<我々とは何か?>
科学が現代の最高の知性として認識され、その基盤の上に立たなければ現代の我々はその認識の程度を疑われる。「科学」は一度理解されたことに対しては非常に有効に、かつ正確に働くが、一度も理解されていない、あるいは確認がとれていなことを全く理解しようとはしない。
初めに人間は火を使うことを覚えた。そして次に言葉によるコミュニケーションを覚える。やがて人間は宗教を発見し、最後は科学を扱うようになった・・・。
こうして、科学による人類の認識の革命はあらゆるその他の手段を後方に追いやっていく。かつて、宗教による迷信がガリレオを幽閉し、あるいは魔女狩りを起こさせたことを鑑みればそれはまさに正しいものの見方に思える。
だが現代、同時に、科学は新たな時代の踏み絵になったようにも思える。人間の「曖昧」とした感情。美しいとか、感動的・・・とかいう、人によっては思わせぶり、とかいいだすような種類の人間の感情や感覚。
現代科学によれば人間は「哺乳類」が高度に進化した「生物」にすぎず、その「動物」としての「人間」の行動は結局、どこまでも物理的な意味で「各個人の保存」のためのいいわけにすぎない、ということになる。そうしたものの見方は「物理的な現実」が「原理的」となった、あの科学特有の世界へと集約されていく。
だが、本当に現象的なことだけで物事の全てが説明がつくのだろうか?では・・・私達の「心の満足」は一体どこへ行ってしまうのだろう・・・?
科学が認めようとしないものが、どうして「存在しない」といいきれるのだろうか?宗教の迷信を科学は打ち破ったが、現代において、その宗教の迷信と同じような役割を「科学」が行っている部分があるのではないか?
要は、ミイラ取りがミイラになるのである。
再び、トルストイの人生論から引用してみる。
「われわれの動物的個我の上で遂行される、目に見える法則こそが、われわれの生命の法則であるとする誤解は、人々が過去・現在を通じて常におちこむ昔からの誤解である。この誤解は、生命の幸福を達成するために動物的個我を理性に従属させるという、認識の主要な対象を人々から隠して、その代わりに、生命の幸福とはかかわりなく、人間の生存の研究を提起するのである。
幸福の達成のために人間の動物的個我が従わなければならぬ法則を研究し、その法則を知った上ではじめて、それにもとづいて世界のほかのあらゆる現象を研究すべきであるのに、間違った認識は、真の生命の幸福のために人間の動物的個我を理性の法則に従わせるという、認識の主要な対象に対するいっさいの関係を抜きにして、もっぱら動物的個我の幸福と生存の研究に努力を傾注している。
間違った認識は、知識のこの主要な対象を考慮に入れずに、過去および現代の人々の動物的生存の研究や、動物としての人間一般の生存の条件の研究に力を注いでいる。それらの研究から、人間の生命の幸福のための指針も見いだされうると思っているのである。」
だから現代科学がいうように、人間をあくまで「動物の生存本能を満たすだけの生き物」として研究し、それのみが正しいとするとき、われわれの社会は単に獣的な荒れた社会性を持つ世界となりかねない。
あなたが良心から社会の中で他人を助けたとき、結局科学はそれを「自分が社会の中で生き残るための手段」だといったとする。つまりそこには社会を構成させるため、人は「自分」のために「他人」を助けねばならないし、その根本原因はあくまで「人間」が生物として「生存競争」の中で他の生物に対して「優位」にたつために「社会」なるのものを形成したためであるからだ、といいだしたとしよう。
そうなると結局「良心」そのものは「生存競争」のための「付随した感情」にすぎず、究極的には各個人の「脳内」で形成される何かしらの「化学物質」によって、「良心」なるものが「社会」性のために促され、我々はこの「世界」で必死に生き延びようとしている「脳」の発達した「哺乳類」という「炭素」で形成された「生物」に過ぎない、となる。
だとすれば、我々は時に考える「良心の呵責」など必要なのか、という問いも出てくるだろう。もっといえば「純粋に人を助たい」という思いは、一体、どこへいってしまうのだろう?
前述の記述からいえば「良心」はあくまで物事の本質でなくて、「社会性」のための方便であるから、「良心」そのものをあまり重視する必要性は薄れてくるように思える。もっと各人が「生き残る」ためには人生そのものを「打算的」に考えてもよいだろうし、無理に「人を助けなかったから」といって悩む必要も薄れてくる。
しかし、我々は本当にそれだけの「生物」なのか?道徳とか宗教が「より良い人間」の生き方を科学から離れて教え、芸術が人間の感情の豊かさと満足を教える。また、物理的原因でしか理解できないような事柄だけでなくて、形而上的な観念的概念に対して哲学が形作られ、万人の幸福と統合を考えて政治が発達してくる。
そうなると一番に最後に登場した科学も結局は人間の発明したジャンルの一つにすぎず、あらゆる知性の権威とはいい切れないと思えてくる。
僕にいわせれば、科学も、宗教も芸術も哲学も、あるいは政治も文学も必要だから生まれたのであり、現代でもまじめに勉強する気があるのならその本質は変わらないと思う。
それ故、現状では科学に偏り気味の人間の認識が現代社会にあらゆる困難をもたらしているように思うし、少なくとも僕はそうした偏った考えは間違いではないか・・・?と思える。
そして、トルストイは、まさにこのことにはっきりとした道しるべをもたらしてくれる。彼の作品に触れることによって、我々ははそうやって、きついいい方をすれば、私達が「心から」幸せになってはいけない・・・と教えてきた「偽の学問」に対する欺瞞を暴き、ものの見方を変えてくれる、ということなのだ。