ゲオルク・ティントナーのブルックナー |  ヒマジンノ国

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ゲオルク・ティントナーによるブルックナー交響曲全集。

 

演奏はロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団(CD1.3.4.5.7.10.11)、アイルランド国立交響楽(CD2.8.9)、ニュージーランド交響楽団(CD6)となっています。

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オーストリアの作曲家、ブルックナーの交響曲全集です。ウィーン生まれの指揮者、ゲオルク・ティントナーによる全集で、非常な名演ばかりとなっています。

 

ティントナーはアイヒホルンなどと並んで、僕自身などは、学生時分、予算の都合で買えなった、ブルックナー演奏にこだわりを持つ指揮者の一人です(ナクソスのシリーズは安くはありましたが・・・)。この手の指揮者にはブルックナーに対する敬意と、熱意とがあります。かつて朝比奈隆をシカゴ響に招いたヘンリー・フォーゲル氏は次のように述べました。

 

「ヴァントは透明な音で速いテンポをとり、明快なソノリティーを見せます。一方朝比奈は深い音で遅いテンポをとります。しかし両者の根底にあるブルックナー演奏の理想には、共通なものを感じます。」

 

このフォーゲル氏のいう、「ブルックナー演奏の根底にある共通なもの」はティントナーの演奏にもあり、ブルックナーを研究したものが辿りつく、数ある理想形の中の一つといえるでしょう。

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以前も書きましたが、ブルックナーは主に「交響曲」という、クラシック音楽の一ジャンルに足跡を残した、19世紀の作曲家です。一般に未完成の作品を含む、9曲の交響曲が彼の代表作であり、どの作品も長大であることが知られています。

 

聴き手の好みが分かれる作曲家で、嫌いな人も多く、初心者には難しい音楽でしょう。僕は元々は好きな音楽で、最近は自分からあまり聴くことはないですが、若いころは好んで聴いていました。

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このティントナーのブルックナー全集は非常に変わっていて、一般に演奏されない初期の交響曲、0番、00(ダブルゼロ)番を含み、3番と8番は原典版による演奏となっています。また3番と8番が原典版なら4番も原典版だろうと思うと、それは違っていて、4番はほぼ決定稿の通りになっています。

 

ここまで来ると、版の問題がわずらわしすぎて大変です。一般人に馴染みのほとんどないクラシック作曲家における、わずらわしい版の問題にまでこだわった全集で、かなりマニアックなものだと思います。全く興味のない人がほとんどでしょう。初めてブルックナーをこの全集で聴いたなら、常識的なブルックナーとは違う、間違った(?)印象を持ってしまいそうです。

 

そのティントナーは、峻厳で、芯のある音作りをしていて、造形は巨大で立体的、テンポを落として朗々とオーケストラを響かせます。ゴシック建築やアルプスの山々に譬えられる、この作曲家の交響曲の持っている、厳しい、雄渾な姿をティントナーは見事に表出しています。反面、穏やかで爽やかな雰囲気を持ってもいて、僕にとって、その辺りはこの指揮者を聴く楽しみとなりました。

 

オーケストラは二流ですから、演奏の正確さを狙った演奏ではありません。またリズム感や躍動感は弱く、そうした傾向を望まないなら、このティントナーは受け入れない人が多いでしょう。そういう人は別の名演を探すべき、というところでしょう。


全曲について書くのは大変なので、聴後の印象を残すためにも、今回はこの全集で特別気になった、8番と1番について書いておきます。版の話にも踏み込んだ、一般の人には分かりにくい話になっています。ご容赦ください。

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まずは8番から。

 

ブルックナーの交響曲8番は、このジャンルにおける傑作の一つで、巨大で壮大な音の造形の中に豊かな内容を秘めた、名曲です。演奏時間は80分から、90分ほどかかります。

 

まず、ティントナーの演奏する8番を聴き始めて驚いたのは、これが先ほども書いたように、原典版だ、ということでした。初めは、何も考えず聴き始めたのですが、どうもいつもと調子が違うので、変だな・・・と思っていると、第一楽の終わりでこれが原典版だと気付かされました。それは、あの強烈なフォルテで終わる、第一楽章の結部のことです。

 

現代、ブルックナー8番の演奏には常識的に、改定後の第2稿が用いられます。ですから、僕はティントナーも第2稿を使っているものとばかり思いましたが・・・。

 

第2稿と違って、原典版(第1稿)は曲の起承転結がはっきりせず、現代からみると、学者達の研究用の価値しかないような曲なのです。しかし、ここでティントナーが驚きなのが、そんな楽譜であるにも関わらず、彼はこの演奏でテンポを落として、細部までこだわった演奏をしていることです。

