ケスティングはカラスのスタジオ録音の芸術的な成功は、指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンに負うことが多いとしてます。確かにカラスは声が衰えたとはいえ、実力はまだまだ充分ですし、人によってはこれだけ聴いていても充分なのかもしれません。
「イル・トロヴァトーレ」では確かに、オーケストラがものをいうところがあります。ジプシー達の鍛冶の合唱など、やはりオーケストラがしっかりしない限り、魅力は半減します。そのあたりは良い指揮者を必要とするでしょう。
最後にこの「イル・トロヴァトーレ」についてそのカラヤンの新盤を聴きながら、カラヤンの演奏論を踏まえつつ終わりにしたいと思います。
新盤でのカラヤンの演奏は先に触れてきたヴェルディのオペラ「オテロ」、「アイーダ」と同じように、透明度が高く、明晰なオーケストラの音がする、しっかりしたものです。しかし旧盤はともかく、この新盤が良くないのは歌手達が大人しすぎるということでしょう。そしてその責任はカラヤンにあり、ここでは彼のやり方が「よくない方向」に出ていると思います。
とても演奏が「乾いている」という印象です。これは個人的に、カラヤンの演奏を聴いていると、曲によっては気になる部分で、曲の内発性を殺してしまいます。
文春新書で「ウィーン・フィル音と響きの秘密」(中野雄、著)という面白い本があります。参考に、この中でカラヤンの下で演奏したことのある、元ウィーン・フィルの団員が、その当時の印象を語っている部分があるので引用します。
「彼は私達に、『自分は、この曲を、こういうふうに演奏したいんだ』という大枠を示して、その中で楽員は自由に弾かせてくれる。プレイヤーの自発性を邪魔しない。彼と一緒だと、いつも伸び伸びと、気持ちよく演奏が出来る。」(ロベルト・シャイバン。元主席チェロ奏者)
「細々と指示されているわけではないから、私達は自分の音楽を気分良く弾いたつもりになっている。ところが終わってみると、これが100パーセント”カラヤンの音楽”になっているんですね。催眠術師みたいな人です、彼は。」(ワルター・ヴェラー。元コンサート・マスター)
こうした言葉を聞いていると、一見、オーケストラ側などにも「自発性」があるような気がしてきます。ですが、奏者達が自発的に演奏するのなら、僕など、もっと曲が生き生きとしても良い気がするのです。
しかし、彼の残した「イル・トロヴァトーレ」の録音を聴いていると、どうもそんな気がしません。このことはベルリン・フィルで彼の前任者であるフルトヴェングラーの残した録音と比べると、はっきりするように思えます(ただフルトヴェングラーはトロヴァトーレを録音していないので、彼の、他の録音との比較、ということになります)。
カラヤンの場合、彼はオーケストラに必要な指示を与えるだけで、それ以外ことはオーケストラの自発性に任せていたようです。それに比べるとフルトヴェングラーは言葉や身振り、アイ・コンタクトなどで常にオーケストラに語りかけたといわれており、実際、録音を聴く限り、オーケストラ側からより内面的な音を引き出しています。次は、ベルリン・フィルのティンパニー奏者であった、ヴェルナー・テーリヒェンの有名な著作「フルトヴェングラーかカラヤンか」(高辻知義、訳。音楽之友社)から、フルトヴェングラーの演奏行為についての描写部分を、引用します。
「だが、それは単なる解体とも、音量の減少ともまったく違っていた。むしろ反対であって、それは偉大な体験をじっと手放さずにおこうという、まさに印象的な行為にほかならなった。彼は何か貴重なものを私たちにの目の前に示そうとするかのように左の掌を開き、総譜にディミヌエンドーが記され、楽器編成がしだいに薄くなっていってもそれをやめなかった。彼はその響きをどうしても手放そうとはせず、音量は減らしながらも音楽の密度はむしろたかめていった。すでに鳴り響いた音楽のあとに生じた総休止(ゲネラルパウゼ)の中に、何とおびただしい音楽が知覚されたことか。私は息がつけなくなり、肌は汗ばんできたが、それまでいろいろと大オーケストラでの経験がありながら、そんなことは初めて体験するところだった。同僚たちと話して確かめたことだが、彼らも同じような感情から逃れられないようだった。演奏の途中にはそのような密度からはずれる小節は一つとしてないのだった。数時間のヴァーグナーのあと、私はこの上なく幸せな疲労感に浸っていた。何しろ、壮大な事業に参加していたのだから。」
