空の思想と仏教2 |  ヒマジンノ国

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「般若心経・金剛般若経」。中村元、紀野一義訳、岩波書店。

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しかしながら、仏教の思想的な側面といっても中々に理解しがたいことは多い。当然、仏教において最大の関心事は現世からの解脱を説いた「悟り」にこそあるだろう。

 

多くの人が「悟り」という言葉を知っている。しかし、その「悟り」が何なのか知っている人は僕も含め、この世に一人でもいるのだろうか?

 

どんなに人間が、落ち着いた場所で、日々座禅を組んで瞑想したとしても、おそらくその人間は「悟り」など得られはしないだろう(現実の生活を無視し、漠然と瞑想をしたとしても、という意味で)。もしそんなことで「悟った」人間がいれば、きっとその人は人々にもっと説法をして多くの人達の目についただろう。

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ブッダが遠い時代に没したとして、彼の得た「悟り」とは何なのか、という疑問は一般に解明されてはいない。本当に彼が「悟り」を開いた、というのならおそらくその「悟り」は経験者本人にしか分からないのであろう。

 

ただその理屈を知ろうと思えばいくらか理論化された書物がなくもない。生物全体の救いを述べた大乗仏教においてその根本思想を述べた書物に「般若心経」がある。

 

現代日本では「般若心経」は仏壇の前で唱える「お経」としての価値ぐらいしか見出しえないであろうが、その内容をみると、「色即是空」という言葉に代表される、覚者のものの見方を教えていることが分かる。

 

この日本で、一般的に考えても仏教を理解しようと思うと「般若心経」は避けて通れないだろう。ここでもその内容を簡単に訳しながら見ていくことにする。ただこの方向性を追究していくと、ブッダが初期に教えていたものからは少し離れていくかもしれないことは、初めに断わっておく。

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まずは「般若心経」の全文だが、それは以下の通り。

 

観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。

照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。

色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。

受想行識。亦復如是。舎利子。是諸法空相。

不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。

無色無受想行識。無眼耳鼻舌身意。

無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。

無無明。亦無無明尽。乃至無老死。

亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。

以無所得故。菩提薩垂。依般若波羅蜜多故。

心無罫礙。無罫礙故。無有恐怖。

遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。三世諸仏。

依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。

故知般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。

是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。

真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。

羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。

菩提薩婆訶。般若心経。

 

ここで個人的に気になる個所をみながらいくらかその意味を抜き出していきたい。

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さてまずは冒頭だが、「観自在菩薩」とは悟りを開いた人のことをいっている。「行深般若波羅蜜多時」、つまり悟りの修業をしているときに「照見五蘊皆空」、この世の存在みは5つの構成要素があると見極めた、という。ただ僕にはこの5つの構成要素が何なのかははっきりとはしない。人間の持つ5感のことだろうか。

 

そしてその5つの要素だが、それは実体のない「空」の状態であるというのである(5つの要素が、5感だとすると後半の文章とも当てはまる、つまり視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)。

 

そしてそれは「空」であるから、「度一切苦厄」、それは全ての苦しみを超越していることでもある、という。

 

(ここでいう「色」とは「物質的現象」一般をさすと考え、「空」とは「実体のないこと」と考えることにする。)

 

だから、「色不異空」は物質的現象は実体がないことを離れてなく、「空不異色」、実体のないことが物質的現象である。つまり「色即是空」、物質的現象には実体がなく、「空即是色」実体がないからこそ物質的現象である、となる。

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こうして「般若心経」は、存在そのものの「実体性」を超越しつつ、次のように述べていく。

 

「不生不滅・不垢不浄・不増不減・是故空中」

 

生まれることもなければ、減ることもない、汚れたものでなければ、綺麗なものでもない、増えることがなければ、減ることもない。だから全てのものには実体がない。

 

「無色無受想行識・無眼耳鼻舌身意・無色声香味触法・無眼界乃至無意識界」

 

実体がないという立場を受け入れるのであれば、眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身もなく、意識もない。また、同時に色もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触覚もなく、意識の対象もない。つまり眼から意識の領域に至るまですべてが無いのである。

 

「無無明・亦無無明尽・乃至無老死・亦無老死尽」

 

(悟りがなければ)迷いもなく(悟りがなくなることもなければ)迷いがなくなることもない。こうしてついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもない、ということになる。

 

「無苦集滅道・無智亦無得・以無所得故・菩提薩垂・依般若波羅蜜多故・心無罫礙・無罫礙故・無有恐怖・遠離一切顛倒夢想・究竟涅槃」

 

さらに、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない、という。また、知ることも、得ることもない。そのため、得ることがない故に、求道者の知恵の完成に安んじて、人は心を覆われることなく安住している。心を覆うものがないから、恐れもなく、転倒した心を遠く離れ、永遠の平安に入っている。

 

(ということで一応ここまでとします。後半は内容的にそれほど重要ではないと思われますので。)

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人間には好みがある。味にしろ、臭いにしろ、肌触りにしろ・・・。他人が「おいしい」というものでも自分が食べてみて「おいしい」というかは疑問である。

 

つまり、そのある「食べ物」については「おいしい」ともいえるし「まずい」ともいえる、ということである。

 

さらにさかのぼって、自分が他人の意見に批判的になるのなら「おいしい、ということはない」ということにもなり、他人が自分の意見に物申すのなら「まずい、ということはない」となる。

 

となってくるとまず議題となった「その食べ物」は「おいしい」でもあり「まずい」、でもある。また、「おいしい、というこはない」ということでもあり「まずい、ということでもない」となる。

 

つまりある食べ物に対して複数の「意見」が出されたわけであり、その「食べ物」の「味」に対して、何かしらの判断を客観的に下すことができるかどうか、ということになる。

 

そして、この「般若心経」においてはその価値判断を「空」といっているわけである。つまり「実体がないもの」としているわけだ。そしてその「判断」に対する「人間の感覚」についても「空」だというのである。

 

自分達、判断の主体者を離れたとき、外部の存在は完璧なまでの「中立」であり、誰かが「こう」と決められるようなものではないといっている、ともいえる。

 

そして世の中のあらゆる「現象」が「空」であるからこそ、現世での迷い、争いは無意味となる。「空」の意味を体得した人間は「現象」が「空」であるからこそ、その中の事柄にこだわりすぎることなく、平安な気持ちでいられるのだ、という理解が成り立つ。

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ここでは「空」の概念を理解することこそ「悟り」への第一歩であるのではないか、という結論を出しておく。