前回中学生の頃までのことを書いたので、今回は高校生の頃のことを書こうと思います。
誰も進学しない学区外の進学校へ進学した私は、また一から新しい自分になろうと、少し無理をしました。
友達もそれなりにでき、ある程度充実した毎日を送っていましたが、リストカットは続いていました。
夏休みに入ってから、またおかしくなりました。
いるはずのない人の気配を感じたり、幻聴を聞いたりし、夜も眠れなくなり、毎日リストカットを繰り返す日々でした。
8月に入り、再度両親に「精神科へ連れていってほしい」とお願いをしました。
明らかに様子のおかしかった私を、両親は精神科クリニックへ連れていってくれました。
ついた診断は神経症。
抗うつ薬を処方され、リストカットの傷の縫合のため整形外科を紹介されました。
薬を飲んでも改善される兆しはなく、リストカットは日に日に酷くなり、ビニール袋に血を溜めるような奇行も繰り返していました。
母の記憶によると、私は2学期始まって二日目の9月2日、学校に行きたくないと叫んだそうです。
担任の体罰がありました。
それが原因かは分かりませんが、私はまた不登校になりました。
クリニックを変え、薬も変え、診断名もコロコロ変わり…
ちなみにこの頃は神経症・適応障害・統合失調感情障害etc…の診断でした。
学校には行ったり行かなかったり。
行っても保健室登校でした。
かつての友達はたまに保健室に遊びにきてくれたり、今となってはもっと友達を大切にできればよかったなと思います。
私はこの頃からベースを始めました。
姉がドラムをやっていて、その影響です。
3学期に入る頃には、貧血でフラフラになっていました。
階段を一つ上るだけで息切れがし、日々の生活が、起きていることが辛い毎日でした。
それもそのはず。
私はリストカットのしすぎで極度の貧血になっていたのです。
紹介された病院で、即入院(内科でした)。
そこから紹介された精神科の病院へ、即入院。
医療保護入院でした。
高校2年生になったばかりの頃です。
隔離室へ入りました。
あまり覚えていませんが。
そこから4ヶ月、入院していました。
貧血は治りました。
高校2年生の2学期から、また少しずつ学校へ行くようになりました。
ほとんどが保健室登校でしたが、たまに教室にも顔を出していました。
そこで当時ギターをやっていた友達と出会い、私はバンドを始めることにしました。
バンドを始めてからは、楽しい日々でした。
コピーバンドでしたが自分の存在意義が見つけられたような気がして、嬉しかったです。
この頃の精神状態はよかったり悪かったり。
解離を起こすようになったのはこの頃からです。
記憶のない時間が増えました。
暴れていたり、幼児返りしていたり、様々でした。
高校2年の3学期に入る頃は、拒食症の症状が出ました。
固形物を受け付けなくなり、体重が40キロを切り(身長164センチです)、医師からエンシュアリキッド(栄養剤)を処方されていました。
高校3年生の頃の記憶は、あまりありません。
文化祭にバンドで出演し、とても楽しかったのを覚えています。
ライブ活動も月に一回程度はやっていて、それだけを楽しみに生きていました。
それ以外は、毎日解離との戦いでした。
勝手に割れている窓ガラス、腫れ物に触るように扱う家族。
毎日が修羅場でした。
高校3年生の途中から、休学して治療に専念することにしました。
その時変わった病院の主治医がとてもいい人で、この先生のおかげで私の症状はだいぶ落ち着きました。
何度も入退院を繰り返し、将来のことを考えた私は、何とかして高卒の資格は取りたいと、都会の音楽専門学校の高等課程へ編入したいことを両親に伝えました。
親元を離れての寮生活、両親からすると不安でいっぱいだったと思います。
そこで、実家の近くでしばらく一人暮らししてみて考えようという話になりました。
バイトに行きながら3ヶ月ほど一人暮らしをさせてもらい、私は都会の音楽専門学校へ編入することができました。
とりあえずここまで。
思い返して書いてみると、あまりに覚えていないことが多すぎてびっくりします。
解離を繰り返していた毎日だから、でしょうか。
次は、音楽専門学校高等課程でのことを書こうと思います。