父よ…。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 8日、父が亡くなりました
 日曜日に母と電話した時に、そろそろ危ないという話をされたのですが、8日に帰宅後すぐに、母から亡くなったとの電話が。その日はもう遅いので、翌朝すぐに仙台に発てるように準備をする事に。しかし、スーツなんて数年前の転職時に面接の時に着て以来、部屋の奥深くに仕舞い込んでいたモンですから、発掘に一苦労。しかも、Yシャツも黄ばんでいたり皺だらけだったりしたので、仙台で現地調達するハメに(汗)。

 父と私の間には少なからぬ確執があったのは、当ブログでも度々書いてきた通りなのですが、いざ「その時」が来てしまうとなると、やはり一抹の寂しさを感じてしまいます。同様に、姉とも確執はあったのですが、葬儀の一連の手続きをほとんど姉一人でやってもらったので、頭が上がりません(汗)。

 で、9日に新幹線で仙台に着いた後は、地下鉄からその斎場へと歩いて行ったのですが…、これがスマホのナビを使ってもなかなか分かり辛いトコにあるモンですから、1時間程迷ってしまいました(汗)。もっと分かりやすい場所の斎場を選んでくれよ

 ようやく辿り着いた斎場に横たわる父の姿は、まるで歌さんの如く痩せこけて骨と皮と化していました。その父の亡骸の前で手を合わせながら、心の中では「ジジイ!! 早過ぎるんだよ!!」と叫んでいました。コロナ禍が一段落するであろう春先に帰省して顔を見せる予定だったのですが、それを待たずして…。結局、4年前の令和改元のGWの時に話をしたのが最後になってしまいました。その時既に、話をするのも怪しくなってしまっていたのですが。

 そして親戚が弔問に来て挨拶をして、父の思い出話に花を咲かせました。久し振りに顔を合わせるモンですから、みんなすっかり変わってしまって驚きましたよ。

 そして納棺。納棺師の人により、慣れた手付きで父の眼窩や鼻腔、口腔に脱脂綿が詰められ、父の表情は生前のそれに近く整えられました。

 そして10日は葬儀…と言うかお別れ会。前日来れなかった親戚が来て、父の思い出話やお互いの近況を話し合いました。外は雪が降り積もりつつありました。父の亡骸の周りに花を添え、お気に入りのセーターと釣りの本を入れて、蓋を閉めました。それから雪が激しくなる中、火葬場まで車で30分。母と私は霊柩車に同乗しましたが、最近の霊柩車って昔のようなキンキラキンの物では無くて、ほとんど普通のワゴン車みたいなんですね…。トレーに乗せられて父の棺が火葬場に運ばれる光景は、言い方は悪いですが、何やら「火葬場」と言うよりは「死体処理場」といった趣きでした。そして我々遺族及び親戚一同は、父が荼毘に付されている間、食事をしたり、母が点てたお茶を飲んだりしていました。そしてお骨上げ。父の骨は、まるで国立科学博物館あたりで展示されている化石の如く立派な物で、親戚一同驚いていました。

 そして父の遺骨と共に帰宅。長い間施設に入っていた父にとっては、久し振りの「帰宅」となります。しかし、私と同様に片付けが不得意な母の事、家の中はとっ散らかっていて、姉は私に向かって「片付けろ」と言うのに対し、母は「どこに何を置いたか分からなくなるから片付けなくていい」との事…どうすりゃいいんだよ!? まあ、弔問に訪れるお客や、献花の置き場所を確保する為にも、片付けはしなぎゃない(仙台弁)のですが。

 11日は納骨。父の実家の先祖代々の墓に入る際に、葬儀を無宗教式で行なった為に、入れてもらえるのか少々揉めたのですが、檀家である伯父の働きかけにより、何とか無事に入れてもらえる事になりました。その伯父も生前の父と同じヘビースモーカーなのですが、何がその寿命の長さを分けたのかというと、やはり酒の所為だったという話になりました。ウチの家系は酒呑みでは無いというのに、父は骨董身を持ち崩した、と。まあ、生前よくビールを飲んでは赤ら顔で鼾をかいてましたしねぇ。その父が遺した骨董品の山の処分(換金)は、姉との話し合いにより、私が任される事になりました。まあ、私も以前からそれは考えていたのですが。その為に、母の様子見や家の片付けも兼ねて、これから仙台には1~2ヶ月に1度は帰る事になりそうです。

 そして12日は母と共にお茶の間の片付け。父との思い出話をしながら1つ1つ片付けた後、東京に戻りました。…え? ワンフェス!? それどころじゃなかったですよ

 

 結局、その葬儀の最中、私は涙を見せる事はありませんでした。先述の確執もあったからかもしれませんが、生前の父からは「俺が死んでも泣くんじゃないぞ」と言われていたような記憶があります。