カラヤンのプッチーニ1 |  ヒマジンノ国

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戦争に明け暮れた20世紀前半。ヨーロッパの音楽界にはまだ、前世紀のなごりを残した演奏家達が多く存在していました。それはまだ人間が「偉大」だというような、夢想が通じる時代でありました。


およそ、19世紀においては「政治」が必ずしも人間生活の一大権威ではなく、時には文化芸術の、偉人達の意見が優遇され、尊敬されていました。


しかし、二度の世界を巻き込んだ戦争が、旧来の価値観や、権威を破壊し、世界の見てくれを変えてしまいます。戦後の新たなイデオロギーは、世界により政治的な権威性を持たせたようにも思えます。


そのような世界では、旧来の価値観を持つ人々は遂に淘汰されていき、現代その面影はほとんど姿を消してしまいました。人間生活にも自然との調和があり、芸術にも同じように自然界の雛形を見る時代は難しくなっていったのです。

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戦後、資本主義によって生み出された多くの中産階級は自身の存在意義を、東側諸国のイデオロギーと比較しながら、その価値を存在させ、20世紀後半の半世紀を、表面的には謳歌していきます。平和な時代の到来です。


西側といわれる国々の、豊かになった一般市民は、余暇や娯楽に興ずる時間を見つけることができるようになり、自ら一人一人を、一種の、新しい世代の人種、として理解してきたようです。


そんな中で、彼らの中には、「自ら」が優れた人物だとして、そうした心情を満たしてくれるものを余暇の中にも求め、楽しみとしてきたようでした。


・・・そして、そうした楽しみを満たすものとしてのクラシック音楽があります。いわば、自身をエリート、あるいは今風にいえば、セレブとかいわれるものの心情を満たす娯楽として、時折、クラシック音楽は利用されてきました。娯楽性と芸術性の共存が難しい現代、クラシック音楽は時に自身の教養をひけらかす道具として、あるいは、自身のステイタスを示す物差しにもなってきたのです。


そうした望みを満たすのに格別心血を注ぎ、偶像となっていたのがオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)でした。


信じられないような、オーケストラの磨きぬかれた美音でもって、彼は圧倒的な美的空間の演出に成功し、自身が満ち足りた人間でありたい人々の心をくすぐり、心酔させていきました。かつての19世紀風の大家達が、地味で汗臭い努力で作り上げてきた音楽界の偶像はそこにはなく、金色に輝く、新たな時代の、彼らのための「イコン」、としてブラッシュ・アップされていったのです。


大作曲家のしもべという自覚、それがかつての演奏の巨匠達の心情であったとすれば、現今、世間一般を納得させることができる作曲家がいない以上、そうした心情は不必要となりつつあります。


かつての「偉大なる人物」達が残してくれた音楽を、かつての巨匠風ではなくて、どう現代に蘇らせるのか・・・こうした取り組みがカラヤンの芸術によって、一つの答えを得たようにも思えます。


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演奏する際、カラヤンはどんな音でもおろそかにしようとはせず、しっかりと聴かせようとするため、ハンドリングが重く、とかく丁寧さを強調します。そのため、音楽は、無駄に、流れやすくない、音の漂う空間を形成します。その上で、彼は音の角を取り、滑らかに流麗にし、たっぷりと鳴らすのです。


その音は密度が濃く、なおかつ精密な響きを密集させることによって出来上がる、極上の味わいがあります。


それは新しい時代が要求した、芸術でした。


そこには、曲の内容よりも、見てくれの美しさ、輝きがあり、信じられないことですが・・・その陶酔感は簡単に抗えないものとなりました。豪華絢爛に鳴り響く、カラヤンの芸術の完成です。


反面、そうしたやり方に反対した人も多くいたのですが・・・。


人によってはそうしたカラヤンの芸術なら「何でも良い」という人もいるようです。しかし、アンチ・カラヤンで名高い批評家の宇野功芳は次のように述べています。


≪カラヤンの演奏は「なんという素晴らしい曲だろう」と感動させるよりは、「うまい演奏だ」と関心させる方に傾いている。作曲家が得をするのではなく、あくまで自分にスポットを当てるのである。≫


まさにこれは的確な一言で、カラヤンの演奏が何でも良い、という人の理由の一つを良く語っているようです。


また、この言葉は、かつての演奏家が目指した「作曲家のしもべ」ということをやめてしまった、カラヤンの姿が良く垣間見える言葉でもあります。それゆえ、過去の演奏家が好きで、オールド・ファッションの人達などは、カラヤンの演奏で「世間的に良い」、といわれているものでも、あまりにカラヤンのスタンド・プレーが過ぎて、ついていけないものも多々あるのもまた、実情でしょう。