コンテンツ国家に住まう者として、「漫画」だけにこだわるわけにいかない。我々は漫画のみに生きているわけではない。


 「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰がジェントリだったのか―」

 14世紀、ジョン・ボールは社会的な不平等を農民に訴え、ワット・タイラーの乱において、農民軍を鼓舞し続けた。そう、領主と農民との間には、固定化されていた権力等の後天的な設定以外、何も差はなかった。


 話を戻そう。アニメはややもすると、漫画の二次的創作物と目され、オタク等と、漫画よりもさらに白い目を向けられる(これは被害妄想である可能性を、筆者は否定しない)。しかし、ここにおいて1つの疑念がわき上がった。


 「あなたが生まれ落ち、あなたが娯楽を覚えた時、何が文化だったのか―」

 ある人は「特撮です」と答えるかもしれない。しかし、大部分の若者はアニメで育った世代ではないのか。アニメこそ、文化を語る上での原点ではなかったのか。

 

 申し遅れたが、私、阿仁隠オタ蔵は、ここに若年層の基盤である「アニメ」を鑑賞・考察し、いかにアニメ国家国民の1人として、正しい方向に歩みを進めることができるのか、その可能性について探りたいと思う。

 そう、「アニメについて思うこと」の樹立をここに宣言したい。新時代は、アニつい構想からこそ始まると、私は確信している。



いやぁ、しかしモーニングツーはすごいですねぇ。今月からラグなし無料ヨミでWeb配信 ですか…。ホントよくやります。

モーツーといえば、『聖おにいさん』や『COPPERS』、はたまた『変ゼミ』あたりが看板というのが一般的な認識?ということでいいんでしょうか。

しかぁーし!!忘れてもらっちゃ困るのが『いったりきたり』なのであります!私的にはコイツが看板。異論はもちろん認めます。

いうわけで今回はこの『いったりきたり』をおすすめしていきます!

いったり・きたり 1 (モーニングKC) いったり・きたり 1 (モーニングKC)
鈴屋 あやめ

講談社 2009-03-23
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鈴屋あやめと『いったりきたり』

 まずは基本情報から。作者・鈴屋あやめ氏は本作が二度目の連載、デビューは2005年後期の講談社MANGA OPENであるらしい。『いったりきたり』はダンシャの公式サイト にあらすじが載ってるので以下引用です。

家族と喧嘩したり、恋人とうまくいかなかったり、仕事に疲れたり。
東京のさまざまな街を舞台に紡がれる、女の子たちのオムニバスドラマ。

「モーニング・ツー」にて『小田原小鳩』を連載、微妙なお年頃の女の子の心情をリアルに切り取り共感を得た著者が描く、読むと心がきゅんとなる、東京駅前ものがたり★

 ・・・これだけ読むと拒否反応を示す方が多いかもしれないですね。実際私も、初見の時は「絵ぇきたねぇしハナシもSex and the Cityハマってます感アリアリだし、どこぞのスイーツが描いとるんじゃい」と思っておりました。つーか飛ばしてました。最初はね。

 が、ある時通してしっかり読んでみましたところ、これがなかなか侮れないと気付いたのです。

 確かに絵柄はお世辞にもキレイとは言えないし、ストーリーも割と既視感のある展開をうまいことまとめてる感じで、目新しさは感じない。だけんども!だけんども!! 不思議とスイっと入ってくるものがある。

 この魅力はなんなのか? 以降分析を試みます。

いったりきたりなぼくらの自意識

 このマンガに出てくるキャラクターは、多少のバリエーションはあれど大体以下の2つの条件を満たしています。

  • ファッション・コンシャスである(≠スイーツ)
  • サブカルチャー好き

 何かと申せば、このような条件がモーツー読者層に重なる部分があるのではないか、と思うのです。

 モーニングツーは「NO CONCEPT NO TARGET NO RULE」を謳った雑誌です。しかし、読者層は必ずしも拡散しているわけではないと思います。毎号裏表が表紙になっているような装丁の斬新さ、割合作家性の強い連載陣がその特徴。想像するに、「カッコイイもの好き」で「マンガ好き」な若者が主要読者層なのではないでしょうか。

 モーツー読者の抱える自意識と、『いったりきたり』の作品内での価値観がうまいことマッチしている。だからこそ、この作品がいま現在モーツー誌面に載っているのだと思います。

 例えば今月号で言えば、とがった靴を頼子(主人公)がバカにしているシーンとか。「ファッションに一家言持っているけど、マンガ・アニメも大好き」というキャラクター造形が、モーツー読者の共感を呼んでいるように思います。

