さて、「輪違屋糸里」を語るの最終回である。


前回から既に間が空いてしまったが、その間なにも考えていなかった訳ではない。
 
私が思い出したのは初めて浅田次郎氏を見た時の事である。
 
今から十数年前の事だと思うが、その頃私はまだ東京で暮らしていたのである。
 
ある夏の夜の事。
 
突然の夕立に降られて、新宿の紀伊国屋に雨宿りがてら本を読もうと非常階段から二階に上がって行くと、階段の所まで行列が出来ていたので驚いた。
 
その刹那、誰かのサイン会だと勘付いたのだが、浅田次郎氏が来るとは知らなかった。
 
その頃から浅田氏の作品は好きだったが、元来わたしは行列に並ぶ事を好まない性格なので、人垣をやり過ごして二階の書棚で本を探していた。
 
そしたら、浅田氏が和装でふらりと音も立てずに現れたのである。
 
着流しでいかにも涼やかな装いで現れた浅田氏は、まるで大店の旦那様という様な風情であった。
 
その後、暫く横目でサイン会の様子を見ていたのだが、筆をさらさらと運んでサインを書く姿はさすが雰囲気があって、現代の文豪と呼ぶに相応しい風格があった。
 
後年、別のサイン会で浅田氏のサインを頂いたが、やはりサインは墨字が一番素晴らしいと改めて感じたのであった。


 
さて、本題に戻ることにする。
 
いきなり、作品の核心に触れて見たいと思うだが、この作品は、お題にもなっている輪違屋の芸妓・糸里と、桔梗屋の芸妓・吉栄のその後の人生が大きく変わっていく様子が見どころであると言える。
 
文久三年夏。
その頃、糸里は16歳で、吉栄は23歳であった。吉栄は、糸里よりも7歳も年上だったが、小柄で童顔な吉栄は糸里よりも幼く見えた。
 
二人はその頃、それぞれ壬生浪士組(のちの新選組)の隊士と恋をしていた。
 
糸里の相手は副長の土方歳三で、かたや吉栄の相手は助勤の平山五郎であった。
 
土方と糸里の恋愛関係というのは一貫してプラトニックなものであり、またまだ未熟な恋愛と言えるものであった。
 
土方は、試衛館派の中では近藤勇に次ぐ地位にあったが、愚直で融通の利かない近藤に代わって、策士として様々な事件の黒幕として暗躍することになる。
 
試衛館派にとって目の上のたんこぶであった芹川鴨率いる水戸派の浪士たちを如何に粛清するか、これは上洛して以来、土方にとって常に念頭にあった問題である。
 
そして、大和屋焼き討ち事件で芹沢鴨の傍若無人ぶりを目の当たりにした京都守護職・松平容保から直々の指令を受けて芹沢暗殺を企てるのである。
 
しかし、前にも述べた通り、芹沢鴨が大和屋を焼き討ちしたのは会津藩重役の密命を帯びて実行したものであり、この件について芹沢には非がなかった。
 
近藤や土方も薄々その事を気がついてはいたが、八月十八日の政変の時に物怖じせずに立派な侍大将として立ち振る舞った芹沢に言い知れぬ嫉妬を抱いていたのである。
 
子供の時より真の武士になる事を夢見ていた近藤・土方にとって、会津藩預かりの立場から更に会津藩お抱えへと出世することを何よりも望んでいた事もあり、その為にも芹沢暗殺は何としても遂行せねばならなかった。
 
そこで土方は手始めに芹沢派の副長・新見錦に切腹を迫ったのである。
 
新見は、土方と同じく副長の地位にあったが、近藤率いる試衛館派が自分たちを粛清しようと考えている事を知るや水戸藩屋敷前の呉服店をわざと襲い、店の通報を受けて駆け付けた水戸藩捕方のお縄にかかってしまう。
 
