事」自体には「善悪」はないということですが、それが我々にどう降りかかるか、あるいは我々にとってどういう意味を持つか、そういうことを見極めていくのが、大事なのではないかと考えています。