読んでりゃそのうち慣れてくる

 冒頭でこの作品がモーツーの看板とまで言ったのは、上記の観点から『いったりきたり』がきわめてモーツー的な作品だと考えたからです。確かに絵は決してキレイじゃないし、時折サムいと感じる展開もあるかも分からない。だけんどもその辺は読んでりゃそのうち慣れてきます。そんで1番大事な根っこの部分、作品の根底に流れる価値観については、きっと共感できる人も多いはず。

 モーツーが好きで読んでる人はぜひ、飛ばさずに読んでみてください。とがってる靴がダセエと思う人にも是非ともおすすめです。


文責・尾綿 仁清

あさぎちゃんクライシス! 1 (1) (まんがタイムコミックス) あさぎちゃんクライシス! 1 (1) (まんがタイムコミックス)
弓長 九天

芳文社 2007-11-07
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四コマ界の突然変異、登場

 『あさぎちゃんクライシス!』は芳文社のまんがタイムラブリーで現在連載中の四コママンガ。芳文社と言えばきららレーベルが評判かまびすしく、その名を聞いて昨今のきららレーベルの相次ぐアニメ化を一番に思い出される方も多いだろう。しかし、この作品をきららレーベルに見られるような芳文社の一連の「萌え」戦略の作品群の1つとして位置付けることは、全くの読み違いであると私は考える。私が思うに、この『あさぎちゃんクライシス!』という作品は、全く別の文脈から生まれた、芳文社の数ある四コマ作品の中でも突然変異的な問題作なのである。数多くのマンガ作品に触れてきた私としても、この作品一流の独特な読み味に初めて触れたときには、なんと形容すべきか、非常に当惑してしまった。本稿ではこの作品の紹介を通して、読者たる一流のマンガ読み諸兄にぜひともこの作品の魔力的な味わいに触れ、その正体がなんなのかをともに考えていただきたいのである。

この読み味はなんなのか…!?

 主人公のあさぎちゃんは中学三年生(※1)。河野先生という美男の家庭教師とともに勉強にいそしむまじめな女の子。と、ここまでは一見普通の設定だ。絵柄もいたって可愛らしく、一読しても単なるゆるゆる萌え系箸休めにしか見えないかもしれない。が!あさぎちゃんがスキだらけのちょっと抜けた子であったり、河野先生の趣味が東洋医学でやたらツボに詳しかったりと、よくよく見てみるとキャラクターには変人しかいないし、彼らのやっていることはやたらエッジの効いたことばかりなのである。

 「カワイイ子が実は変人」と聞いて、最近よくあるアザトイ萌えマンガを連想される方もあるだろうが、この作品はそのようなカテゴリーとは別の場所に生息している、全く別の生き物であると考えていただきたい。両者を隔てる皮膜とは何か? ここが1番重要なポイントなのだが、その感得を正確に言語化するのが非常に難しい。とはいえここで諦めてはレビュアーの名折れ、以降可能な限りこの作品の魅力を形容してみたい。

※1…連載開始当初。弓長氏の作品は『あずまんが』よろしく連載とともに作品内時間が経過していくので、現在のあさぎちゃんの学年は高校一年生である。

四季賞出身!異色の四コママンガ家・弓長九天

 ここで簡単に、作者弓長九天氏の経歴について触れておこう。現在では四コママンガ家として知られ、単行本も四コマ作品ばかりである弓長氏だが、彼のマンガ家としての出自はストーリーマンガにある。彼のマンガ家としてのキャリアのスタートは、なんとかの有名なアフタヌーン四季賞だ。四季賞といえば、レベルの高い新人を多数輩出している新人賞の最高峰であり、マンガ好きならその名を聞けばちょっとテンション上がってしまうような権威である。彼はそこで準入選となったが、どうやら色々と事情があったらしくストーリーマンガの制作を断念(※2)。その後同人活動を行い、縁あって芳文社で四コママンガの連載を開始することになったようだ。

 なお、弓長氏は自身のホームページを持っており、その主要コンテンツである「うそ日記」では虚実取り混ぜた弓長氏の日常が記述されている。以降、私は、作品を読み解くカギとして「うそ日記」に見られる弓長氏のスタンスに注目してみたい。

※2…どうやらマンガ業の他に建築関係?の仕事なども行っている、非常に多忙な方であるらしい。

虚実皮膜にゆれる

 マンガ作品はフィクションである。これは全くのトートロジーであり、「いわずもがなじゃヴォケが!」と言われてしまいそうであるが、弓長氏の作品を読むにつけ、なぜかそのようなことを想起させられる。

