ロード・オブ・ザ・リングス4 |  ヒマジンノ国

 ヒマジンノ国

ブログの説明を入力します。


長谷磨憲くんち


<あとがき>


最後にこの作品の悪に対する哲学的な側面を考察して、全体の結びとします。他でも少し触れましたが、リン・カーターの著作の意見を叩き台として考えてみたいと思います。

_________________________


_________________________


リン・カーターは自著「ファンタジーの歴史」(中村融訳、東京創元社)のなかで指輪物語の欠点のいくつかをあげているが、そのなかで特にトールキンの悪に対する見識をあげつらっている。


<そしてトールキンの悪の発想には、ひどく誤ったところがある。悪はふつう善よりも紙上に定着させるのがはるかに易しい。・・・(中略)・・・しかし、トールキンにおいて悪の要素は、きわだって底が浅く、説得力が乏しい。彼の邪悪な魔物は、何となく薄っぺらで、二次元的に思える。彼らはごくあっさり始末される―――ガラドリエルのガラス瓶が閃光を放てばおしまいだ。三部作の千三百ページをを通じて、冥王サウロンという不気味な存在が、背景のように立ちはだかっている。途方もない力と脅威に満ちた人物だ―――しかし、最後に(まさに文字通り)一筋の煙のように吹き飛ばされるのだ!C・S・ルイスのほうがよくわかっていた。悪が執拗で頑強であり、あっさりとは追いはらえず、多大な犠牲を払わなければ根絶したり退治したりできないことをしっかりとわきまえていた。>


以上がリン・カーターのいい分だが・・・確かに、彼のいいたいことも分からなくはない。実際、サウロンが滅んだ時、彼と指輪のつながりがあったとはいえ、その必然性を我々は現実的に理解はできなかったかと思う。


サウロンが、この物語の「最大の悪役」であるにもかかわらず、である。

_________________________



_________________________


だが・・・とも思う。もし悪についてのみ考えるというのなら、しつこいまでに描かれる、支配の指輪の悪性の性質についてはどうだろう。そしてその指輪に対するこの物語のキャラクター達の執着ぶりも。


考えようによってはこれほど悪性の物に対する執着を、そのまま「執着」として描いた作家というのはそういないのではないか、と僕は思う。


どちらかといえばリン・カーターのいいたいのは物語上の実際的な、目に見える、悪の部分に対する言説であって、形而上的な物にまでは言及していないように感じられる。

_________________________



_________________________


この物語の最後で、フロドはあのガンダルフやガラドリエルといった不死の存在達と肩を並べ、定命の世界から旅立つことを許される。


長谷磨憲くんち

それはまるで生きながら天国へと旅立つ者の様である。


指輪を葬る旅の中でフロドが見たのは、同僚のサムのすむ「善の世界」と、異質なゴラムの住む「悪の世界」の境界線であった。フロドは果てしのない苦しみの中、彼はどんなに嫌がっても、悪しき指輪のせいで自らも悪に身を落とさなければならなかった。

_________________________



_________________________


この世には完全な善も悪もない。


それは私達の実際の生活でも同じである。


果たして、この世の中で自分が完全な善の存在だといいきれる人はいるだろうか?


誰しも自分の中に悪を抱え、その克服に精を出す。


そして、フロドはその一般的な人間の姿を究極の姿で体験せねばならなかった。


善は人を喜ばせ、活気づかせるが、傲慢にもする。悪は人間に恐怖を感じさせ、苦しめるが、謙虚にもする。清濁併せ呑む、という言葉があるが、本質的に善を目指すのが人間の本質だとはいえ、悪、あるいは自分よりも劣ったことに対する理解はその悪を自らに体験したものにしか分からない。


悪はその本質において卑劣で愚劣だが、「善なるもの」が悪とその本質を理解した時、その善は偉大である。

_________________________


トールキンが悪に対する理解が足りないというのは間違いだと僕は思う。


確かにそれはワーグナーが自身の「リング」で描いた道であったし、トールキンの作品はその模倣なのかもしれない。


しかし・・・このフロドのように、現実の世界の善と悪とを理解し・・・その努力によってはるかなニルヴァーナへと辿り着ける道があるというのなら・・・我々人類もまた、その旅路に命をかける甲斐があるということを、私達はこの作品を通して理解できるとはいえないだろうか?


涅槃に対する憧憬は人類の本来の望みだろうし、そうした思いがある以上、この作品も観られ続け、あるいは読み続けられるに違いないだろうと僕には思われる。