環境問題と雑考2 |  ヒマジンノ国

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長谷磨憲くんち

<ニューエイジというもの>


地球が一つの生命体であるという意見は興味深い。


「デカルトは、魂をもたないという理由で動物を機械になぞらえ、いっぽう人間には不滅の魂があるから感情もあれば合理志向もできるのだと主張しているが、これにはときどき頭をひねらされる。」


とラヴロックは述べ、さらに・・・。


「ガイアのもっとも重要な特性は、すべての地球生命にとって諸条件を最適にしようとする傾向である。われわれが、<彼女>のこの最適化能力にまだ深刻な打撃をあたえていなければ、それはいまも、人間が舞台に登場する前と同じ強さをもっているにちがいない。」


「最初の特性についていえば、ガイアの世界がダーウィン的な自然淘汰をへて進化してきたものであることは、すでに仮定ずみであった。その目標は、太陽の出力や惑星内部からの出力の変動を含め、あらゆる状態で生命に最適な諸条件を維持することである。」


とも述べている。


こうした考えはときとして、科学を超え、その他の分野への適合を求める。現代は「科学的」であることが物事の「正当性」を保障する担保となっているが、こうした進歩的な考えは、その担保を外しかねない。場合によっては非科学的な神秘主義やオカルトなどにも近づきかねない考えである。いわば、これが「ニューエイジ」というやつだが、この扱いは難しい。


<簡単な持論>


東南アジアには「コノハムシ」という、樹木の葉っぱにそっくりな虫がいる。もしあれを人間が外見だけでも、模型でよいから、見た通りそっくりに作ろうと思うと、それは中々大変な作業である。もし、少しでも何かしらの創作に関わった経験のあるものなら・・・絵画、音楽、彫刻・・・その他諸々から・・・次のことは納得してもらえるだろう。


ある造形の形を、現実にある、本物そっくりに、あるいは、まとまった納得いく形にまとめることには、非常な意志の力が必要である、と。


長谷磨憲くんち


人間は他の動物に比べて、自由意志の範囲が広く、創造性に優れている。しかしそんな人間が努力しなければ造れないような、木の葉そっくりな形の体を、その虫は生まれながらに備えている。ラヴロックは先の文章でも少しダーウィンについて触れているが、造形には強い意志が必要だという点を踏まえ、こうした虫の進化を考えると、僕は、そのダーウィンの進化論にもやや疑問がわく。


これはあくまで人間の目線からものをいうのだが、「コノハムシ」が自分の進化の場所を求め、木の上に住み、さらには、敵から身を守るため「木の葉」そっくりに擬態した・・・としよう。


だがよくよく考えてみればその「木の葉」の形を創造したのは本当に「コノハムシ」自身なのか・・・という疑問が僕にはわく。仮に「コノハムシ」に心があったと仮定して、当たり前のことをいうが、彼は自分の意志で、自分の体を作ってきたのではない・・・と思う。そしておそらく、あいつらは「こうやって生きていこう」なんて思ったこともないだろう。つまり「木の葉そっくりになってやる」なんて彼らが思ったかといえば、おそらくそれは違うはずである。


「コノハムシ」自身の「本能」とかいわれるものこそ、それこそ「コノハムシ」の、それが深層心理として、彼らの生き方を促したのだろう、と思われる。


結局、何をいいたいかといえば、ああいった精巧な生ける造形として存在する「虫」を考えたとき、その裏側に、その「本能」を支配する、何か別の「正確」さと「意志」とがあるのではないか、ということである。


僕には、それが我々が現実に認識する「虫」そのものの、キャパシティーを超えているいるように思えるのである。

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我々の体を考えたときも「心臓」は常に動いているが、それがなぜ動いているかは分からない。そういう筋繊維でできている、といえばそれまでだが、正確に動き続けるには何かのリズムは必要である。


あるいは花とミツバチが協力するとき、一体なぜ彼らは協力しなければならなかったのか?「生存競争」、「適者生存」または「自然選択」などでものを考えると、本当に協力することが進化に生き残るために「絶対」に必要かどうかは疑問に思えてくる。


「コノハムシ」にしてもあんなにバリバリに「木の葉」の形になってしまって、この先の進化の見通しなんかもあるのだろうか?本当にこの先、自分の種が「生き残るため」に必要なことだけをするのなら、まあ、これは個人的な考えだが・・・僕ならきっと「木の葉」になんかならないだろう。


ダーウィンの進化論でいえば彼らにはもう未来はないのかもしれない。


ある易者は次のようにいった。


「西洋は万物は違っている、そこに生存競争が生じ適者生存の法則が働くと考えるところですが、易経はそこで”ひとつ世界、ひとつシステム”となると考える。ダーウィンの進化論よりはマシなアイデアのように思われます。西洋の”生存競争・適者生存”のゴウマンさは、いま世界いたるところで破綻しています。」


僕は正直この文章を読んで、そんなにおかしなこともいってないと思ったものだ。


・・・最近ではやっと「生物の多様性」などという言葉も出始めてきた。どんなに意味の分からない生物でも、自然界では生きる場所があり、役割がある。ダーウィンの進化論が間違っているとはいわないが、個人的に考える限り、やはりまだ「不完全な理論」なのだという感じがして仕方がない。ダーウィンの進化論があてはまるケースも多いとはいえ・・・。


しかし、今のままの形では「強いもの勝ち」の理論のままで、それが「全生物の目的」のように聞こえてしまうところがある。当然、そういう部分もあるのだと思うが、しかし、実際はもっと余裕のあるのがこの世界の本質ではないか、と僕は思う。


ラヴロックのガイア仮説も同様に、個々の生物を見るのではなく、その背後にあるものを見ているのだと思う。そして、こうした全世界の背景を見る見方こそ、今の環境問題に必要な視点だろう。