 その理由は、弓長氏が萌え四コマ作家の方々に比して、マンガの虚構性について大変自覚的な方であられるからだと思われる。

 マンガが描いていることは、当然ながら虚構である。しかし単なる虚構を描いた作品は読者に受け入れられない。描かれる虚構に、何かしらのリアリズムの影を感じたとき、読者は共感を覚え、その作品に価値を見出すものであろう。そして現在流通する無数のマンガ作品全てが、必ずしもその取り組みに成功しているわけではない。世に氾濫するマンガ作品、例えば萌えマンガなどに嫌悪感を示す方は少なくないが、その理由は虚構の暴走・行き過ぎたリビドーの発露などにあると思われる。

 その点において、『あさぎちゃんクライシス!』は一線を画する存在である。作品内では、確かに「こんなカワイイ子リアルじゃいねーよ!」と思われるキャラも出てくるし、「こんなこと起こるわけねーし!」と思っちゃうような展開も生じる。しかし、一方でラブコメ展開になりそうでならなかったり、きわめて冷静な突っ込みが見られたりと、行き過ぎたフィクションに対する線引きは常に保っている。読者が作品に抱く甘い夢、それを作者は行き過ぎないように、毅然としてセーブする。フィクションの中に、フィクションに対するアンチなまなざしを読み取ることで、読者はそこにリアリズムを感じる。そして一定のリアリズムによって、一定のフィクションが担保され、読者は安心して甘い夢を見ることができる。

 『あさぎちゃんクライシス!』の魅力の一端は、おそらくこのようなメカニズムによるものだと思われる。前述の「うそ日記」にも見られるような、虚実皮膜にゆれながらもあくまでバランス感覚を保ち続ける弓長氏のまなざしによって、そのようなメカニズムが正常に動作しているのだ。

「小さな伏線」という隠し味

 もちろん、上に述べたようなメカニズムは『あさぎちゃん』独特のものではなく、成功しているマンガ作品の多くに共通してみられる構造である。『あさぎちゃん』を読んで覚える名伏しがたい感覚を説明するにはまだ不十分だ。上記のメカニズムを持っているだけでも十分良作の域になるだろうが、『あさぎちゃん』は単なる良作ではない。問題作なのだ。その独特の読み味を説明するために、私は「小さな伏線」の存在を指摘したい。

 『あさぎちゃん』を読んでいると、登場人物のあまりにビミョーな関係にハラハラしてしまう。河野先生とあさぎちゃんとの間に時折流れるビミョーな空気、立っているんだか立っていないんだか分からないフラグ…。弓長氏の他の作品、例えば『さゆリン』などにも共通する特徴であるが、気にするべきかしないべきか分からない小さな伏線が非常に多い。ある程度マンガに親しんだ人の間でなら共有されているレトリックに対して、弓長氏はとても意識的であるように思う。それでいて、氏はそのような伏線を必ずしも回収しないのだ。むしろ基本放置である。

 伏線とは、どの段階で意味を持つものであろうか。私が思うに、それは伏線の登場した瞬間からである。例えば「ひとつなぎの財宝」がなんなのか、あるいは「あのお方」が誰なのか、作者から答えが示されなくても、読者は十分、満足しているように思われる。それは現代のマンガ読みの間では、作品の欠けたピースを脳内で補完するという営みがもはや当たり前のものだからである。

 例えば二次創作しかり、マンガの能動的な消費が一般化された現在において、伏線もまた、半ば読者の能動性によって消費されているように私は感じる。

 『あさぎちゃんクライシス!』に描かれる小さな伏線は、必ずしも回収されない。しかしそれは読者に対するフックの役割を果たす。読者は小さな伏線の数々に妄想の契機を見出し、作品世界を頭の中で拡張していく。「小さな伏線」という、読者の能動性を喚起し、読者参加型の作品を成立させる装置を導入することによって、弓長氏の『あさぎちゃんクライシス!』はどこかモヤモヤとした、独特の読み味を出しているのだ。

とりあえず読んでみよう!

 ここまで長々と説明してきたが、この作品の魅力を知るにはとりあえず読んでみるのが1番手っ取り早い。ワンアンドオンリーな作品なので、読んでみて後悔することはまずないはずだ。そして読んだ後、今度は読者諸兄がこの作品の不思議な魅力に対する、あなた自身の答えを考えてみてほしい。『あさぎちゃん』には、きっとそれだけの価値があるのだ。