 

もっといえば、この曲が純粋に「芸術」として優れており、第2稿と比べても遜色ない名曲だといわんばかりの演奏なのです。その上、ティントナーの演奏はそう思わせるに充分な名演で、成功していると思えるのが驚きなのです。

 

とにかく久しぶりにブルックナーの新曲を聴くような新鮮味が蘇ってきました。

 

なんという細部の素晴らしいニュアンス、新鮮な自然の美を思わせるメロディー・・・。ブルックナー特有の、青白い、ハッカのような香り・・・。テンポは遅いですが、晩年のチェリビダッケのごとく曲を壊すほどでもないので、これならその辺りの演奏を聴きなれてきた人達なら充分聴きごたえがあるでしょう。

 

これより以前に同版を録音したインバルの演奏より、名演だと思います。久しぶりに、雄渾な、8番の感動が蘇ってきました。

 

そして・・・次は1番ですが・・・。

 

この全集で一番びっくりした演奏がこの1番の演奏でした。これは大変な名演だと思います。何よりスケールが大きく、こんな演奏ができるのかという驚き・・・。

 

第一楽章からバカでかい雄渾な一番が展開されます。朗々と響く管楽器群、重厚に鳴り渡るオーケストラの底力、聴いているとこれこそブルックナーだと思え、岩盤のような音のソノリティー、そして時折見せる、すがすがしいフルートの冴えた音彩が、耳をそばだてます。がっちりと重心を落とし、夜空に花火を打ち上げるがごとく、放射状に巨大なブルックナーの1番を再現しているのです。

 

そのため、立体感は最高、まさに音の建築物です。本当にかっこいいです。

 

版の問題については、生前、指揮者のギュンター・ヴァントは「ブルックナーが最後に手を入れた版を使うべき」、という発言をおこなっていました。これは僕など、まさに肯定すべき意見で、非常に的を得ていると思います。そうすれば歳をとるほどに円熟をしていった、この作曲家の一番良い部分が味わえるからです。

 

しかし現代、ブルックナーの交響曲1番に関しては晩年の「ウィーン稿」と呼ばれる改定後の作品ではなく、「リンツ稿」と呼ばれる初期の版を使うのが慣例になっています。僕も良く分かりますが、ブルックナーの若き日の魅力を知るのなら「リンツ稿」も悪くないのは確かです。ですが改定後の「ウィーン稿」はブルックナーを聴く際の醍醐味の一つである、空間的な奥行きがはっきりと楽譜に定着しており、ブルックナーの公式の作品として、優れたものであるといえると思うのです。それに比べると「リンツ稿」は圧縮された力感はありますが、音楽の空間的奥行きの少ないのが難点といえば難点、といえるでしょう。

 

ところが今回、こうした意見を覆してしまうような、ティントナーの演奏を聴いて、ちょっと僕は戸惑ってしまったのでした。

 

僕の従来の「リンツ稿」の愛聴盤は朝比奈隆が1994年に録音したものです。


 

邦人の、朝比奈隆の指揮によって、何よりフィナーレの、圧縮された、火の玉が暴れまわるような迫力が素晴らしく、興奮させられました。この演奏は従来からの「リンツ稿」のイメージを崩さない演奏だと思います。

 

それに比べると、ティントナーは従来の「リンツ稿」をさらに原典に近づけた楽譜を使って、後期の大交響曲のような演奏を繰り広げているのでした。こうなってくると、朝比奈どころの騒ぎじゃありません。

 

フィナーレのすごい迫力には、本当に圧倒されます。ブルックナーを聴いて、こういう思いをするのは久しぶりです。しかしこの曲、こんな壮大な曲でしたっけ?ウィーン稿でなくともこんなに立体的に、しかも奥行きたっぷりに響くんですか?

 

のびのびと育成していく旋律、その意気揚々とした姿は天に昇るような蛇のように絡まりあい、頂点ではそれが、重厚な横溢するハーモニーによって崩壊し、聴き手にカタルシスを与えます。

 

後半になるとティントナーは、重々しい足踏みを踏まえ、時にはリタルダントさえ見せながら、強大な、建築物が崩壊していくような頂点を築いていきます。ウィーン稿では削除された単調なユニゾン風の咆哮さえ、ここでは異常な悪魔的な響きに聴こえるのでした。

 

本当に素晴らしいです。

 

他の曲の演奏も良いと思いましたが、この2曲の演奏が特に僕の気に入りました。7番のフィナーレなんかも面白いですが、似たことをチェリビダッケがやっていたと思います。ですので今回はここまでにします。