娘が児童相談所に連れ去られた日。 | ASDとともに

ASDとともに

ASD(自閉症スペクトラム)による双極性障害・解離性障害・PTSD・パーソナリティ障害とともに生きる一人の女性として、母としての日々。

今日は12月16日。

朝から調子が悪くて
心に何か引っ掛かるものがあって
もやもやしていて
Googleフォトアプリを開いてみた。

2014年12月17日。
私が娘に手を上げた日だった。





この日は近くに住む妹が晩ごはんを食べに来ていて
おでんを前にピースしている妹と当時5歳の娘がいた。

妹が自宅に帰って
何がきっかけだったかは忘れてしまったけど
私は娘に暴力を振るった。

そしてその罪悪感から大量服薬をした。
当時妊娠中期。

12月18日は
確か大雪だった。

仕事から帰ってきた元夫(2番目の夫)は
大量服薬により意識をなくしている私を放置して
娘と雪だるまを作ったらしい。
私はこの日の記憶はない。

そして12月19日、
元夫は娘を保育園に送り届けて仕事へ行った。

私は意識を取り戻して
まず通っていた大学病院の産科に電話し
大量服薬してしまったことと受診の必要があるかを聞いた。

確か、時間が経ちすぎているから必要ないと言われた。

そして、最初に保健師さんに電話したと思う。

それでも何の解決にもならなくて
苦しい気持ちは楽にならなくて

児童相談所に相談の電話をした。

「対応を考えます」

そう言われ、一度電話を切った。
この時はまだ、
娘が連れて行かれるなんて思ってもいなかった。

折り返し児童相談所から電話が入った。

「お母さん疲れていらっしゃいますし、お腹のお子さんのこともありますし、
    娘さんをしばらくお預かりさせていただこうと思います。
    いいですか?」

実際にこんな風な口調で言われた記憶がある。
私はてっきりショートステイを利用させてもらえるのだと思った。

そして児童相談所の方が自宅に来て
娘を連れて行った。

【一時保護決定通知書】を渡された。

そこで初めて私は、
ショートステイではなく児童相談所に連れ去られたのだということに気がついた。

私は泣き崩れた。
初めて声を上げて泣いた。

泣けるだけ泣いて、
母に電話した。

「娘が児童相談所に連れ去られた」と。

母がその時何て言ったかは覚えていない。

そして仕事中の元夫にLINEで
「ごめんなさい」
とだけ送った。

当時元夫と娘は養子縁組していなくて
娘の親権者は私だけだった。

だから、
元夫には児童相談所から事後報告という形で電話が入ったらしい。

私はどこかへ逃げ出してしまいたくて
車を走らせた。

高速に乗って
実家の方へ向かった。
(当時住んでいた所と実家は約1000キロ離れています)

2時間程走って
私は下腹部痛に襲われた。
サービスエリアに寄った。

当時妊娠24週くらいだったと思います。

通っていた大学病院の産科に電話して
どうすればいいか相談した。

「今すぐ救急車を呼んで下さい」
そう言われ
119番通報した。

30分程待って
救急車が来て
サービスエリアからは30分程かかる総合病院に連れて行かれ
切迫早産でそのまま入院となった。

この妊娠は低置胎盤で
初期から出血があり
この時の下腹部痛も、
切迫早産によるものだった。

一週間程入院して、
状態が落ち着いたため、
同じ県に住む妹が迎えに来てくれた。

その日の夜、
妹の彼氏と友人に手伝ってもらって、
サービスエリアに車を取りに行った。
12月25日のことだった。

元夫とは話が出来なかった。

それもそのはず、
元夫は私が娘を捨てたくて児童相談所に電話したのだと思っていた。
私の話を聞いてもらえる状況ではなかった。

私はその翌日から、
通っていた大学病院の精神科に入院することになった。

でも12月30日、
娘の6歳の誕生日に、
私は強いお腹の張りに襲われ、
産科に転科し、MFICUに入ることになった。

元夫は何度か面会に来てくれた。
話をするうちに、
私が娘を捨てたくて電話したわけではないこと、
それだけ追い詰められていたこと、
理解してくれるようになった。

精神科の主治医との面談にも参加してくれたようだった。
この時私はパーソナリティー障害と解離性障害と診断されていた。

元夫は主治医に
「本人の問題ですから周りは何もできません。
    年を取るにつれて症状も治まってくるでしょう」
と言われたらしい。

入院中、
児童相談所の方が病院に来てくれて、
面談をした。

元義両親も、
児童相談所の方と面談をしてくれたらしい。

娘が自宅に帰る条件として、
保育園の延長保育を目一杯使うこと
元義両親に最大限のサポートをしてもらうこと(保育園の送り迎え等)
今後定期的な家庭訪問を行うこと
等を伝えられた。

私はMFICUから一般の産科病棟に変わり、
2015年の1月末に何とか退院できた。

そして私が普通の生活を送れていることを見てもらって
一時保護からちょうど2ヶ月後の2015年2月19日、
娘は自宅に帰ってきた。

児童相談所で娘に対面した時、
涙が溢れてきた。

元夫は人目も憚らず号泣していた。

3人で自宅に帰り、
クリスマスプレゼントと誕生日プレゼントを渡し、
誕生日ケーキを買って、
3人でお祝いした。

晩ごはんは娘が好きな焼肉屋さんに行き、
元義両親が買ってくれたランドセルを背負ってみたり、
私の姉からの誕生日プレゼント(おもちゃラック)を組み立ててみたりして。

翌日から娘は今まで通り保育園に行った。
元夫が仕事で送迎できない日は元義両親が送迎してくれた。

2ヶ月経ってやっと、
日常を取り戻すことができたのです。

そして2015年4月2日、
息子が無事に帝王切開で生まれ、
娘はお姉ちゃんになりました。




4年前の12月17日。

そして今年の1月25日。

やっぱり私は母親失格なのだと思います。

それでも、
母親でいたい。

子どもたちのために、
できることをしてあげたい。

子どもたちに向ける愛情、
その気持ちは本物だと
自信を持って言えるようになりたい。

今は養育費を送ることくらいしか、
何もできないけれど。

いつかまた一緒に暮らしたい。

その日のために、
私は良くなりたいし、
元気になりたい。

だから、頑張ろう。

今は会えなくても、
きっと大丈夫だよ。

だから、頑張ろうね、私。





長くなってしまいました。

書きながら、
涙が止まりませんでした。

ここまで読んで下さって、
本当にありがとうございました。