また演奏の話に戻りましょう。ここでは簡単に名指揮者で、ユダヤ人でもあった、ブルーノ・ワルターの話をしておきます。
ヒトラーの論理によって、ナチスの人種差別が極限に達したのが1938年です。それは決して当時の高名な指揮者であっても免れることはできず、恐るべき迫害の手がこの指揮者にも迫っていました。
1938年の一月、指揮者ブルーノ・ワルターはウィーンでの全財産を没収されてしまいます。そして同年、3月13日、オーストリアはドイツに併合され、翌年の1939年、彼はアメリカに亡命したのでした。最愛の娘の一人は、ナチ党員のその夫によって殺されてしまいます。長女は逮捕され、本人はフランスに演奏旅行に出かけており、暗殺をまぬがれたといわれています。
ブルーノ・ワルターはユダヤ系でした。しかし善の化身のような彼がどうして迫害されるいわれがあったのか理解に苦しむところです。
人種の差と、人種差別は別物です。人種差別のアンチ・テーゼとして、今回はこのブルーノ・ワルターの演奏をあげておきましょう。
これは、ブルーノ・ワルターが財産没収にあう直前に録音されたマーラーの交響曲第9番の録音です。1938年の録音で、オーケストラはウィーン・フィルです。
この年を境にして、先にも書いたように、三分の一もいたというオーケストラ内のユダヤ人達が去っていきます。中野雄氏の言葉を再録しておきます。
「亡くなったけれども、ウィーン・フィルの楽団長だったヒューブナーに会ったき、戦前のウィーン・フィルというのはこんなものじゃなかった。昔が艶っぽかったと言っていた。というのは、団員の中にユダヤ人が三分の一いた。それがみんなヒトラーに追放されて、ウィーン・フィルの音が今みたいに、サバサバした音になってしまったと。ワルターやフルトヴェングラーがいた時代のウィーン・フィルというのはもっと音が艶々としていた。」
マーラーもユダヤ人でしたが、ワルターもユダヤ人でしたから、ここでは相当にユダヤ的な演奏といえます。特に弦の音などどうでしょう。何という濃密さでしょうか・・・。
明らかに技術は今のオーケストラに劣りますし、表現も古いともいえるでしょう。ワルターの演奏はユダヤ人の情念を感じさせはしますが、表現は古典的で、丸みがあります。そのスタイルはロマン派の後期の作品からは離れているように思いますが、ここではそんな理屈は関係ないようです。
この演奏では聴衆から妨害があったそうで、ワルターは脅されていたのですが、そんな異常な空気の中でこの曲も持つ切実な深刻さが赤裸々にされていきます。生前、ワルターはこのレコードだけは破棄して欲しいといっていたそうです。
フィナーレなど聴いていると弦がすすり泣くようで、その語りかけはまさに切実です。そしてまだユダヤ人が逃げ出す前の、濃密なウィーン・フィルの音色が驚きでしょう。とても美しいです。
70年以上前の録音ですが、当時のものとしては音は良く、本当に名盤の名に恥じないと思います。
もう一点。
1952年の録音で、戦後、1947年から彼は再びウィーン・フィルの指揮を始めました。これはそんな中の一場面です。
このレコードが有名なのはやはりモーツアルトの交響曲40番、第一楽章のポルタメント(音程のずり上げ)のせいでしょう。僕はワルターの40番はコロンビア響とニューヨーク・フィルのものも持ってますが、この演奏でみるようなポルタメントは一切ありません。
戦後、互いの苦しみを回顧するように響く、このポルタメントこそはワルターとウィーン・フィルの団員達の涙でしょうか。・・・ポルタメントによって、この曲における名旋律が泣いているように聴こえるのです。もう戦前のようにユダヤ人達が三分の一もいるわけでもないんですが、ワルターの表現は濃密です。
録音の音は悪く、金だらいを叩いているような音ですが、CDには良く定着しており、音質さえ気にしなければ聴きやすいです。
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<最後に>
1952年のCDのライナー・ノートで小石忠男氏は次のように書いています。
「1960年、師のマーラー生誕100年祭のため、ワルターは病身を押してウィーンに行き、ウィーン・フィルを指揮した。当時83歳のワルターが舞台に歩み出ると、聴衆は一斉に起立した。ウィーンでは未曾有の出来事だった。」
敬意に等しい扱いを受ける人は決して人種の差で決まるのではなく、その人生をどう生きたかで決まるのであって、仮に人種の差があるといっても、それは結局方便としかなりえないのです。
戦前とは違う態度になっていたとはいわれますが、かつて迫害にあった地に戻り、それを決して恨みの種にすることなく、演奏するブルーノ・ワルター。人類愛に満ちたといわれる、ワルターこそ本物の指揮者の一人であったに違いありません。
愚かな、自分の領分を把握できない人間こそが人生を無駄に争い、浪費するのです。だからこそ逆に、自分がどういう人間であるか、あるいは何が向いているかを把握するのは、互いが無駄に争わないための第一歩でしょう。
そのためには自分がどういう人間か、ということをしっかり把握することは、あまり大げさに考えすぎない限り、我々には必要なことだと、僕は思っています。


