四コマ界の突然変異、登場
『あさぎちゃんクライシス!』は芳文社のまんがタイムラブリーで現在連載中の四コママンガ。芳文社と言えばきららレーベルが評判かまびすしく、その名を聞いて昨今のきららレーベルの相次ぐアニメ化を一番に思い出される方も多いだろう。しかし、この作品をきららレーベルに見られるような芳文社の一連の「萌え」戦略の作品群の1つとして位置付けることは、全くの読み違いであると私は考える。私が思うに、この『あさぎちゃんクライシス!』という作品は、全く別の文脈から生まれた、芳文社の数ある四コマ作品の中でも突然変異的な問題作なのである。数多くのマンガ作品に触れてきた私としても、この作品一流の独特な読み味に初めて触れたときには、なんと形容すべきか、非常に当惑してしまった。本稿ではこの作品の紹介を通して、読者たる一流のマンガ読み諸兄にぜひともこの作品の魔力的な味わいに触れ、その正体がなんなのかをともに考えていただきたいのである。
この読み味はなんなのか…!?
主人公のあさぎちゃんは中学三年生(※1)。河野先生という美男の家庭教師とともに勉強にいそしむまじめな女の子。と、ここまでは一見普通の設定だ。絵柄もいたって可愛らしく、一読しても単なるゆるゆる萌え系箸休めにしか見えないかもしれない。が!あさぎちゃんがスキだらけのちょっと抜けた子であったり、河野先生の趣味が東洋医学でやたらツボに詳しかったりと、よくよく見てみるとキャラクターには変人しかいないし、彼らのやっていることはやたらエッジの効いたことばかりなのである。
「カワイイ子が実は変人」と聞いて、最近よくあるアザトイ萌えマンガを連想される方もあるだろうが、この作品はそのようなカテゴリーとは別の場所に生息している、全く別の生き物であると考えていただきたい。両者を隔てる皮膜とは何か? ここが1番重要なポイントなのだが、その感得を正確に言語化するのが非常に難しい。とはいえここで諦めてはレビュアーの名折れ、以降可能な限りこの作品の魅力を形容してみたい。
※1…連載開始当初。弓長氏の作品は『あずまんが』よろしく連載とともに作品内時間が経過していくので、現在のあさぎちゃんの学年は高校一年生である。
四季賞出身!異色の四コママンガ家・弓長九天
ここで簡単に、作者弓長九天氏の経歴について触れておこう。現在では四コママンガ家として知られ、単行本も四コマ作品ばかりである弓長氏だが、彼のマンガ家としての出自はストーリーマンガにある。彼のマンガ家としてのキャリアのスタートは、なんとかの有名なアフタヌーン四季賞だ。四季賞といえば、レベルの高い新人を多数輩出している新人賞の最高峰であり、マンガ好きならその名を聞けばちょっとテンション上がってしまうような権威である。彼はそこで準入選となったが、どうやら色々と事情があったらしくストーリーマンガの制作を断念(※2)。その後同人活動を行い、縁あって芳文社で四コママンガの連載を開始することになったようだ。
なお、弓長氏は自身のホームページを持っており、その主要コンテンツである「うそ日記」では虚実取り混ぜた弓長氏の日常が記述されている。以降、私は、作品を読み解くカギとして「うそ日記」に見られる弓長氏のスタンスに注目してみたい。
※2…どうやらマンガ業の他に建築関係?の仕事なども行っている、非常に多忙な方であるらしい。
虚実皮膜にゆれる
マンガ作品はフィクションである。これは全くのトートロジーであり、「いわずもがなじゃヴォケが!」と言われてしまいそうであるが、弓長氏の作品を読むにつけ、なぜかそのようなことを想起させられる。
その理由は、弓長氏が萌え四コマ作家の方々に比して、マンガの虚構性について大変自覚的な方であられるからだと思われる。