芹沢も新見も水戸藩の脱藩者であったが、芹沢の二人の兄は現役の水戸藩士であり、捕まると見せかけて実際には水戸藩の保護を受けようと目論んだのである。
 
案の定、水戸藩捕方は、新選組の屯所を訪れて強談判で芹沢の身柄引き渡しを要求するが、近藤は芹沢が新選組の筆頭局長であり、かつ会津藩お預かりの立場にあるとして要求を一切拒絶してしまう。
 
新見は、この計画が試衛館派に見破られた事を悟り、自らの意志で新選組に戻るが、これが局中法度に書かれている脱退行為に該当するとして土方は傲然と新見に切腹を迫ったのである。
 
新見はそれにあっさりと応じ、祇園にある「山緒」という貸席の座敷で自刃した。彼を介錯したのは、試衛館派と芹沢派の両方に属していた永倉新八であった。
 
死ぬべきでない人を斬ってしまったということで、その以来永倉は深刻な人間不信に陥り、芹沢暗殺の夜も実力行使で計画を阻止しようとしたが、それを斎藤一に力尽くで抑えられてしまうのである。
 
史実における新見錦がどのような人物であったが確かではないが、物語における新見は道理をわきまえた人間として描かれている。
 
上洛以来、壬生村の前川家と八木家に屯所を構え、平然と衣食住の世話をしてもらっていた隊士たちであったが、誰一人として両家に金を渡す者がいなかったのである。
 
こうした中で、時々隠れて両家の女将に申し訳ないとしてお金を渡していたのが新見錦だったのである。
 
かたや、同じ副長でも土方歳三の狡猾さは抜きに出ていた。
新見錦に切腹を迫ったり、芹沢鴨暗殺の首謀者であっただけではない。
 
最愛の人、輪違屋糸里を事もあろうに、芹沢派の助勤である平間重助に差し出してしまったのである。
 
平間は四十絡みの男であったが、見た目はそれ以上に老けていて歯も抜けて垢だらけ顔をしていた。
 
こんな爺さんに16歳の生娘を差し出すというのは、誰が考えても信じられない話であった。
 
しかし、このくだりは、芹沢鴨が暗殺された当夜、事件が起きたとされる八木家の別室で平間と糸里が同衾していたという史実に基づいて描かれている事を忘れてはならない。
 
いったいどうすれば小汚い平間と美しくて若い糸里が結びついたのか今となっては知る由も無いが、浅田氏は土方が平間に糸里を差し出した事にしたわけである。
 
そもそも土方は平間にそれだけの義理があったわけではない。
平間の主人である芹沢鴨が土方を屈服させる為にわざと糸里を平間に差し出せと言ってきたのである。
 
芹沢は、土方が糸里と恋仲であるとして当然それを拒絶するものと考えていたし、そうだからと言って別段罰を与えるつもりもなかった。戯れに訊いただけの事である。
 
しかし、芹沢の意図に反して土方はそれを真に受け、糸里を本当に平間に差し出したのである。
 
この時の糸里の心境たるや如何許りか計り難いものがあるが、糸里は土方が出世する為ならばと進んで自分の身体を平間に明け渡したのだった。
 
また、平間の情けない身の上に同情もしていた。
平間には糸里と同い年の娘がいたのだが、主人である芹沢鴨に付き従う為、娘と生き別れたのである。
 
くわえて芹沢は酒に酔うたびに肚立ち紛れに平間を打擲するので、平間の顔は痣だらけで歯も抜けてしまっていた。
 
見れば見るほどに醜い男であったが、そんな憐れな平間に糸里は深い同情の念を抱いていたようである。
 
 
一方、糸里の親友である桔梗屋の芸妓・吉栄は、新選組助勤の平山五郎と肉体関係になっていた。
 
二人が逢い引きを重ねていたのは島原花街近くにある仕舞屋(しもたや)の一室である。
この近辺の仕舞屋はもぐりで曖昧宿を営んでいたのである。今で言うところのラブホテルという訳だ。
 
