ASDと診断されるまで〜幼少期・小学生〜 | ASDとともに

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ASD(自閉症スペクトラム)による双極性障害・解離性障害・PTSD・パーソナリティ障害とともに生きる一人の女性として、母としての日々。

今日は暇なので、私がASDと診断されるまでのことを書いていこうと思います。

 
 
幼少期の私は、とてもこだわりが強く、母曰くそれはそれは育てにくい子どもだったそうです。
小学校教諭の母は、なんでこの子はこんなに育てにくいんだろうと悩んでいたそうです。
発達障害が世に広まったのはここ十数年。
25年前の母にとって子育てはとても困難なもので、同居していた姑に私を任せ仕事に呆けてしまっていた、構ってあげられなくてごめんねと、先日謝罪を受けました。
ちなみに私には2歳上の姉がいますが、姉はそんなことなかったようです。
 
物心ついてからは、自分で言うのもおかしいですが、問題児でした。
集団行動が苦手で、友達という友達はいませんでした。
理由は覚えてないのですが、送迎の保育園バスに隠れて忍びこんで大騒ぎになったり、小学生になってからも授業中に学校を抜け出したりと、問題行動には暇がない子どもでした。
 
それが関係するのかは分かりませんが、父にとっても私の子育ては容易いものではなかったようです。
理由は覚えていませんが、マンションの廊下の柱に縄跳びで縛り付けられたり、外に閉め出されたり、顔が腫れるまで叩かれたり。
必死に「ごめんなさい」と叫んでいた記憶だけ残っています。
何か私が悪いことをしたのだと思いますが、思春期に入ってから私はこの記憶を「私は虐待を受けていたのだ」と認識するようになりました。
 
生活が大きく変わったのが小学3年生の時。
親の転勤で離島に引っ越しました。
1年生から6年生まで、全校生徒で20人程。
複式学級といって、1・2年生が同じ教室で一人の先生に教えてもらう、3学級しかない学校でした。
同級生は3人(全員男子)。
当時の4年生(1学年上)の女子が一人。
その当時の4年生からいじめを受けるようになりました。
いじめと言っても、無視される・汚いもの扱いされる…程度のものでしたが、なんせ私の他に4人しかいない学級。
いじめは学級全体に広まり、私は学校に居場所をなくしていきました。
 
初めて「死にたい」と思ったのが小学5年生の頃。
同じ学校で教師をしていた母に相談しました。
(父も教師ですが、違う学校に勤務していました)
いじめはずっと続いていて、学校に行きたくなかった。
住んでいた集落もとても小さなもので、集落の人全員が顔見知り、すぐに「○○先生の○○ちゃんが」と噂話になるような世界。
学校を拡大化させただけのような世界に生きているくらいだったら死にたい、そう思っていました。
 
母は、
「そんなに死にたいんだったら殺してやる!」と言い、私に包丁を向けました。
同席していた父に抑えられ、何とかその場は無事でしたが、このことは今でも私の心に強烈に記憶として残っています。
 
 
 
とりあえずここまで。
次は、高校くらいまでのことを書けたらいいなと思います。