僕は1986年にバーンスタインがアムステルダム・コンセルトヘボウ(現在ロイヤル・コンセルトヘボウ)を振って入れたこのマーラーの第9番の第4楽章を繰り返し聴いてきました。
死の床にあるマーラーが、この世への憧れを持って綴ったこのアダージョは、慰めと浄化の感情に満ちています。
僕にはバーンスタインは晩年にいたって、彼がマーラーの音楽そのものと一体となって演奏しているように思えたものです。旧全集で曲と指揮者の乖離を感じさせた彼はもうそこにはいないかったのです。
そして彼がそのマーラー演奏の極意を示すようになってから、録音されたこの音源こそは、マーラーの音楽の究極の解釈といっていいのではないでしょうか。このレコードが発売された当時、レコード芸術の月評欄では諸井誠氏の次のような言葉が載りました。
「バーンスタインは、一体マーラーのスコアから、その内奥に隠された何を発見したのだろうか。第二楽章以下に、特に興味深いものがあるのは、バーンスタインの今回の演奏の奥深さと密接に関連があるだろう。マーラーの音楽がこれほど20世紀的に感じられたことは今までに経験しなかった現象である。一方では、インバル/フランクフルト放送交響楽団のマーラー・プロジェクトが、徹底したスコア分析から明晰性の極限に向かって進行している時に、他方ではバーンスタインがスコアを超えた内面的アプローチで、フロイトの「夢判断」をも想起させるような心理学的アプローチで、マーラーの精神的構造の解明に、<演奏>を通じて乗り出してきたことは、ますますこのプロジェクトへの関心をそそるのである。アダージョ・フィナーレを聴き終わった時得た異様な感動は、鳥肌の立つ思いでしばらく茫然となっていた筆者の心に長く余韻を響かせたのであった。」
本当にこれは的を得た批評だと思います。
他方、テンシュテットのマーラー演奏について同じくレコード芸術で大木正興氏は次のように述べています。これは第三シンフォニーについてですが・・・。
「テンシュテットの指揮はこれまでのマーラーのいずれの交響曲とも共通する精緻澄明なものだ。あるいはまた一段とその度を深めていってるといってもよいかもしれない。とにかくここには清らかに磨きあがった清潔にして透徹した感性がぴんと張りつめていて、一瞬の遅疑も混濁もなく、見事な複雑多面の結晶体を形造ってゆく。それは一時期前に音楽造形法にサイエンスの導入が感知されたころの様式とはまったく異なった質のもので、もっとはるかに音楽そのもののうちに根ざし、そこからすこやかに伸びあがった精緻さという意味で、オーケストラ表現としての造形のよって立つ音楽的細根をほとんど完全に張りめぐらした指揮ぶりという感を抱かせるものである。」
こちらもまさにテンシュテットの芸風を明確に表現していて、いささかも付け加えるべき表現はありません。
こと、マーラーの第9のアダージョに関して、テンシュテットはいつものように音質のテクスチャーにこだわった、視覚的ともいえる音楽的な演奏をしてみせます。それはヨーロッパ知識人の知的興奮とでもいえるものでしょうか、そうした不思議な魅力がこの演奏にはあります。
その美しさは時に妖しささえ含むような、鮮烈なもので恐らく他のすぐれた演奏と比べることさえしなければ充分に美しいと思えるものです。
しかし、それでもなお、やはりバーンスタインの演奏が始まるとこれこそがマーラー演奏の本家だと僕は思うのです。音質のテクスチャーの魅力は明らかにテンシュテットのほうが素晴らしいのですが、バーンスタインは全身全霊で、もっと柔かなオーケストラの音から、まるでしぼりだすようなマーラーの肉声ともいえるものを拾い上げていきます。
・・・結局、見た目の美しさではないのでしょう。その音楽の意義深さが必要なのだ・・・ということでしょうか・・・。
僕がバーンスタインのマーラーを好むのはそうした見た目だけではない、真実の音楽的意義がそこにあるからなのだと思います。今回この素晴らしいクラウス・テンシュテットのマーラー全集を聴いて発見したのは、そうした比較から生まれた、新たな過去の演奏の価値であったのです。
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<総評>
テンシュテットのマーラー全集はかなり価値が高いように思えます。おそらく繰り返し聞いてもその音楽的な意味を理解するのにはかなりの時間がかかるかとも思います。
ファーストチョイスには向かないでしょう。しかしマーラーマニアには必聴かと思いました。
