
仁王門をくぐり、 5、6段の石段を登ると、やや狭くなる参道がまっています。
参道の両側の杉並木が、空に向かって真っすぐに幹を伸ばし、空が隠されるほどに枝を伸ばしているのを見ると思わず深呼吸をしたくなりました。
心の迷いなど、吹き飛んでしまいそうなほど、気持ちの良い森の道を進むと、少し歩いたところで分岐点。
はて?どちらに進もうか?と一瞬迷います。
でも、安心してください。
「←表参道」の看板があります。(もう一方の道を進むと裏参道の登山道入り口へ出ます)
そして、耳を澄ますと、水の音がとても近い。
小さな赤い橋が見えましので、渡りました。
下を見ると本当に小さなせせらぎ。
この日は水量は少なかったですが、清らかな流れです。
確か、このあたりに、句碑があったような気がします。
けれど、歌は読み飛ばしていたので、いざ記事を書こうと思うと何も思い出せません。 (* ̄∇ ̄)ノ
次に行ったときは、よ~く見てこようと思います。
さらに進むと、また句碑があります。
こちらは、「月」という文字に心惹かれ、写真を撮りました。

「月の夜の石に還りし道祖神」
2つ前の記事でも書きましたが、俳句の鑑賞は難しい。
「道祖神」を辞書で調べると、
集落の境や、 村内と村外の境や、峠などの場所で、石碑や石像の形で祀られる神様のこと、とあります。
北関東の農村出身の私、昔は村のあちこちに道祖神?のような石像があったような記憶があります。
幼いころ、祖母から、「集落に入ってくる悪者から守ってくれっから、前を通るときは手を合わせるんだど・・・」
と言われて育ったんです。
悪者とは、悪霊のようなものかもしれないし、侵入者のことなのかもしれない。
何か、えたいの知れない恐ろしいものから守ってくれるという、その小さな石像に、幼いながらも手を合わせ、野の花をたむけたりしました。
けれど、今は、実家に帰っても、それに手を合わせる機会など全くない。
車で行って車で帰ってくるから、幼いころ歩いた小道に今でも道祖神があるかのかどうかも、わからないのです。
過疎の村のそんな、誰にも手を合わせてもらえなくなった道祖神、
そしてその役目を終えたに等しい道祖神の今の姿を想像し、
ああぁ、あの道祖神は月夜の晩に自然石に還ってしまったかもしれない。
と、思えるのでした。
句碑の近くに、説明があったと思うので、次に行った時に、よく読んで来ようと思います。φ( ^^)ノ
そこから、さらに進むと、また、分岐点。

片方の道には、このような鳥居があります。
こちらに進むべきかしら?
でも、道幅が更に狭くなり、鬱蒼とした細い道が続いています。
こ、心細い。
冷静なAさんが、近くにあった案内板を見て、こちらを進めば「かびれ神宮」に直接、辿り着くと教えてくれました。
私達、まだ、御岩神社にさえ、辿り着いてないんですよ。
なので、そちらの道は、スルーしました。

(次に行った時は、こちらを進むとどのような道なのか体験したいと思います。)
もう一方の道の向こうに見える石段に目をやると、
目に入ってきたのは、左手に見えるこれ(⊙⊙)!!
歩み寄って見てみると・・・
画像ではわかりにくいですが、大きな手なんですよ。

『心洗』って何?
手を洗うとき、心のけがれを洗うように洗いましょう、ってことかしら?
お恥ずかしい話ですが、信心深くないのでよくわかりません。(;^_^A
すいません。
今度行った時、社務所の方に聞いてみます。
その⑥に続く。
追記―
ちなみに
私達は「かびれ神宮」を、表参道コースで参拝しました。

表参道っていったって・・・
こんな険しい道なんですよ。(⊙⊙)!!
息切れする私とBさん、
そして、疲労した私達の前に立ちはだかる険しい石段( ; ⌓ ; )

この場面に辿り着くまでにあと、記事をいくつも書かねばならないでしょう。
まだまだ、先は長いんです。
ご興味のある方は、気長におまちください。