平山五郎は、神道無念流の剣豪であったが、隻眼のいかめしい面構えという事もあって誰も彼に近づこうとはしなかった
 
そんな平山であったが心根はとても優しく、桔梗屋の吉栄はいつの日か平山と結ばれる事を夢見ていたのである。
 
しかし、芸妓である以上、身請けするには大変な金が必要であり、もとより平山にかような大金があるとも思えなかった。
 
そんな行先の見えない恋ではあったが、吉栄がやがて平山の子供を身籠もると事態は一変していく。
 
悪魔のような土方歳三が突然耳元で囁いた。
 
所詮、平山との恋は実らないのだから、是非とも芹沢鴨の暗殺に手を貸して欲しいというのである。
 
新選組の屯所がある八木家の座敷で一席設けるので、芹沢の酒に睡眠薬を盛って欲しいというのである。
 
芹沢を殺すという事は、その助勤である平山も死ぬ事を意味していた。
しかし、最愛の恋人・平山五郎の殺害にも吉栄は何故か同意してしまう。
 
土方が言うように平山と吉栄の恋は実らぬものだと彼女自身知っていたし、芹沢暗殺に協力すれば土方が会津藩に取り計らって吉栄を芸妓の最高位である太夫にあげる為の支度金を工面してくれるというのである。
 
芸妓の道に一度進めば二度と普通の娘には戻れない時代である。
 
普通の娘のように結婚して子供を作る事が許されぬ身の上ならば、芸妓の最高位である太夫になる事がたった一つの生きる目的だっと言える。
 
こうして、吉栄は土方の計画に乗り、親友の糸里ともども芹沢とその一派の隊士に睡眠薬の入った酒を飲ませ、彼らを深い眠りへと誘ったのである。
 
芹沢はその夜、八木家の座敷で彼の愛人だった西陣の呉服商菱屋の女将・お梅と同衾していた。
 
篠突く雨の中、座敷の中にいた糸里の合図に乗じて、新選組一番隊組頭の沖田総司が刀を抜いて猛然と走りながら座敷に駆け上がり、布団の中にいた芹沢を体を一突きにする。
 
しかし、芹沢もそれに抵抗し、刀架から矢庭に刀を抜くと白刃が空を舞い沖田の顔に僅かな刀傷を負わせたのである。
 
生ける沖田と死せる芹沢の対照性が際立ったシーンであるが、実際には沖田もまた死に至りつつあったのである。
 
労咳を患っていた沖田は早くも自分の死期を悟っていたし、芹沢暗殺という大仕事を果たしたのち、雨の路地裏に倒れ込んで人知れず喀血するのであった。
 
 
さて、悪役の土方歳三は、芹沢暗殺後の現場で口封じの為に、あろうことか糸里と吉栄をその場で斬り捨てようとしたのである。
 
この時、糸里は自分を奮い立たせて一世一代の啖呵を切る。
つまり、女を斬るというのは女が怖いからであり、それは本当の侍のする事ではない。土方は百姓の出自だから女が怖いのだと言ってきたのである。
 
流石にそこまで言われては男土方の立つ瀬がなく、実際に彼の全身は怖気が充満して刀を持つ手さえ震えていたのである。やはり土方は百姓根性の持ち主だったのである。
 
そんな悪役ばかりの土方であったが、彼にも人間として血の通った部分がしっかりと描かれている。
 
土方の子供時代の話。
末っ子として生家で育った歳三は、悪戯ばかりしている子供で家族から煙たがれていたのである。
 
そんな歳三にとって家族で唯一心を許せたのが長兄の為次郎であった。
為次郎は生まれつき盲目であり、それゆえ家督を継ぐ事が出来なかった。
 
そんな憐れな身の上ではあったが、為次郎はとても心優しい人であり、常に末っ子の歳三の事を案じていた。
 
歳三もまた為次郎の目となり杖となって常に兄の日常生活を支えていたのである。
 
そんな歳三は、11歳の時に上野の松坂屋に奉公に出されるが、番頭や手代と喧嘩をして店を飛び出してしまう。
そして、徒歩で実家のある日野まで歩いてきたのだが、親戚の好意で奉公に出されて僅か数日で出戻ってきたとあれば、家人に合わせる顔もなかった。
 
