ダ二―ル・トリフォノフによる「CHOPIN EVOCATIONS」(2016,2017)。
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何がこんな気持ちにさせるのだろうと思います。元々ミーハー族ではないつもりでしたよ。それこそ、昔は「真面目」であればクラシック音楽は・・・「より」素晴らしいと思っていたんですけど。
そんな自分が、ここのところドイツ・グラモフォンの新譜ばかり聴いてます。
あら?これではまるで自分がグラモフォンの新譜を買う人を自分が「ミーハー」だと呼んでいるようなものですか・・・。正直にいえば、かつては幾分はそういった気持ちを自分は持ち合わせていたと思います。詳しい解説はしませんよ。・・・いうなれば・・・レコード産業におけるポピュリズム。
しかし、自分は・・・どうも・・・最近少し宗旨替えを「したよう」です。
このトリフォノフの演奏するこのアルバムの一枚目にはショパンのピアノコンチェルト2番が入ってます。しかし初めて聴いた時・・・何という「凡演」!と思いました。
出だしのオーケストラのテーマからして弱く、そんな印象が曲の終わりまでずっと続きます。ショパンのコンチェルトといえば濃厚で・・・それこそ紛れもないロマンの味わいでしょう?そんなオーケストラの弱さは絶対に禁忌のはず。ピアノも神経質、聴く側のことよりも弾く側のことばかり考えてるように聴こえたものです。
ですがこれは実はミハイル・プレトニョフによる編曲の為と判明、イエロー・レーベルがショパンの編曲バージョンを新譜として発売したことに驚くと共に、せっかくですから、自分は聴き方をがらっを変えることにしました。より室内楽的で内面的な聴き方に。
実際プレトニョフはピアノ・パートをそのままに、オーケストラを軽量化し、音の透明感を増したのでした。そしてもう、その編曲については「改竄」の言葉が投げかけられているように、曲のイメージを全く変えてしまいました。
ピアノの弾きぶりを聴いて、トリフォノフは神経質な人ではないかと感じましたが、どうでしょうか?ピアノの響きは小粒ですが、硬質のクリスタルを思わせる響きが美しく、テクニックがあります。こういう人はテンポを落とすと、ぎこちなく聴こえる側面がありますから、それが神経質に聴こえたのかもしれないですが。
まあ、編曲された曲という意味では「初物」ではあります。しかし、曲と演奏は美しいと思いました。これは滔々と大衆に向かって訴えかける音楽でなく、内面的に聴き取るショパンのコンチェルトでしょう。確かに聴いてみるとショパンのコンチェルトなんですが、今まで聴こえてこなかった内声や、聴き慣れたメロディーも爽やかに新鮮に聴こえます。そしてオーケストラの重量を抑えたせいでピアノ・パートが浮かび上がり、トリフォノフの、冷たい光を輝かせるような、水晶のごとき、ピアノ・パートに透明なオーケストラが絡みます。
一言でいえば「現代的」です。現代的なショパン。研ぎ澄まされた簡略化が生む、ガラス張りの美しさ。
ピアノコンチェルト1番も同様で、他に付属されるショパンに関するピアノ曲を聴いていると、トリフォノフがこのアルバムでやりたかったことがよく分かります。
フェデリコ・モンポウの「ショパンの主題による変奏曲」など聴いていると、やはり現代の聴衆を意識した美しさがあります。ショパンの現代的なプログラムがこの2枚組のアルバムの狙いだと思います。
名演かそうでないか、なんて個人的にはどうでも良くて、アルバムとして面白いと思います。最近のグラモフォンはこういう変わったことをしてきます。
マレイ・ペライアによる「フランス組曲」(2013)。
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最近のドイツ・グラモフォンはリリースしてくる新譜の印象を相当に変えてきました。重厚さとプチブル的な欲求を満足させてくれる、かつての御大の時代とは時代を画しつつ、新鮮でかつ創造性のある内容に力を入れるようになってきたと思います。現代の聴衆を意識していると思います。個人的には歓迎したいです。
マレイ・ペライアともなれば現代の巨匠の一人なのでしょうが、ここに聴くバッハの音楽は全く手垢にまみれた様子がなく、重厚さとはまた違った美しさがあります。
ゼネ・セガンのメンデルゾーンを聴いた時、演奏そのものは万全ではないと思ったかもしれませんが、その爽やかな美しさは感性を刺激するものだったと思います。その後に買ったこのペライアのアルバムも透明感に満ちた爽やかさは特筆もので、それが今自分がグラモフォンに興味を持った理由でもあります。
これは録音技術が発達したせいなのだと思いますが、音に全くアクがなく、純水のような感触。こういった音質は実際の音質とは違うかもしれません。しかし、個人的には商品として歓迎したいし、魅力的だと思いました。
ここでのペライアは腰がしっかりと据わり、全く気をてらうことなく、安定した技術でもって、完璧に澄み切ったピアノの音色を紡ぎ出します。バッハに対する解釈も中庸を守り、滑らかで歌い過ぎない「歌唱」が心地よく、最高の透明感に溢れています。
アンドリス・ネルソンスによるショスタコービッチ「交響曲5・8・9番」(2015、2016)。
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以前自分のブログで書いた、同一指揮者による「ショスタコービッチ10番」と変わらぬ印象です。そういう意味ではずっと7・6番の発売を心持にしていますが、中々発売されません。
濃厚な表現でショスタコービッチの演奏に新たな地平を切り開いたといえると思います。
ヒラリー・ハーンによるシベリウス「ヴァイオリン協奏曲」(2007)。
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これは新譜ではないですが、美しいと思って聴きました。無調のシェーンベルグは何度も聴きたいとは思いませんので省きます。
ヒラリー・ハーンはモーツアルトも聴きましたが、思いの他軽妙さというものがなく、一本調子ですね。少し重い感じがします。その分作為的なところがなく、豊かに広がるヴァイオリンの音色が美しいと思いました。
特にこのシベリウスのコンチェルトの冒頭、ハーンによるヴァイオリン・ソロは全くのなんの仕掛けもないのに、たっぷりと弾いて、優美な美しさを湛えています。楽曲の広がり方は少し大きすぎるような気こそすれ、無性に引き込まれる思いです。
艶やかな倍音、瀰漫する美感、滑らかにスロープを描く運弓はビロードのようです。これが「美しい」ということでしょう。確かな技術があると思いますが、それ以上にここでは心がこもっています。この曲には深々とヴァイオリン奏者の心を映し出すような瞬間が何度もあります。その度に心を締め付けられる思いです。
久しぶりに聴くと本当に良い曲だな、と思います。
クリスチャン・ツィメルマンによるシューベルト「ピアノ・ソナタ20・21番」(2016)。
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まだ21番だけしか聴いてません。
ベートーヴェンの最後の3曲のソナタが簡潔さと抜けきった境地を示しているのなら、このシューベルトの最後のソナタは、その内容の複雑さ、奥行き、盛り込まれた心情の深い悲しみにおいて、究極の対極をなすものなのかもしれません。
そんなソナタを彼ほど堂々と、しかも豊かな感情を持って弾ける人は今日どれぐらいるでしょうか。確かな筆致、肉厚の音響、媚びることのない姿勢。しかしこうした雄々しい姿勢が、晩年のシューベルトの感傷を受け止めるのにどれぐらい必要なのか納得できる演奏でしょう。
音楽の構造としても申し分なく立派に仕上げながら、時が経つほどにシューベルトの孤独に分け入っていきます。
フィナーレの明るさの中に時折みせる絶望の色に、シューベルトの心の痛みを強く感じる自分がいます。