実際、フルトヴェングラーの演奏は一度体験すると、簡単には忘れられないものばかりです。ベートーヴェンの「エグモント序曲」に聴く、あの冒頭の天上世界を垣間見るような音色。あるいはシューマンの「春」交響曲の第一楽章における、展開部最後の信じられないような迫力。それも単に大音響だけでない、内的なオーケストラの自発性で、密度の濃い音です。彼の演奏を聴いていると、「自発性」という言葉の意味がはっきりと分かります。それに比べるとカラヤンはどうでしょうか。
テーリヒェンはカラヤンについて、次のように語っています。
「カラヤンが受け継いだプログラムは、フルトヴェングラーが練り上げ、オーケストラが素晴らしい演奏を行ってきたものだった。だが、アメリカでの最初の公演では、フルトヴェングラーとの協演で慣れ親しんだ成果に比較すると、フィルハルモニーの楽員たちにはいろいろと不満な点が残っていた。視線のコンタクトが欠けていて、指揮者の身振りが控えめなためにすきまが生じ、それは埋められねばならなかった。
そのすきまを私たちは手探りしながら進むことになったのだ。私達は一種の挑戦を受けていた。フィルハルモニーの楽員たちは以前から非常に室内楽的な演奏を心がけていたが、そのときから、私たちはさらにお互いの音に注意するようになった。よく考え抜かれた、柔らかい響きが流れ出た。オーケストラに自立心が増し、責任感すらも増大した。途方に暮れた最初の感じは大いなる努力によって克服された。
これまでベルリン・フィルは献身的に演奏することに慣れていた。ところが、いまや、前方、音楽的行為のまっただ中に一人の男が立って、その磨き抜かれた響きがいかにもやすやすと作り出されるかのような印象を伝えているのである。」
ここである程度まで「自発性」の意味が明らかになります。それは、どちらかといえば、カラヤンはオーケストラ側に「自発性」でなく、「自立性」を持たせたのではないか、ということです。
これはカラヤン自身が、「指揮者」であることを明確にして、オーケストラ側との「区別」をもうけたのだ、ともいえるでしょう。もし、オーケストラに「機能性」が必要だというのなら、彼は明快な答えを持ってそれに答え、成功したといえます。しかしそのことによってオーケストラの「音楽」に対する「内面の自発性」はかなりの程度失われたようです。
このことは、色んなカラヤンの録音を聴いていると、オーケストラだけでなく、カラヤンの演奏で歌う、歌手についてもいえることが多い、と思えます。カラヤンの目指した美学の中で、歌手でさえ、自分を押さえてその美学に通じるようにしていることが多いようです。
ただカラヤンの演奏について、「自発性が失われる」と書きましたが、全ての演奏がそうだというわけではありません。むしろ、カラヤンは良い演奏も多いですから。僕がいいたいのは、カラヤンの悪い面が出ると、特に「自発性の欠如」といいますか、「内面の情熱の不足」が目立ちやすい、ということです。カラヤンの指揮の下、彼の美学に即して歌う歌手でも、美しい演奏は多いと思います。
また、フルトヴェングラーの場合はというと、結局彼の場合も、「指揮者」と「オーケストラ」という区別はあったのでしょう。しかし、フルトヴェングラーの内面には「指揮者」と「オーケストラ」という区別を超えて、音楽に関わる自分達が純粋に「音楽家」である、という大原則を決して忘れなかった「心」があったのだと思います。だから、彼らの演奏には「音楽家」としての集団の、自発性があるのだということではないでしょうか。これは彼の演奏した声楽入りの曲でもいえることです。
両者とも、現代の民主的になりすぎた、オーケストラには無理な演奏なのでしょう。しかし、ここではカラヤンについては、やや批判的には書きましたが、そこには、それぞれの魅力があったようです。
ただ今回この「イル・トロヴァトーレ」という曲と、この曲のカラヤンの演奏を聴くにつけ、以上ようなことが頭に浮かんだ、ということです。カラヤンの「イル・トロヴァトーレ」についても映像のものや、カラスの伴奏をしたものは比較的好評なようですし、仮にフルトヴェングラーが「イル・トロヴァトーレ」を演奏したとしても、うまくいくかはわかりません。
しかし、このヴェルディのオペラが、マリア・カラスのライヴ音源の迫力などを考えてみても、曲そのものが歌手の自発性を必要としていて、このカラヤンの新盤が、それに失敗しているということは、僕には明らかなように思えるのです。