そんな時に彼を心の目で真っ先に発見したのが長兄の為次郎であった。
為次郎は、歳三のために自ら土下座して謝罪し、それでようやく歳三は許されるに至ったのである。
 
後年、土方が糸里に初めて会った時、彼女が弱視である事を真っ先に見抜いてしまう。
 
それは幼年時代に盲目の兄に付き添った経験ゆえであったのだが、土方は糸里を不憫に思って眼医者へと連れて行き、当時大変高価だった眼鏡を彼女に与えたのである。
 
土方の糸里に対する愛情は非常に独特のものであった。単に恋愛感情というものだけではない何かがあった。
きっと弱視の糸里を盲目の兄・為次郎と思い重ねていたのかも知れない。
 
この物語の素晴らしいところは、すべての登場人物の性善的なところと、性悪的なところは見事に書き分けているところにあると思う。
 
思えば、どんな人にも良いところもあれば悪いところもある。
しかし、とかく時代劇的な世界観となると勧善懲悪に偏る嫌いがあるのも事実。
 
この物語の良さは、悪人は悪で善人は善という極端な書き方はせず、善悪交々の心情の変化を儚く描いているところではないだろうか。
 
まさにそれこそ生身の人間劇である。
 
これで悪人呼ばわりされながら現在に至っている芹沢鴨も幾分浮かばれることだろう。
 
 
そして、最後のシーンがまた素晴らしい。
 
結果的に吉栄は太夫にはならずに、お腹の子供を育てるために、糸里の故郷・福井の小浜で静かな日々を送ることになったのである。
 
かたや、糸里は芹沢鴨暗殺で重要な役割を果たしたとして、後日、京都守護職松平容保に召し出される。
 
そして、容保公の御前で一首の和歌(君がため  惜しからざらむ  身なれども  咲くが誉や  五位の桜木)を詠むのだが、その歌に感じ入った容保公より「桜木太夫」の名前を拝受することになる。
 
松平容保公より支度金が下賜されて晴れて桜木太夫となった糸里は、輪違屋から角屋へ至る道中を、錦糸の大裲襠に絢爛豪華な櫛笄という出で立ちで、高下駄を内八文字に動かしながらゆっくりと優雅に練り歩くのであった。
 
島原花街一の老舗である角屋には、会津の松平容保公と、水戸出身の一橋慶喜公が、桜木太夫がやって来るのを今か今かと待ちわびていたのである。
 
同じ親藩でありながら、幕末期に立場を異にした会津藩と水戸藩。
物語のクライマックスで、松平容保と一橋慶喜の二人を和解させたのは何とも憎い演出ではないか。
 
そして、浅田氏の一番心憎い演出といえるのが、糸里を桜木太夫にさせたという演出である。
 
現在も茶屋として営業している輪違屋の記録では糸里という芸妓の名前は残っていない。
 
一般的に糸里と桜木太夫は別人であると考えられるが、糸里ほどの芸妓がなぜ輪違屋の記録に残っていないのかという疑問から始まって、最終的に糸里を桜木太夫に仕立てた浅田氏の推理は案外当たっているかもしれない。
 
桜木太夫もまた実在した芸妓であり、こちらは輪違屋の記録にしっかりと残っている。
 
桜木太夫はその後、桂小五郎の恋人として歴史上にその名を残し、木戸孝允の死後には伊藤博文の愛妾になったとされる。
 
そして、明治42年に哈爾濱にて伊藤博文が暗殺されると、桜木太夫は剃髪して尼となり、京都西加茂で静かに余生を送ったとされている。
 
歴史の主人公は男ばかりではないという事を改めて感じされる素晴らしい物語であった。
 
ご興味がありましたら是非ともお読みいただければと思います。

 

 

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