パルシファルに対する簡単な考察 |  ヒマジンノ国

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長谷磨憲くんち


若いころは・・・パルシファルが好きでした。


今も好きではありますが、若いころほどは聴きません。昔はブルックナーの8番と並んで愛聴していました。


ワーグナー最後の作品となった楽劇「パルシファル」ですが、この作品は人間の純潔を表現した、静謐な音楽です。後期のワーグナーの作品はおおよそ四時間ほどの長さが標準ですが、この作品もそうです。とにかく長いです。


心理学者のカール・グスタフ・ユングは、男性の心を成長する四段階に分け、それが女性のイメージを表しているといいました。ユングはこれを「アニムス」と名づけています。


象徴的意味で見るというのなら、ワーグナーのリングにおける、ジークムント、ジークフリート、そして、パルシファルにいたる段階をこの「アニムス」に例えることができるでしょう。ジークムントの場合は第一段階の、あくまで、生物としての女性として、現実の女性を見る・・・という意識です。そしてジークフリートはロマンスのある、一人の女性への敬愛の意識、そしてパルシファルの場合は肉体的な性愛を超えて、女性を見る意識です。第四段階はワーグナー作品では出てきませんし、その内容もちょっと現実離れしていますので、ここでは触れません。


ジークムントとジークフリートの場合はどちらも近親相姦ですが、ジークムントの場合は、直接の姉妹と結び合わされることによって、男性目線から見た、明らかな性の混乱を表現します。それが今度はジークフリートとなると、もう少し性の意識が整理されて、叔母であるブリュンヒルデと日の光の下で結びわされ、結婚となるのです。


そしてパルシファルですが、この作品で遂に、主人公にとって愛の対象となる女性は、登場しないことになります。誘惑する女性、クンドリが登場するだけです。ワーグナーはパルシファルでイエス・キリストの面影を描くとともに、快楽に浸るだけの、だらしのない、人間の性の世界を断ち切ろうとしたのでした。それは人類社会が混乱する大きな要因の一つだからです。


物語の中で、クンドリは改心すべき苦しみの意味を得、改心します。そして、心を入れ替えた彼女は、マグダラのマリアのように描かれます。これを再び象徴的意味でみれば、クンドリは誘惑する快楽としての性の象徴で、改心したクンドリは女性本来の姿となります。聖槍は男性器を、聖杯は女性器を表し、ヘルツェライデは意味のない虚勢であり過保護を意味します。


そしてその聖なる姿を、実現できる男性像こそは、パルシファルであり、イエスであるとしたいのが、ワーグナーの意向でしょう。


それは、どんなに淫らで、快楽に身をやつした女性でも、この男性の意見なら受け入れられる・・・というような姿ですが、そのことが個人的無意識を超えて、より普遍的な無意識の中で、女性が本来求めるべき青年の姿と結び合わされなければなりません。それはまさに清き人間の像で、まだ知恵の実をかじる前の、アダムの姿とでもいいましょうか。


このオペラがもし、単に音楽的な慰みものではなく、本当に内的な意味から、万人に理解されるというのなら、現実社会のユートピアは近いのかもしれません。

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しかし・・・結局・・・ほとんどの人に、このオペラの意味は分かってもらえないでしょう。色々勘違いされそうです。何も性行為が悪いとかそういう話でもありませんし、愛のあるセックスしかダメとか、そういうことでもありません。じゃあ、翻って、奔放にセックスしていいのか、といい出す人にはもう、何をいっても無駄でしょう。キューブリックの「アイズ・ワイド・シャット」でも観て下さい。・・・多分意味が分からない、とかいうでしょうけど・・・。そういう風にしか見ない人は、せいぜいニーチェの哲学止まりではないかと思います。


ですので、とりあえず解説は・・・ここまでです。


長谷磨憲くんち

全曲を聴きたい方はクナッパーツブッシュがステレオで残した有名な1962年の録音があるので、そちらをどうぞ。


僕は簡単に、第一幕への前奏曲と聖金曜日の音楽だけを、マタチッチの演奏で聴きます。彼の演奏する前奏曲は遅めで、14分もかけています。こういう音楽はマタチッチに良く合う音楽でしょう。聖金曜日の音楽もマスな厚みの音響で、歌い手がいなくても音楽だけで楽しめます。


ジークフリートの森のささやきも名演です。オーケストラはNHK交響楽団で、1975年のライヴとなっています。