マンガが描いていることは、当然ながら虚構である。しかし単なる虚構を描いた作品は読者に受け入れられない。描かれる虚構に、何かしらのリアリズムの影を感じたとき、読者は共感を覚え、その作品に価値を見出すものであろう。そして現在流通する無数のマンガ作品全てが、必ずしもその取り組みに成功しているわけではない。世に氾濫するマンガ作品、例えば萌えマンガなどに嫌悪感を示す方は少なくないが、その理由は虚構の暴走・行き過ぎたリビドーの発露などにあると思われる。
その点において、『あさぎちゃんクライシス!』は一線を画する存在である。作品内では、確かに「こんなカワイイ子リアルじゃいねーよ!」と思われるキャラも出てくるし、「こんなこと起こるわけねーし!」と思っちゃうような展開も生じる。しかし、一方でラブコメ展開になりそうでならなかったり、きわめて冷静な突っ込みが見られたりと、行き過ぎたフィクションに対する線引きは常に保っている。読者が作品に抱く甘い夢、それを作者は行き過ぎないように、毅然としてセーブする。フィクションの中に、フィクションに対するアンチなまなざしを読み取ることで、読者はそこにリアリズムを感じる。そして一定のリアリズムによって、一定のフィクションが担保され、読者は安心して甘い夢を見ることができる。
『あさぎちゃんクライシス!』の魅力の一端は、おそらくこのようなメカニズムによるものだと思われる。前述の「うそ日記」にも見られるような、虚実皮膜にゆれながらもあくまでバランス感覚を保ち続ける弓長氏のまなざしによって、そのようなメカニズムが正常に動作しているのだ。
「小さな伏線」という隠し味
もちろん、上に述べたようなメカニズムは『あさぎちゃん』独特のものではなく、成功しているマンガ作品の多くに共通してみられる構造である。『あさぎちゃん』を読んで覚える名伏しがたい感覚を説明するにはまだ不十分だ。上記のメカニズムを持っているだけでも十分良作の域になるだろうが、『あさぎちゃん』は単なる良作ではない。問題作なのだ。その独特の読み味を説明するために、私は「小さな伏線」の存在を指摘したい。
『あさぎちゃん』を読んでいると、登場人物のあまりにビミョーな関係にハラハラしてしまう。河野先生とあさぎちゃんとの間に時折流れるビミョーな空気、立っているんだか立っていないんだか分からないフラグ…。弓長氏の他の作品、例えば『さゆリン』などにも共通する特徴であるが、気にするべきかしないべきか分からない小さな伏線が非常に多い。ある程度マンガに親しんだ人の間でなら共有されているレトリックに対して、弓長氏はとても意識的であるように思う。それでいて、氏はそのような伏線を必ずしも回収しないのだ。むしろ基本放置である。
伏線とは、どの段階で意味を持つものであろうか。私が思うに、それは伏線の登場した瞬間からである。例えば「ひとつなぎの財宝」がなんなのか、あるいは「あのお方」が誰なのか、作者から答えが示されなくても、読者は十分、満足しているように思われる。それは現代のマンガ読みの間では、作品の欠けたピースを脳内で補完するという営みがもはや当たり前のものだからである。
例えば二次創作しかり、マンガの能動的な消費が一般化された現在において、伏線もまた、半ば読者の能動性によって消費されているように私は感じる。
『あさぎちゃんクライシス!』に描かれる小さな伏線は、必ずしも回収されない。しかしそれは読者に対するフックの役割を果たす。読者は小さな伏線の数々に妄想の契機を見出し、作品世界を頭の中で拡張していく。「小さな伏線」という、読者の能動性を喚起し、読者参加型の作品を成立させる装置を導入することによって、弓長氏の『あさぎちゃんクライシス!』はどこかモヤモヤとした、独特の読み味を出しているのだ。
とりあえず読んでみよう!
ここまで長々と説明してきたが、この作品の魅力を知るにはとりあえず読んでみるのが1番手っ取り早い。ワンアンドオンリーな作品なので、読んでみて後悔することはまずないはずだ。そして読んだ後、今度は読者諸兄がこの作品の不思議な魅力に対する、あなた自身の答えを考えてみてほしい。『あさぎちゃん』には、きっとそれだけの価値があるのだ。