クラウディオ・アバドのボックス1 |  ヒマジンノ国

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ドイツ・グラモフォンから発売された、クラウディオ・アバドの「シンフォニー・エディション」をほぼ聴き終わりました。全部で41枚の組物となっています。


今回はその感想を書いていきますが、僕はアバド自身についての知識はあまりなく、ここで文章を色々書いてみても推測の域を出ない部分も多く、やや歯がゆい思いをしました。しかし、オーケストラの演奏が、指揮者の実生活や、体験を離れて存在するということは考えにくく、曲を聴いてみて受けた印象というのが、その人物の考え方や生き方を反映するだろう、ということも、どうしても僕の頭からは離れにくいため、ここでは、そうした表現もそのまま残すことにしました。


そのため、その推測が違ったとしても、この組物を聴きながら、心の中に浮かんだ印象はできるだけそのまま書いておきました。僕は、一定の結論を僕はここで引き出し、それは今後簡単には変わらないことが予想されます。ファンの多い指揮者ゆえ、自分の意見と異なる意見の方も多いと思いますが、その上、承知の上お読みいただきたいと思います。もし、僕の意見と違う意見であり、また、全く僕自身がクラウディオ・アバドのことを分かっていないというのならば、その意見には敬意を表したいと思いますし、尊敬もいたしたいと思います。


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<全体の印象>


確かに「音楽をする喜び」、というものがあるのなら、それはこのボックスにこそふさわしいのかもしれません。交響曲がドイツの精神的な素養を表現しており、その深刻的な内容から、指揮者にもそうした資質を求めるということは、ここにはあまりないのかと思えます。それは考え得るに、クラウディオ・アバドの生きた時代と、その先天的な資質によるところが多いと思えます。


もし作曲家がまだ存命し、新曲がまだ誰にも演奏されない状態で、その曲が初めて演奏される場合、指揮者はその楽譜を自分で解釈し、その書かれたスコアから作曲者のいいたいことを自分で見つけなければならないはずです。その時、指揮者は恐らく自分が内心、創造者であると同時に、あくまで再現家であることを自覚せねばならないでしょう。


過去の演奏家達が必死になり、楽譜からそのいいたいことと、音楽の力学的問題と格闘し、作曲家の声を伝えようとした時代は今や過ぎ去りつつあります。なぜなら、現代人はテクノロジーの発達のおかげで、過去の録音を聴くことができ、その情報から入ることができるからです。


ベートーヴェンはこういう音楽である・・・あるいはショパンはこう演奏せねばならない・・・という風に・・・。もし、現今、大衆に支持されるような作曲家がいるのなら、現代の演奏も古い時代の演奏家のような自己表現が必要だったかもしれませんが、そうした関係は、ショスタコーヴィッチ、ムラヴィンスキーの死後、あまり大衆に目のつくところではなくなってしまったように思えます。


近代的な演奏者主体の演奏は、トスカニーニが準備したものを、ベルリン・フィルの前任者、ヘルベルト・フォン・カラヤンによって最高度に高められ、一定の基準と、その正当性とを強調されました。確かに楽譜が、抽象的な記号で書かれていること自体が、音楽が楽譜を理解できる万人のものであることの証明であり、事実ではあります。そのため、こうしたスタイルは演奏者個人の主体性を持つと同時に、抽象的な楽譜の正確な読解による、客観性の強い演奏ともいわれます。


こうした事実によって、演奏者が音楽界全体を見渡すことを可能にし、各作曲家に対する一定の理解を促していったようです。

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さて、改めてそうした事実を踏まえ、このボックスを聴くと、クラウディオ・アバドが各作曲家に対して、平均的な理解を示し、そのいいたいことを理解していることを実感します。彼はその作曲家に対する「的」を決してはずすことなく、万人に受け入れられるであろう、演奏をしているようです。


そういう意味ではクラウディオ・アバドの指揮は、音楽に対する研究的な気質と、その知識に裏づけされたものの混合であるという印象が伝わってきました。聴いていると、知性的な、エリート風の、現代的な演奏だと感じるのです。


それは、今後も動くことがないであろう、クラシック・レパートリーの流麗な再現であり、現代知性から見たクラシック音楽ともいえると思います。


しかも彼の演奏には音楽の持つ、内容と力学的な深刻さに耽溺しない、生来の明るさがうかがわれます。ここには多分、彼がイタリア人であることが大きく関わっているように思いました。


<「フィンガルの洞窟」にみられる情緒のゆたかさもまたこの指揮者の資質であろうが、それが常に明朗感を伴っていることはイタリア的特色と理解したい。」(小石忠男)>


アバドはそういう知性的な演奏を心がけながら、イタリア的ともいえる、艶やかさと演奏する喜びを隠そうともせず、指揮をします。哲学的なドイツ音楽を、現代知性と、しなやかでイタリア的なエレガントな喜びの装いでもって、再現しているのです。


そしてそれこそがこのボックスを聴く最大の喜びであるともいえ、ドイツの交響曲に一定の理解を示しますが、決して深刻にはならない楽しさがここにはあると思いました。